第16話 報恩謝徳
とある地方新聞の販売店。
「お~寒、寒ぅ! 社長! 夕刊終わったよぉ!」
「おう、ご苦労さん! ってか、随分早いな」
「夕刊取ってくれる家減ってるからしゃーないじゃん。あ、コーヒー貰いまっす!」
寒さに肩をすくませながら戻ってきた若い男が軽い調子で言いながらサーバーからコーヒーをコップに移すのを見て社長がため息を吐く。
「そう思うんならもうちょっと契約取ってきてくれや。継続だけじゃ部数減るいっぽうだ」
「あ、あははは、もうちょっとだけ暖かくなってきてからで」
「ったく、達坊なんか毎月新規契約取ってきてたんだぞ」
「いや、あれはズルイっすよ! あんな小さな子供が『契約お願いしますぅ』なんて訪問してきたら契約しちゃいますって!」
冗談めかして返す男の言葉に刺はない。
やっかむような事を言っていてもこの男も陽斗(達坊)の事は気に入っていたのだ。
軽口を叩きつつ、広告の折り込み準備をしていると配達に行っていた従業員達が続々と戻ってくる。
「社長、3丁目の白河さん、来月に施設に移るから契約今月いっぱいまでだってよ」
初老の男が戻って来るなり言った言葉にため息が出る。
新聞販売店は昨今どこも厳しい状況に置かれている。
ここのような地方紙の販売店、といっても別に地方紙だけでなく全国紙も扱ってはいるのだが基本的に地方紙の方が部数が多い。
そういった販売店の経営は日を追う毎に厳しくなってきている。
今やインターネットで様々なニュースや情報が手に入れられるようになっている。広告チラシですらタブレットやスマートフォンで見られる時代だ。
だからわざわざ毎月数千円も出して新聞を取る家はどんどん少なくなっているのだ。
無料で手に入れられるような情報を、ゴミの処分という手間を掛けてまで読みたいと思う世帯は時代遅れになりつつあるのだ。
新聞販売店の収益というのは実は購読料よりも折り込み広告の広告料の方が多い。そしてその広告料は販売数に比例してしまうのだ。
販売数が多ければその分広告料も多く入ってくる。
だから数ヶ月分の新聞代をタダにしたり、洗剤やチケットなどをプレゼントして契約を取っていくのだ。それに広告自体の数も増やしていかなければならない。
一般的には広告代理店が広告主を募集しているのだが、販売店が広告主を紹介すればその分のマージンも収入になる。
だが、その広告も今はインターネットに移り変わりつつある。
だから新聞販売店の経営は決して楽なものではない。
とはいえ、取ってくれているお客さんがいる以上は頑張って続けていこうと思っているが。
「そういえば達坊、どうしてるかなぁ。そろそろ受験だろ?」
「もう私立の学校受けたらしいぞ。結果は今月末らしいけどな。後は公立も受けるかもしれないってよ」
「え~っ! 社長のところには連絡あったのかよ、ずりぃ~!」
「うるせぇ! スマホ用意した奴の特権だ! まぁ、あっちの家はかなり良くしてくれてるみたいだから……」
手を動かしながら雑談に興じていたが、不意に鳴った電話で中断される。
「もしもし、大沢新聞販売店、え? あ、は、はい! はい! ほ、ホントですか? す、すぐ伺います! えっと、2、いや、15分くらいで! はい! ありがとうございます! 失礼します!」
どうせまた新聞の配達停止依頼かと思って電話に出た社長の顔が驚きから笑みに変わり、ご機嫌な様子で電話を切った。
「社長、どうした?」
「おう、悪いが拓さん、すぐに契約行ってくれないか? 大川町に電気機器会社の大きな工場あるだろ? その隣の社宅に新聞の配達して欲しいって。工場の総務が一括で契約してくれるらしい。今ならまだ総務に担当者がいるから来てくれって」
「お~!! で? 何部くらい契約してくれるって? 20くらいはしてくれるか?」
「聞いて驚け! 入居してる部屋全部に、270部だってよ! さすがに全部拓さんの歩合に乗せるわけにはいかないけどよ」
「マジかよ! す、すぐに行ってくる!」
滅多にない大口契約に慌てて飛び出していく拓さんと呼ばれた男。
と、直後にまた電話が鳴る。
「はい、大沢新聞販売店、あ、はい、あ、ありがとうございます……」
通話中に別の電話が鳴る。
「はい、もしもし、大沢新聞販売店、あ、すみません、今別の電話に、え? はい! わ、わかりました、明日ですね、伺います。場所は、あ、はい分かります。はい、ありがとうございました……しゃちょー! AK製作所から社員寮に新聞契約です! 72部! わ、また電話?!」
その後も次から次へと新聞契約の依頼の電話が鳴り続け、3本の電話回線が常に塞がっている状態がしばらく続いた。
ほとんどが契約の依頼、中には毎週折り込み広告を入れたいから代理店との仲介を頼みたいというのもあった。
しかも、この日だけでなく3日間ほどそれが続き、広告の依頼に関してはその後も頻繁に依頼があった。
「どうなってんだ? こりゃ?」
「社長、結局どのくらいの数増えたんすか?」
「3ヶ月先のまで合わせると4000部以上だな」
「いきなり配達数2.5倍じゃないっすか! 人足らないっすよ!」
「だな。とにかく募集しよう! あと、誰か働けるヤツ居たら紹介してくれ」
販売数が増えたのはなによりありがたいが、一気に増えすぎても人手が足りない。
依頼のほとんどが来月からであり、どう人をやりくりしても配達しきれない。
もとより新聞の配達員はあまり人気がない。朝は早いし集金や営業もしたら夜も遅くなる。休みが取れないイメージが強いし給料だってそれほど高くない。
現に販売店の店先には常に募集の紙が張りっぱなしだし、時々折り込みで募集しても応募などほとんど来ないのだ。
もう近隣の販売店から人を借りるしかないかと考えていると、外から店の中を覗き込んでいる男性の姿が見えた。
「あの~……」
「はい、何か?」
「配達員募集の張り紙見たんですけど、まだ募集してますか? 一応経験者ですし、営業も出来ます。あ、履歴書も一応もってきてるんですけど」
「す、すぐ対応します! 中へどうぞ!」
あまりにタイミング良すぎる応募だが、そんなことを気にしていられる余裕は無い。すぐに対応すべく男性を事務所に通す。
履歴書を見ても不審な点は無い。関東の販売店で10年近く働いていて、即決で採用する。こんな地方の販売店相手に騙そうって奴はそうそういないだろう。
「しゃちょー! 面接の応募がぁ!」
再び一斉に電話が鳴り始めた。
「どーなってんだ?!」
困惑しながらもまた忙しく走り回り始めた社長。
その顔は経営にひと息つけそうな期待で明るくなっていた。
「こりゃ落ち着いたらみんなに臨時ボーナスでも出してやらなきゃな」
市立の総合病院。
面会時間になるのを待って小児科病棟に女性が足を踏み入れていた。
40歳代半ばくらいだろうか、元はかなり整った顔立ちなのだろうが、今は疲れたような表情がそれを覆い隠してしまっている。
女性の子供がこの病院に入院しており、ほぼ毎日この時間になると病室へ訪れているのだ。
「あ、香田さん、ご苦労様です」
ナースステーションの前を通ると、病棟の看護師が親しげに挨拶をする。
もう既に入院が2年近くになっており、香田と呼ばれた女性がどれほど懸命に子供に愛情を注いでいるかを知っている看護師達は常に優しく接してくれていた。
いつものようにそのまま病室に向かおうとした女性を別の看護師が呼び止める。
「香田さん、先生がお話があるので医局まで来て欲しいって言ってました」
「え? あの……」
一瞬で不安そうな顔になった女性に、その看護師は慌てて言葉を付け足す。
「先生は良いお話だって言ってましたから、大丈夫ですよ! 私も一緒についていきますね」
そう言って女性の肩を支えるように手を回しながら医局へと連れて行った。
医局に着いて付き添ってくれた看護師が中に声を掛けると、すぐ横にある面談室に通された。
待たされることなく、すぐに子供の主治医の先生が入ってくる。
その表情は明るい笑みを浮かべている。本当にいい話なのだろうと、ようやく肩の力が抜けた。
「香田さん、とても良いニュースですよ。隆君が手術を受けられそうです」
「ほ、本当ですか?!」
医師が椅子に座るなり告げられた言葉に女性は思わず叫びながら身を乗り出す。
彼女の息子である隆は先天性の心臓疾患で、通常の生活が難しい状態にある。
すぐに命に関わるというわけではないのだが、自然に治癒することはなく、完治するには手術が必要だ。
しかもかなり難易度が高い手術を数回にわたって行わなければならず、国内にはこの手術が出来る医師は数えるほどしかいないらしい。
もちろん女性も手術を希望しているのだが、受けるためにはその医師のいる病院へ転院しなければならない。
医療費そのものは助成金などで負担が軽減されているとはいえ、転院ともなれば小さな子供一人だけというわけにはいかず、近隣への引っ越しなど経済的な負担は大きい。それに夫の仕事もある。
それに、そもそも手術を希望したからといって医師の予定が空いていなければどうにもならない。
当然それほどの技術を持った医師には全国から依頼が殺到しており、順番がいつ回ってくるかなど誰にも分からない。緊急度が高い依頼が優先されるからだ。
「僕の方から手術依頼は出していたんだけど、国内トップと言われる先生が受けてくれることになったんだよ。
それも、症例論文に使いたいからと最優先で、県内の大学病院で執刀してくれるらしい。そこなら香田さんも立ち会ったり面会に行ったりも出来る。あ、手術には僕も同席しますし、当面はサポートできますから安心してください」
「あ、ああぁ……」
女性が喜びに打ち震える。
子供の、学校に行けなくて寂しそうな顔やチアノーゼで苦しそうな顔を見なくて済むようになるかもしれないと思うだけで涙が止まらなかった。
医師も看護師もそんな彼女を温かな目で見守る。
女性の気持ちが落ち着くまで待って、具体的な打ち合わせを行う。
「あの、隆が手術を受けられるのは嬉しいんですけど、その、他の患者さんは大丈夫なのでしょうか? うちの子供のために誰かを押しのけてしまったりとかいうことは」
「香田さんは本当に優しいですね。
でも、それも大丈夫なようです。
なんでも、アメリカから高名な心臓外科医が来日してしばらくの間その方の代わりに執刀するらしいんです。どういう理由でかまでは知りませんけど。
だから、かなりの余裕が出来るらしくて、それもあっての話だと聞いています」
それを聞いて、女性は心の底から喜ぶことが出来るようになった。
病室で子供にも手術の話をし、子供も他の子と同じように走ったり遊んだり出来るようになるかもしれないと喜んでいた。
もちろん恐さはあるのだろうが、それ以上に希望を持てるのが嬉しいようだった。
そして病院から帰宅し、夫に報告するのを心待ちにしていると、いつもよりも早い時間に夫が帰ってくる。
驚きはしたが、それ以上に喜びがあった女性は玄関で夫を出迎えた。
「お帰りなさい!」
「うわっ?! ビックリした! えっと、ただいま。凄くご機嫌だけど、何か良いことあった?」
妻の様子にビックリしながらも、満面の笑みを浮かべている顔を見て夫も嬉しそうに聞いてくる。
「ええ! 少しでも早くあなたに話したかったの!」
「そうか。実は俺の方も良いニュースがあったんだよ。しかも、君のおかげでね」
夫の悪戯めいた笑みと言葉に女性は首を傾げる。
「とにかく、着替えを先にさせてもらうよ。その後でゆっくりと話そう」
お茶を淹れながら待っていると、それほど時間を置かずに夫がリビングに入ってきた。
「それじゃ、まず君の話を聞こうかな」
そう促され、病院で聞いた話を夫に伝える。
すると夫もまた喜びを爆発させ、彼女を強く抱きしめた。
「今日はなんて日だ。ひょっとして俺、明日には死ぬんじゃないか?」
縁起でもないと怒る妻の顔も笑顔のままだ。
「それで、あなたの方の良いニュースは何?」
「部長への昇進の内示が出た」
「ほ、ホント? 凄いじゃない!」
「でも俺の実力だけってわけじゃないんだよ。君がしたことの結果なんだ」
そう前置きして夫が話し出す。
「実はうちの社長がもの凄く世話になった人のお孫さんが君にとても良くしてもらったらしいんだよ。
ほら、君が以前話してたことがあったろ? すごく可哀想な子が居るって。まだ小さいのに働かされて、虐待も受けてたみたいだって。話を聞いてると、どうもその子の事だったらしいんだよな。
それを知ったその社長の恩人って人が、多分お孫さんから聞いたんだと思うけど、孫が世話になったって社長に直々にお礼を言ったらしくて。
おまけにかなり条件の良い仕事も回してくれたらしい。今回はそのおこぼれに俺が与ったというわけ。
もちろん、これまでの実績もちゃんと評価されてのことだけどな」
去年の年末に会ったきり、姿を見なくなってしまった少年。
中学3年生だとは聞いたが、どう見ても小さな子供にしか思えず、自分の子供と重ね合わせてしまった。
だからあれこれと世話を焼いた覚えはあるが、そこまで感謝されるようなことだとは思っていなかったのだ。
販売店の人からは、本当の家族が迎えに来て、今は元気に受験勉強に励んでいるとは聞いてホッとしていたのだが。
「ひょっとしたら隆の手術もその人が手配してくれたのかもな」
「まさか、さすがにそこまでは無理じゃないかなぁ」
夫の軽口に、そう返しながらも、どこか否定しきれないものを感じていた。
同じ頃、とある商店街のいくつもの店で、近隣のホテルや飲食店、企業などから突然好条件の取引の話が持ち上がり、嬉しい悲鳴が響いたりもしたらしい。
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