第4話 母親の真実

 少年の住んでいるアパートから車で20分ほどの市の中心街には一件の高級ホテルがある。

 駅からも程近いそのホテルのエントランス前の車寄せポーチにリムジンが滑るように停まると、先に彩音が車から降りる。

 そして恭しくも見える態度で少年を促した。

 恐る恐るといった様子で車を降りた少年は、緊張した顔でキョロキョロとホテルを見回す。

 当然の事だが少年がこのホテルを訪れたことなどない。それどころか駅の周辺に来たことすらアルバイト先の先輩社員に連れられて一度来ただけだ。

 

「行きましょうか。こっちよ」

 彩音がそう言って先導するのに少年はただ付いていく。

 頭を下げるホテルスタッフの前を通り過ぎ、エレベーターに乗り込む。

 雰囲気は柔らかいままであるものの、無言で佇む彩音に少年は話しかけることもできずに落ち着かない思いをしていた。

 やがて乾いたベルの音と共に扉が開き、エレベーターを降りる。

 

 そこは高級感漂う中華料理店だった。

 確かに車の中で中華料理が好きかどうか訊かれたが、少年のイメージにあったのは近所のラーメン屋さん。

 あまりのギャップに固まっている少年をよそに、彩音は出迎えたスタッフに言う。

「お願いしていた“すめらぎ”です。よろしいですか?」

「は、はい。お待ちしておりました。どうぞこちらへ」

(あれ? 確か渋沢彩音さん、って言わなかった? 皇って、あ、会社とかの名前なのかな?)

 彩音の言葉に違和感を覚えるも、考えるまでもなく彼女のことなどまだ何も知らないのだ。ここまで着いてきてしまったのだから大人しく従うしかない。

 

 テレビでしか見たことのない、といっても少年はそのテレビさえ滅多に見ることはないのだが、中国風のコスチュームを着たスタッフに案内されて、一番奥側にある個室に通される。

 そこは6畳ほどの部屋の中央に5~6人用と思われる中華料理店独特の回転台の付いた円卓が置かれていた。

 少年は奥側の席に案内され、彩音はその右隣に腰掛ける。

 すぐに別のチャイナドレスを着た綺麗な女性が花のような香りのするお茶を淹れて少年達の前に置く。

 そして『失礼します』とお辞儀をすると部屋を出て行ってしまった。

 メニューを渡されたりするだろうと思っていた少年の予想は外れたが、彩音が予約をしていた様子だったのを思い出し、きっと既に注文が済んでいるのだろうと思い直す。

 

 その考えは的中したらしく、程なく再び部屋の扉が開くと料理が運ばれてきた。

 ただ、その量が尋常ではない。

 次々に運ばれてくる料理であっという間にテーブルの上は一杯になってしまう。

「あ、あの、他に誰か来るんですか?」

 おずおずと彩音に尋ねる少年に、彩音は微笑みながら首を振った。

「いえ、ご一緒するのは私だけですよ。ただ、中学三年生と言えば育ち盛り、好きな物を好きなだけ食べて頂きたかったのでこのような形にしました」

 その言葉に驚く少年。

 いくらなんでも多すぎるし、こんな高級そうなお店でこれほどの料理などいったい幾らくらいするのか想像もできない。

 そもそも少年は身体に見合う程度の小食だ。どうしても勿体なく思えてしまう。

 

 少年の戸惑いと憂いの表情を見た彩音は慌てたように言葉を足す。

「食べきれなくても大丈夫ですよ? 残した分はテイクアウト用の容器に移してもらって、後から私の同僚が頂くことになっていますので無駄にはなりません。

 ただ、あまり甘やかしたくありませんのでできるだけ減らすのにご協力くださいね」

 彩音が気づかって言っているのは少年にも理解できた。

 なのではにかんだ笑みを浮かべて小さく頷く。

「ふっ?!」

 その途端、彩音は奇妙な呼吸音と共に目元をほんのり染めて少年から目を逸らした。

 

「??」

「そ、それではいただきましょうか。気に入ったものがあれば追加できますので遠慮せずに言ってくださいね」

 彩音の表情に不思議そうに首を首を傾げた少年に、彩音は少し早口に言うと手近な料理をとりわけ始めた。

 いくつもの種類の料理をごく少量ずつ小皿に取り分けると、それを少年に渡す。

「あ、ありがとうございます」

 どういう風に食事を始めたらいいかわからなかった少年はそう言って受け取ると、食べ始める。

 

「お、美味しい」

 鮮やかな色をした海老を口にした少年は思わず呟く。

 アルバイト先の社員達は時々食事に連れて行ってくれたが、それとは比較にならない程、いや、今まで食べた料理の中で間違いなく一番美味しい料理だった。

 とはいえ、社員達は少年を喜ばせようとして御馳走してくれたという喜びもあるのでどちらが上かなど決められないのだが、それでも素晴らしい料理を口にして自然と笑みがこぼれる。

 蒸した鶏肉も口にする。

 少年には料理名などひとつもわからない。

 中華料理で知っているものなどラーメンと餃子、麻婆豆腐、それに給食で出た中華サラダくらいなものなので無理もない。

 

 あっという間に小皿に盛られた料理を平らげ、スープを飲み、蒸しパンのようなフワフワしたものを口にする。

 そしてその間に再び彩音が取り分けていた料理を受け取った。

「ご馳走様でした」

 二皿目の料理を食べ終わると、少年はそう言って手を合わせた。

 少年の様子を見ながら新しい皿に料理を取ろうとしていた彩音が驚く。

「それだけで良いのですか? もしかしてあまり口に合いませんでしたか?」

 焦った様子で彩音が少年に尋ねるが、少年はブンブンと首を横に振り『もうお腹いっぱいです』と言う。

 

 少年が口にしたのは一人前にはほど遠い量の料理と卵スープ、花巻と呼ばれる中華風の蒸しパンがひとつだけだ。

 育ち盛りの男の子はおろか老人だってもっと食べるだろう。

 しかし少年の表情は非常に満足そうで、普段から小食であることを窺わせた。

 食欲旺盛な年頃の男の子が小学生女児並の食事量。

 一際小柄な体格の理由を察して彩音の顔が一瞬痛ましげに歪む。

 しかしすぐに表情を繕うと、スタッフを呼んで料理を下げさせた。

「あ、あの、ごめんなさい。僕が早く食べ過ぎたから」

「お気になさらなくても大丈夫ですよ。こう見えても私は早食いなのでしっかりと食べていますから」

 そういってアワアワと狼狽える少年を落ち着かせる。

 

 料理が下げられ、別の中国茶が出されると、部屋の中は再び少年と彩音の2人だけになる。

 いよいよかと思って少年は居住まいを正した。

 あんな料理を御馳走してまで自分に話したい内容というのがどんなものなのか、少年には見当も付かなかったが、何となく彩音の態度から悪いことにはならないという、そんな気はしている。

 

「さて、それではそろそろお話しさせて頂きますね」

「は、はい!」

 ビクリとした少年にクスリと笑って彩音は話を続ける。

「まず先に申し上げておきますが、決して悪いお話しではありません。あ、こういう言い方だとまるで何かの勧誘や詐欺師のようですね」

 そう言って彩音は困ったように頬に手を当てる。

 そんな子供っぽい仕草も実に様になっていて、少年はちょっぴり赤くなる。

 

「えっと、お伝えしたいことは色々とあるのですが、順を追ってお話しさせて頂きます。

 そうですね、まず最初に知っておいて頂かなければならないのは、井上達也さん、あなたの本当のお名前です」

「……本当の、名前、ですか?」

 一瞬彩音の言っている意味がわからず聞き返す。

 そんな少年に真剣な顔で彩音は頷いた。

 

「はい。あなたの本当の名前は“西蓮寺 陽斗さいれんじ はると”と言います。

 今日まで名乗っていた井上達也というのは、陽斗さんが母親だと思っていた女、井上雅美、本名“佐藤 明子”が付けたものです。

 そして、佐藤明子は陽斗さんの本当の母親ではありません」

「……え?」

 突然告げられた内容に、少年、陽斗は戸惑う。

 が、同時にどこか納得できるものを感じてもいた。

 

 これまでに何度も考えた。

 どうして自分は母親から愛情を向けてもらえないのだろう。どうして必要なものすら何一つ買ってもらえないのだろう。

 小学校、中学校の同級生の中には片親の子達もいた。中には経済的に恵まれない家庭の子供も。

 それでも何かしら親に買ってもらったり、誕生日に美味しいものを食べたりした話も聞いた。

 けれど陽斗は一度としてしてもらった記憶がない。

 

 物心ついたときには既に虐げられ嬲られていた。

 家には男の人が同居していたこともあったが、誰ひとりとして陽斗を助けてくれなかった。

 助けてくれたのはいつも外の人達だったのだ。

 その度に思ったのだ。

 自分はこの人の子供じゃないんじゃないだろうか、と。

 それでも、実際には実の母親が子供を虐待することもあると知り、いつしかそんな考えもどこかに行ってしまっていた。

 それが今、彩音の口からはっきりと母親ではないと聞かされ、ショックを受けるよりも『ああ、やっぱりそうなんだ』という気持ちが湧き上がってきていた。

 

 その様子を見て取り、彩音は話を続けたが、次の言葉にはさすがに陽斗も驚いた。

 

「あの女は、陽斗さんを母親の元から連れ去った誘拐犯です」

 

 

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