第36話 社交ダンス
ゴールデンウイークの連休が明けた翌週におこなわれた中間試験も無事終了すると、入学、課外活動への参加、連休、試験と一月半の間慌ただしかった学園生活もようやく落ち着きを見せ始める。
といっても一学期の行事は他にもいくつか予定されているし、月の後半にもなれば梅雨にも突入するのでのんびりと、というわけにはいかないが。
ちなみに試験の結果は陽斗的にはホッと息をつける点数を取ることができていた。
黎星学園では試験結果を貼り出すといったことはせず、順位も通知していない。順位付けして競争意識を煽ることを重視していないためだ。
ただ、各科目の点数毎に偏差値が公表されており、生徒はそれを見て自分の大まかなレベルを把握することができるようになっている。
陽斗の場合英語以外の主要教科では学年上位に入ることができているようだった。
念願とも言える黎星学園での高校生活。
陽斗は授業のみならずクラブ活動や生徒会など、精力的且つ実に楽しそうに日々を過ごしている。
陽斗から見るとこの黎星学園は想像していたよりもずっと刺激的でそれでいて周囲の人達はとても優しく親切な人ばかり。
友達と呼べるほど親しくなった人はまだそれほど多くはないが、それでも話しかければきちんと答えてくれるし、向こうから声を掛けてくれることも多い。
当初はどちらかといえば女子生徒とのほうが話をする機会が多かったように思うが、最近では男子生徒もよく話しかけてくれるようになってきたところだ。
そんなふうに充実した毎日を明るく送っていた陽斗であったが、この日は珍しくなんとも憂鬱そうな表情をチラチラと覗かせていた。
その理由はその日のカリキュラムにある。
陽斗の入学した黎星学園のカリキュラムにはいくつか他の学校とは異なる部分がある。
私立学校は特色を出すために独自のカリキュラムを用意していることが多い。
特定の分野に力を入れたり、学校外の活動を支援したりと学校によって様々ではあるが、ここ黎星学園ではそれがより顕著になっている。
まず音楽や美術といった芸術系では実際にそれらを実践してみることよりも、聴く、見る、といった鑑賞することを主眼としたカリキュラムになっており、真贋や歴史背景、沿革、社会に対する影響など、むしろ教養の部分を重視している。
語学は実践的なビジネス会話や現在発売されている文学作品などを教材とした、実際に活用できる語学力を身につけること。さらに社会科では日本を中心に、関係の深い諸外国の歴史、特に現在まで影響が残る15世紀以降の近現代史と各地の産業や諸問題などがカリキュラムの中心だ。
他にも科目ごとに小さな違いは様々あるのだが、それとは別に黎星学園ならではのカリキュラムとして“教養”という授業が毎週2限割り当てられている。
この教科は内容が特に限定されておらず、実際の社会に出たときに実践できるような様々な場面でのマナーや一般教養などを外部の講師を招いて生徒に教えている。
例えばビジネスマナーや挨拶、手紙などの国別の礼儀や食事のマナーなど、実社会で人と関係を構築するのに必要な教養を身につけることを目的としている。
成績としては記録されるものの基本的に進級や内申には影響しない科目なのだが、実社会において極めて有用で、且つ、普通の学校では学ぶことのできない内容なので軽く扱うような生徒はこの学園にはいない。
もちろん陽斗もそうではある。のだが、陽斗の表情がこの日に限って優れないのは今回の内容が“
日本においては上流階級と呼ばれるような資産家達の社交の場であっても社交ダンスを踊る機会というのは実際にはほとんど無いが、欧米の社交界では今でもダンスを踊る機会というのはそれなりにあるらしい。
もちろん踊らないからと不評を買うほど狭量ではないのだが、それでもそういった機会に接したとき、最低限踊れるに越したことはないのである。
そして、この黎星学園に通う子女はそういった場に参加する可能性が高い生徒が多いため授業に組み込まれているわけだ。
とはいえ、一言で社交ダンスといっても一般的なものだけでもその種類はワルツ(スローワルツ)、ヨーロピアン・タンゴ、フォックストロット、クイックステップなどいくつもあり、覚えなければならないステップも沢山ある。
さすがに全てを授業で教えることはできないのでもっとも基本的な社交ダンスであるスローワルツで最低限覚えるべきいくつかのステップを習うことになる。
良家の子女ばかりなので子供の頃から習っているという生徒もそれなりにいるのは確かだが、それでも半数以上は未経験らしい。
中等部でも“教養”の授業はあるが月に一度、それも1限のみなのでダンスなどはおこなっていないからだ。
もちろん陽斗は未経験どころか映像ですらほとんど見たことが無かったのだが、何事にも意欲的に頑張る少年のこと、社交ダンスも事前にしっかりと、屋敷のメイド達の協力の下、予習に励んではいた。
のだが、残念なことに陽斗はあまり、というかかなり運動が苦手だ。
体力自体はそれなりにあるのだが、如何せん平均を大きく下回る小ささなので身体能力は低い。
加えて、社交ダンスというのは基本的に男女がペアになって踊るという関係上、男性が女性をリードする形になり、ステップにしても上体の動きにしても男性のほうが女性より大きいことが前提となっている。
そしてこれこそが最大の問題で、陽斗より身体の小さな女性は、メイド達にもクラスメイトにも1人も居ないのである。
なんとか基本的なステップだけは頭と身体に詰め込んだものの、実際に陽斗より背の高い女性と踊ると歩幅がまったく合わず、相手の足を踏んだり転んでしまったりするのだ。
唯一上手くできたのは、警備班のメンバーの娘(小学3年生)が相手をしてくれた時だけだったのだからその苦労が忍ばれる。
顔色が悪いわけではないのだが、陽斗の様子に気付いた穂乃香が声を掛けたことで自分の感情が顔に出ていたことを知り反省した陽斗が頬を叩いて気合いを入れ直す。
周囲の生徒はそんな陽斗をホッコリと見ていたりしたがそれに気付くことはなくなんとか午前の授業が終わりを迎えた。
そして午後。
最初の一限は社交ダンスの歴史や基本的な種類の解説など、座学で教養を深める内容となっていた。
これに関しては陽斗も教科書や重斗が用意していた書庫にあった資料で予習ができていたため問題なく聞くことができた。
そして2限目がダンスの実技指導となっている。
クラスの男女比が若干偏っていて女子生徒のほうが多いこともあって、あぶれる女子生徒同士が組んでいるペアもある。組み合わせは担任の筧先生が決めたらしい。
穂乃香をはじめ、数人の女子生徒が陽斗とペアになれなかったことを残念がっていたがこればかりは仕方がない。
主に男女の身長差を考慮した組み合わせらしく、女子生徒同士のペアでは男女の役割を交代しながらするようだ。
ペアが2組で4人が1グループになり、一通りのダンスとペアの交代を練習するということになっている。
そして、陽斗の相手になったのは、
「西蓮寺君、よろしくね!」
陽斗よりは背が高いが、それでもおそらくは150センチはなさそうな小柄な女子生徒だ。
陽斗の所属する1年4組は男子も女子も比較的背の高い生徒が多い。
高校1年身長の全国平均は男子が168.3cm、女子は157.2cm(令和元年度)らしいが、それよりも2、3センチは高そうである。
なので、陽斗を除けばこの女子生徒、
陽斗とのペアは必然と言えるだろう。
そしてもうひとり、副担任である小坂麻莉奈である。
陽斗のクラスは生徒数が30人。
4人ずつでグループ分けをすると7組プラス2名となる。
陽斗と藍子はその身長差もあって他の人達と組むことができないためパートナーのチェンジを練習できない。
そこに同じく小柄な麻莉奈が補助的に加わる事になったというわけだ。
元々この教養の授業は外部の講師を招いておこなわれることが多く、今回もまたその例に漏れないが、担任の筧と副担任の麻莉奈もその補佐という形で参加している。
役割は手本を見せたり講師のアシスタントをしたり個別指導の手伝いをしたりといったことだ。
そして今回のダンスも筧先生は講師の先生とペアを組んで模範演技をおこなったり分かれて個別に指導を行う。
麻莉奈も指導の手伝いなのだが、麻莉奈は女性としてもかなり小柄な部類で藍子よりもほんの少し背が高い程度でしかない。
当然他のペアの指導や手本は難しいのと、逆に陽斗達の指導には最適だということでほぼ専属で陽斗と藍子の指導をすることとなった。
実は麻莉奈はそれなりの家柄の出自とはいっても社交ダンスの経験はなく、今回のために採用直後からみっちりと練習を重ねてきたのだ。
もちろんそれは陽斗と密着ダンスを堪能するため、ではなく、黎星学園の教師として採用されたからには必要なスキルであると考えたからだ。
なので、女性パートだけでなく男性パートのステップもしっかりとマスターしている。
まぁ、陽斗とのダンスの機会を虎視眈々と狙っていたのは否定できない事実なのだが。
「はい。それでは実際にパートナーと踊ってみましょう。
男性パートの女子生徒はステップは気にせずペアのサポートに徹してください。合わせられればそれで良いので」
女性講師の言葉を合図に生徒達がペアと連れ立って広がる。
ちなみにダンスの実技講習がおこなわれているのは特別教室棟にある多目的教室で通常の教室の数倍の広さと高さがある。
陽斗も藍子と麻莉奈と一緒に比較的隅に近い場所へ移動した。
はじめは順当に陽斗と藍子がペアになる。
そして全員の準備が整うのを待ってからワルツのゆったりとした音楽が流れはじめた。
「あ、えっと、わっ」
藍子と向かい合って左手を伸ばし手を繋ぎ、左手は藍子の脇の下側から肩の後ろに掌を添える。
別に身体を密着させるわけではないのだが陽斗だって多感な青少年である。
異性と手を繋いで息が掛かるほど顔を近づけることに恥ずかしさを感じてしまう。
高校生になったとはいえこれまで生きるのに精一杯で色恋に縁遠かった純真な少年としては刺激が強すぎる。
屋敷のメイド達はことある毎にスキンシップを取ってくるが、陽斗にとっては年上のお姉さんばかりであり、ドキドキしたりはするものの可愛がられてる感が強いのでそこまで戸惑うことはないのだが、今の相手は同級生だ。ドキドキするよりも恥ずかしいという思いが強い。
しかし曲が流れ出すとそれどころではなくなる。
覚えたステップを必死になってなぞろうとするのだがすぐにリズムが崩れ、上半身と下半身の動きがバラバラになってしまう。
運動が苦手な人の特徴として、頭で考えたイメージを身体で再現できないというものがあるのだが、陽斗もまさにそれのようで自室で一生懸命練習したステップは脳内にしっかりとインプットされているのに、いざこうしてパートナーと手を取り合って踊ろうとすると動きがちぐはぐになってしまい、それがさらに次の動きを妨げるという悪循環である。
やはりダンスのできるメイドに教わりながらとはいえひとりで練習するのには限界があったということだろう。
「西蓮寺君、そんなに慌てなくても大丈夫だよぉ」
なんとか崩れたリズムとステップを立て直そうと奮闘中の陽斗にパートナーとなった藍子がのんびりとした口調で落ち着くように促す。
「あ、えっと、ごめんなさい」
声を掛けられたことで、音楽が始まってから陽斗は足元しか見ていなかったことに気付く。
改めて周囲を見回すと、ワルツの音楽は続いていてもあちこちで足を止めて講師や筧先生から指導を受けたり、パートナーと仕切り直しをしているのが見えた。
考えてみればこれは授業だ。
特に全員が全員、ダンスの経験があるわけでもないし、当然予習などはしていることが前提とはいえ習熟度に応じて指導は必要なはず。
「陽、っと、西蓮寺君、一旦止めて。一度ペアを交代しましょう。申し訳ないけど神楽坂さんは少し見学に回ってもらえる?」
「は~い。西蓮寺君、頑張ってねぇ」
不満そうな顔をすることもなく藍子が麻莉奈と交代し、少し離れたところまで移動する。
改めて麻莉奈と向かい合う陽斗。
藍子とは違い麻莉奈は昨年末から春までほとんど毎日顔を合わせていた相手だ。もちろん気恥ずかしさはあるのだが緊張まではしない。
そうして落ち着いてみると麻莉奈や藍子と陽斗の身長にそれほど差がないことにようやく気付く。そんなことすら気付いていなかったところに陽斗の緊張の度合いが現れているようだ。
事情を知っている麻莉奈はそれを陽斗が過去の境遇から極端に失敗を恐れているせいだということに気付いてはいたが、こういったことは時間を掛けて『失敗しても大丈夫なんだ』と心から思えるようになるしかないと思っている。
「さぁ、西蓮寺君、落ち着いてひとつずつやっていきましょう。最初からできる人なんていないんだから大丈夫。
まずはステップは気にしないで音楽に身体をあわせてね」
「は、はい」
相当な特訓を詰んだのか、麻莉奈は一つ一つ丁寧に染みこませるようとするかのように指導し、陽斗はなんとか辿々しいながら曲が終わるまで踊りきることができるようになったのだった。
藍子の方はといえば、元々経験者だったのか麻莉奈が2、3指摘した程度で余裕の表情だったのだが。
その後はパートナーのチェンジなどを練習したりペア同士で感想などを言い合ったりする。
一通りの指導を終えた麻莉奈も別のペアのところに呼ばれ立ち去ると、後には陽斗と藍子が残される。
その藍子はといえば、ダンスを終えて少しばかりホッとした様子の陽斗に視線を向けながら満面の笑みである。
陽斗よりは大きいとはいえかなり小柄でちょっぴりふくよかな体型、垂れ気味の大きめの目を持つ彼女はもうひとりのマスコットと呼ぶべき生徒である。
性格は明るく、活発なこともあって中等部の頃から他の女子生徒から可愛い妹のような扱いを受けているらしい。
ただ陽斗とは挨拶こそすれどほとんど話をしたことはなかった。
どうやら中等部時代に大失敗をして穂乃香に恥をかかせたと本人が思い込んでいるらしく、穂乃香自身はわざとしたわけではないので怒ってないのだが、それ以来穂乃香に対して萎縮してしまい自分から近づこうとしなくなってしまったそうだ。
結果、穂乃香と一緒に居ることの多い陽斗とも接点があまりなかったというわけだ。
実は可愛いものが好きな様子の穂乃香としては残念でならないだろう。
「ねぇねぇ、西蓮寺君、お誕生日っていつなの?」
いきなり藍子が陽斗の顔を覗き込みながらそんなことを聞く。
「え? えっと、僕の誕生日は、3月14日だけど」
生まれて初めて祖父や屋敷の使用人達に盛大に祝われ、感動のあまりみっともなく泣きじゃくってしまった。
そのことが恥ずかしくてたまらない反面、それ以上の喜びで胸がいっぱいになった、とても大切で忘れられない日になったのだ。それからまだ二月ほどしか経っていない。
そんなことを知るよしもない藍子は、ニッパァとさらに笑みを深めて嬉しそうに何度も頷く。
「ねぇ、西蓮寺君、ちょっとお願いがあるんだけどぉ」
にじり寄る藍子にちょっと仰け反る陽斗。
「な、なんでしょう? その、ち、近いです」
同じマスコット系にクラス内カテゴリーされていても、どうやら藍子は結構押しが強いタイプらしい。
「えっとね? その、私の事、『お姉ちゃん』って呼んでみてくれない?」
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