第19話 陽斗の鍛錬

 暦の上ではとっくに春になっているとはいえ、3月半ばの早朝はまだかなり空気が冷えていて吐く息は白い。

 そんな中、陽斗は皇邸の広い庭園に設けられた遊歩道のような小道を走っている。

 まだ日が出たばかりであり、多くの人が布団にくるまりながら眠っているであろう時間だが陽斗に眠そうな様子は見られず、それどころかどこか楽しそうですらある。

 

 小学生にしか見えない体格で、実際に筋力は見た目に似合う程度しかない陽斗なのだが、意外にも割と体力はある方だったりする。

 中学に入ったばかりの時から朝夕と毎日新聞配達をしてきたのだから長距離を走ることだけは得意だと言えるほどに鍛えられているのだ。

 もちろん当時は十分な栄養を摂れていなかったこともありその体力を実感する機会はほとんどなかったが。

 

 30分ほど、それほど速くないペースで庭園を走っていた陽斗は、四阿の脇の芝の植えられているスペースに腰を下ろしてしばらく息を整えると、今度は柔軟体操を始める。

 ちなみに陽斗は誰にも見られていないと思っているが、実際には庭園内も24時間態勢で監視カメラによって警備員に見られているし、巡回の警備員も陽斗に見つからないよう(気を使わせないよう)に見守っている。

 さらに、早出担当のメイド数人も時にハラハラ時にほっこりと建物内や物陰から見ていたりする。

 屋敷の使用人達は、最初は陽斗のこれまでの境遇に同情して優しくしていたのだが、実際に陽斗と接してその誰にでも礼儀正しい受け答えや常に一生懸命なところ、穏やかで思いやりがある人柄を知って、今では誰もが陽斗に好意的に接するようになっている。

 むしろ溺愛する重斗に影響されてか、過剰に甘やかそうとすらしている始末だ。

 

 そんなふうに屋敷中から温かく見守られながら、陽斗が身体を解し終わった頃、近づいてきたのはラフなトレーニングウェアを着た男女だった。

「あ、おはようございます!」

「陽斗様、おはようございます」

「おはようございます陽斗様。すっかり準備はできているみたいですね」

 近づいてくる人影に気がついた陽斗は慌てて立ち上がり気をつけをして頭を下げる。

 2人はそんな陽斗に困ったような笑みを浮かべつつ挨拶を交わした。

 

 やってきた男女。

 1人は皇家の警備班の班長を任されている壮年の男であり、警備班に向けた新年の訓示でエキサイトしていた人物でもある。

 もうひとりも警備班として務めている女性警備員だ。

 こうしてふたりが早朝に陽斗のところに来たのは陽斗の訓練に付き合うためである。

 

 無事に志望校である黎星学園に合格した陽斗だったが、早々に進路が確定したために公立高校を受験する必要が無くなってしまった。

 そうなると家事やアルバイトをしなくなった分時間を持て余してしまう。

 重斗が用意してくれた書庫に保管されている本を読むのを楽しんでいるのだが、やはりそればかりでは気詰まりだし運動不足にもなる。

 ということで、陽斗が警備員の訓練を視察したときから希望していた格闘技の訓練をすることになったのである。

 当初祖父である重斗は、単なる訓練とはいえ格闘技ともなればそれなりに怪我をする可能性があることや、実際に戦う能力などなくてもプロの警備員がしっかりと守っているということで難しい顔をしていたのだが、護身術程度なら身につけるのは悪いことではないし、エクササイズの代わりとして運動不足を予防するため、何より陽斗が『やってみたい』と強く希望したことで習うことになったのだ。

 

 もちろんその分教える側のプレッシャーときたら半端なものではない。

 絶対に怪我などさせるわけにはいかないし、陽斗にも満足感を得られるように上達を実感させなければならない。

 本人は少々辛かったり痛かったりは覚悟の上なのだが、天井知らずの爺馬鹿とわずかな傷すら許さないとばかりに監視の目を強めるメイド達、邸内や陽斗の状況に関する報告をおこなう役目を持ち警備部門の予算を割り振りする権限を持つ執事達に囲まれて胃薬が手放せなくなっている警備班班長なのである。

 一方、陽斗はそんな状況に気付くことなく、教わったトレーニングを喜々としてこなしていた。

 

「それじゃ、今日はミット打ちをやりましょう。ミットは自分が持ちますから、フォームの指導は角木すみぎがやります。きちんとしたフォームで打たないと手首や足を痛めますから、まずは正しい型を覚えてください」

 そう言って班長(名前は大山 辰敏)はキックボクシングのトレーニングで使うような腕全体を覆うような大きさのミットを両手につけて構える。

「は~い! 角木 杏子すみぎ きょうこです。杏子って呼んでくださいね! えっと、まずは私が手本を見せますねぇ。突きは手首をしっかりと固定して真っ直ぐに突き出すイメージで打ちます!」

 シュッ! ズバンッ!

 風を切る音と、ほとんど同時にも聞こえるミットを叩く強く痛そうな音。

 指導役に選ばれるだけあって比較的小柄な体格からは想像できないほど様になっている。

 それもそのはずで、彼女は大学時代に全日本学生空手選手権で女子組手50kg級準優勝の経歴の持ち主だ。

 

 手本を見せた後、陽斗に構えさせて姿勢を矯正していく。

「構えはこう。そうです。拳を突き出すときは拳から肘まで真っ直ぐな棒が入っているようなイメージで」

 杏子が構えから突きまでの動きを教え、陽斗は杏子の動きを真似する。

 何度か素振りで型を確かめた後、いよいよミットに向かう。

 通常はしっかりと型稽古を叩き込んでからおこなうのだが、別に本格的に修練させる必要があるわけではないので陽斗が楽しめるやり方を優先するのだ。

 

「最初から力一杯打とうとしないで、少しずつ勢いをつけていってくださいね」

「はい!……えい!」

 パスン。

 ペシン。

 ペチ……。

 

 フォームはそれほど悪くない。のだが、どういう訳か陽斗がミットを打っている姿はピョコ、ピョコという擬音が出ていそうな感じで、ミットに当たる音も実に頼りない。

 というか、傍から見ているとまるで仔犬が母犬にじゃれついて飛びかかっているような感じであり、実際に受けている大山の腕にほとんど衝撃が伝わってこない。

 これでは幼稚園児すら泣かすことができるか怪しいものである。

 

 大山と杏子が顔を見合わせる。

 指摘して良いものか、悩ましさが第一だ。

 本人はもの凄く真剣にやっているのが大山達にも伝わっているし、どことなく楽しそうでもある。

 なにより、その仕草は可愛らしさすら感じずにいられない。

「え、えっと、陽斗様、キックもやってみましょうか」

 気分を変えるために中段蹴りも教えることにする杏子。

 

「軸足でしっかりと地面を踏みしめて膝をここまで上げます。それからバネを弾くように、こうっ!」

 ビュッ! ズダンッ!!

 突きよりもさらに重そうな音がミットから響き、重量級の体格を持つ大山の上体がぶれるほどの勢いで蹴りが叩き込まれる。

「わぁっ! 凄い!!」

 キラキラとした目で杏子の勇姿を称える陽斗。

 フフン、とドヤ顔で大山の顔を見る杏子。

 警備員の中では一番小柄で陽斗に体格が近いため指導役に抜擢されたのだ。

 今や警備員の中でも陽斗人気は高く、杏子は初めて小さく産んでくれた両親に感謝したくらい。

 普段からかわれることが多い分、陽斗に憧れの目で見られることに優越感を満足させる。

 その表情にムカッとして大山の額に一瞬青筋が浮かぶが、陽斗の前で怒るわけにもいかずなんとか堪えた。

 

 再度杏子によって構えと動きが指導され、ミットに向かう。

「えいっ!」

 パシッ。

 ペコッ。

 …………可愛い。

 

「よ、よし! 今日はここまでにしておきましょう。あまり無理すると関節を痛めますからね」

「そ、そうですね。次回からは今日のお復習いと、護身術、というか防御とか逃げる方法とかをやっていきましょう」

 微妙な空気になる前に大山が訓練を切り上げることにしたようだ。

 そんな気遣いには気付かず、陽斗は嬉しそうに「ありがとうございました!」と頭を下げ、いつの間にやらすぐ近くに来ていたメイドにタオルを渡されつつ促されて家に入っていったのだった。

 

 無言で陽斗を見送った大山と杏子。

 どちらの表情にも空笑いに近い色が浮かんでいる。

「……えっと、陽斗様にはあんまり向いてない、みたいですね」

「まぁ、そうだなぁ。

 元々極端に小柄だし、筋力も無いみたいだからそりゃ仕方がないだろう。あの体重じゃどっちにしろそれほど威力は出せないだろうしな。

 ただ、どうもミットに当たる瞬間無意識にブレーキを掛けてる感じがするんだよなぁ」

 腕組みをしながら首を捻る大山。

 

「? どういう事ですか?」

「心理的な専門家じゃないからはっきりしたことは言えないが、陽斗様ってクソ野郎に虐待受けてたっていう話だろ? なんか無意識に暴力的な動きを拒否してるんじゃないかって気がするな。性格的に優しいから人を傷つけるのを恐がってるって部分もあるかも知れんが」

 その言葉に腑に落ちたという感じで杏子が頷く。

 

「なる。あ、でも、それを指摘して治してとか、してもいいんでしょうかね」

「それはわからん。後で渋沢(彩音)にでも聞いとくか。

 ただ、角木が言ったように防御とか不意を突いて逃げる方法なんかは教えておいた方が良いかもなぁ。護衛が常につくとはいっても四六時中側にいるのは不可能だし、保険的な意味合いで」

「あ、私、柔道も段持ちなんで!」

「言っておくが、普通に考えて想定するのは成人男性相手だろうが。お前が教えるにしても手本を見せるために別の警備員と組手するだけで直接陽斗様と組手なんてさせんぞ」

 良い事考えちゃったとばかりに手を挙げる杏子に大山が釘を刺す。

 当然杏子は口を尖らせて抗議。

 

「え~!? むしろ警戒しなきゃいけないのは陽斗様をお持ち帰りしようとする雌豚共じゃないですかぁ! その時のためにも私がしっかりガッツリ寝技を……」

「させねぇよ!!」

 指導員である2人の喧噪を知るよしもなく、陽斗は一生懸命今日教わったことを脳内で反芻して、練習を頑張ろうと誓っていたのだった。

 

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