第5話 本当の家族

「あの女は、陽斗さんを母親の元から連れ去った誘拐犯です」

 そう言った彩音の言葉に、さすがに陽斗は驚く。

「元々佐藤明子はとある資産家にベビーシッターとして雇われていました。保育士の資格を持っていて、当主との面識がある方からの紹介もあって契約したと聞いています」

 彩音はそう続けると、経緯を説明しはじめた。

 

 事件が起こったのは陽斗の生後一年半が経とうとしていたときだ。

 佐藤が働き始めて一年以上が経過し、陽斗の母親もすっかり彼女を信用していたらしい。

 佐藤の勤務態度は真面目で、時折仕事が雑になることもないわけではなかったが陽斗の世話に関してはミスもほとんどなく、一日の半分以上の時間を陽斗と2人きりで過ごすことも多かった。それだけ信頼されていたと言える。

 

 ところが、ある日母親が所用で外出し家に戻って来たときには、陽斗と佐藤の2人の姿は家のどこにもなく、忽然と姿を消してしまっていた。

 そして家の金庫から多額の現金や母親が所有する宝石や貴金属も多数紛失しており、窃盗と誘拐事件として警察に通報された。

 すぐさま警察は緊急配備を敷いて2人の行方を追ったものの、結局佐藤は捕まることなく14年近く経過したということらしい。

 当初は一部の新聞にその事実が載ったが、佐藤を刺激して陽斗に危害を加えられないよう配慮され、テレビなどではほとんど報じられなかったということだった。

 

「そう、ですか。で、でも、どうして僕がその誘拐された子供だとわかったんですか?」

 陽斗は混乱する頭で何とか今聞いたことを整理しようとする。

 そして最も基本的な部分を聞いていないことに気がつく。

「今年の5月に健康診断として採血が行われたことを覚えていらっしゃいますか?」

 記憶を辿り、確かにそんなことがあったと思い出す。

 クラスで注射嫌いの同級生が騒いでいたことを覚えているし、学校の健康診断で血を採られたのは初めてだったので憶えていた。

 

 陽斗が頷いたのを見て彩音は話を続ける。

「実はその採血は陽斗さんを見つけ出すためのDNA献体を採集するために行われたものです。あ、といっても実際に病理検査も行われていますからご心配なく。

 そして専門機関で全てのDNA型を調べて陽斗さんの存在を突き止めたのです。

 実は数年前にも一度行っているのですが、その時には見つけることができなかったので、本当に念のためといった感じだったそうです」

「あ、僕は小学校の時に2回くらい検診受けてないんです。あの、身体に叩かれた痣とかがあったので学校休まされてて」

 そう説明すると、彩音が一瞬鬼のような顔になったように見えて陽斗は見間違いかと目を擦る。

 これまで常に優しげな微笑みや痛ましげで気づかうような表情しか見ていなかったので、あまりにイメージが違いすぎて脳が拒否したようだ。

 

「そう、ですか。えっと、とにかくそのようなわけで陽斗さんの存在と居場所を知ることができたのが10月の終わり頃でした。

 そして念には念を入れて確実にお母様との血縁があると確証を得るために、陽斗さんの学校のみインフルエンザの検診と予防接種を実施してその際に粘膜を採取、再度DNA検査を行いました」

 それも覚えている。

 確か口の中と喉に太めの綿棒のようなものを入れられた。それから注射を打たれたのだ。

 

「その結果、間違いなく誘拐された陽斗さんだとの証拠を得た私共は、すぐに“井上達也”君の身辺を調査。そして偽名を使って生活する佐藤明子と苦労なされている陽斗さんの状況を知ることができたのです。

 私共が見つけることが遅くなってしまったせいで、陽斗さんには辛い思いをさせてしまいました。

 本当に申し訳ありません」

「あ、あの、渋沢さんが悪いわけじゃ、そ、それに僕は周りの人に沢山助けてもらってて、大丈夫でしたから」

 話し終えると立ち上がり、深々と頭を下げた彩音に陽斗は慌てて否定した。

 

「そ、それで、僕の両親って」

「……そのこともお話ししなければなりません。

 実は……陽斗さんのお父様は陽斗さんが生まれる前に事故で亡くなっています。それにお母様も……陽斗さんが誘拐された心労で体調を崩しやすくなり……10年前に……」

 妙な雰囲気を変えるために陽斗がした質問に、彩音はビクリと肩を振るわせると、しばらく躊躇した後に告げた。

 

「そう、ですか……」

 陽斗にとっては顔も知らない両親。

 死んだと聞いても実感は湧かなかった。

 ただ、母親だと思っていた女が、実は赤の他人で、しかも自分を誘拐した犯罪者だと知り、実の両親に会いたいと思っていただけに落胆も大きい。

 結局自分は本当の家族に会うことができないのだと思うと、陽斗の目から涙が流れ落ちる。

 それを見て慌てたのは彩音だ。

 それまでの落ち着いた口調とは打って変わって焦った声で陽斗に声を掛けた。

 

「も、申し訳ありません! 混乱している陽斗さんに対して配慮が足りませんでした。

 そ、その、ああ、どうしたら、えっと」

 何とか慰めたいものの、既に告げてしまったことは取り消すことなどできない。そもそも事実である以上取り消しても意味がない。

 そんな彩音を見て、涙を零していたことも忘れてキョトンとした顔になる陽斗。それが自分の態度が原因だと思い至り今度は陽斗が恥ずかしくなってしまう。

 焦りまくってアワアワしているスーツ姿の女性と真っ赤になって俯く小学生にしか見えない男の子。

 誰かが見たら間違い無く良からぬシチュエーションを想像するだろう。

 ここが個室であったことは誰にとっても幸いだった。

 

「コホン。お見苦しいところを見せてしまいました。

 えっと、それで、陽斗さんのご家族のことですが、陽斗さんのお母様の父親、つまり陽斗さんのお祖父様ですが、この方はご存命でいらっしゃいます」

 しばらくして双方が落ち着きを取り戻すと、仕切り直しとばかりにお茶の入れ替えを彩音が手ずからおこない、咳払いしてから話を再開させる。

 

「お祖父さん、ですか? あの、僕の?」

「はい。陽斗さんを探すため、実際の年齢と入学した歳が一致するとは限らないということで全国全ての小中高校で採血とDNA検査を行うなど、これまで懸命に手を尽くしてこられました。

 陽斗さんの所在が判明してからは期待と不安で夜も眠れず、一日も早く会いたいと言っておられます。

 今回私がこうして陽斗さんの元へ来たのもお祖父様の命を受けてのことです。

 ただ、本人も来たがっていたのですが、何も知らない陽斗さんに突然会いに行って、万が一陽斗さんを傷つけるようなことがあってはならないと周囲の者が説得しまして」

 

 呆然と彩音の顔を見つめる陽斗。

 母親だと思っていた女が他人で、実の両親は既に亡くなっていて、今度は祖父が生きていると聞かされた。

 ジェットコースターのように乱高下する感情に頭は完全にオーバーヒートしている。

「僕の、お祖父さん、僕の、家族?」

 噛みしめるように呟く陽斗。

 彩音はそんな陽斗が落ち着くのを焦らせることなくただ待つ。

 

「陽斗さん、お祖父様にお会いになりますか?」

 10分ほど経ち、陽斗が大きく息を吐いたのを見て彩音がそう訊ねた。

「そう、ですね。会ってみたい、です」

 問われた陽斗はこみ上げる何かを堪えるかのように一瞬目をギュッと閉じてから答えた。その言葉を聞いてホッとしたように彩音は笑みを浮かべる。

「そう言って頂いて嬉しいです。早速ご案内したいのですが、よろしいですか?」

 彩音の確認に陽斗は頷きかけて、ふと頭を過ぎった疑問を慌てて口にする。

 

「あの、その、お祖父さんの居る所って、ここから遠いんですか?」

 考えてみれば、誘拐した子供を連れて、その被害者の身内のいる近くに住むとは思えない。

「はい。お祖父様のお住まいは茨城県です。ですので飛行機での移動となりますね。ああ、もし陽斗さんが飛行機が苦手なら時間は掛かりますが新幹線でもかまいませんが」

 まさかの距離だった。

 これまで陽斗が住んでいたのは熊本県。

 飛行機はおろか電車にすらロクに乗ったことはないが、とても日帰りできるような距離じゃないことだけはわかる。

 

「ご、ごめんなさい。僕、アルバイトしていて、今日は休みをもらっているんですけど、明日は仕事があって……」

 やっぱり自分は家族というものに縁がないのかも知れない。

 陽斗の頭には仕事を休むという発想がない。それに急に辞めたりすればあれだけ良くしてくれた社長や職場の人に迷惑が掛かってしまう。

 祖父には会いたいが、陽斗にはそれはできなかった。

 せっかくのチャンスをこちらの都合で不意にしてしまえば、もしかしたらお祖父さんも怒ってもう会ってもらえなくなるかも知れない。

 そう考えて唇を噛みしめる。

 

 そんな陽斗に、『わかっていますよ』とばかりに彩音は頷く。

「どちらにしても、名目上だけとはいえ母親ということになっていた佐藤明子は既に拘束・・されています。陽斗さんも“井上達也”という存在しない名前、まぁありふれた名前ですから同姓同名の方は沢山いらっしゃるでしょうが、戸籍がないままの状態というわけにはいきません。今後の保護者或いは身元引受人も必要です。

 お世話になった方々にはきちんと説明も必要でしょうし、事情を話しに伺ってはいかがですか?」

 そう。いずれにしても真実が明らかになり、母親であった“井上雅美”はもういない。だからこれまで通りに暮らすという選択肢はないのだ。

 

 陽斗は少し躊躇いつつも頷き、彩音に促されて席を立った。

 そして店を出たのだが、

(あれ? お金とか払わなくて良いのかな?)

 疑問を抱くが数人の店員とどこか偉そうな雰囲気の白衣(調理着)姿の人が深く頭を下げて見送っているので言い出せなかった。

「大丈夫ですよ。後から別の者が来ますから、その時に食べきれなかった料理の受けとりと支払いをしますので」

 そんな陽斗の疑問は承知しているのかエレベーターに乗り込むと彩音が説明する。

 

「あ、はい、ごめんなさい」

 つい謝罪が口に出る。

 彩音はそんな陽斗に一瞬何か言いかけたが、1階ロビーに到着して扉が開いたため諦めたように陽斗を先導して歩きだした。

 エントランスを通り抜け、ホテルの入口を出ると既に車寄せポーチには陽斗達が乗ってきたリムジンが待っていた。

 

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