茅葺の上の青き苔

しゔや りふかふ

茅葺の上の青き苔

 宝珠蓮華寺(ほうじゅれんげじ)にある清蒼院の高麗門は屋根が茅葺であった。 


 茅葺には深い苔が生むし、秋の明晰な光があたって、苔の青が眼に染み入る。睿らかさは喩えようもない。存在はそれだけで、あるがままにあるだけで、美しく、ただ物的な無味乾燥ゆえにむしろ奥深くあらゆる哲理を含み、甚深である。非情が倫理を超越して蒼穹のよう、星辰の天宇のように神々しい。あでやかさを孕むくらい枯淡な和の侘びの美。


 暖かい小春日和の日だった。風は涼やかで乾いている。空気は光の粒が見えるようにさらさら輝いていた。秋の空気の匂いは懐かしい気分にさせる。郷愁を感じさせる。豊かな実りの安堵が民族的にそう感じさせるのか。綾(あや)が微笑んで振り返る。妻のこういう笑顔は久し振りだ。彼はそう感じた。娘の石段を走って上がったり下がったりしながらずっと笑い続けている。


「ねえ、門前にお茶屋さんがあるわ」


「抹茶アイスだ。逢梨紗(ありさ)、大丈夫かな」


「ちょっと早いかもね。ぅふふ」


 郊外にある清澄で由緒ある閑静な寺院。綾も善哉(よしや)もこういう場所が好きだった。きっと娘も同じ感性を育むに違いない。換え難い美しい秋の日。






 木耳工(もくじこう)株式会社は、木材で箸や杓文字や匙や箆などを工作する職人の四代目、木耳削冶(きのみさくじ)に始まる。もくじやという看板で、家族経営だったが、腕とセンスに優れ、昭和五〇年代後期に或る眼鏡製造会社からフレームの一部となるツル(テンプル及びモダン)を木で作製するよう依頼され、その眼鏡がヒット商品となり、同社から大量発注を受けるようになったことが切っ掛けであった。以来、OEM(Original Equipment Manufacturerオリジナル・エクイップメント・マニュファクチュアラー)となってその会社のブランドを冠するフレームを作り、名を上げ、他社からも発注を受けることとなるに至り、既に八八歳であった削冶の手に負えず、倅の裂太郎(さくたろう)がフレーム製作部門を独立させ、株式会社を立ち上げた。昭和六二年の事である。


 当時、日本はバブル景気の絶頂期で、世界の高級品が日本に集まっていた。高級志向は高まり、木耳工の創る精巧なラインの檜製フレームが大ヒットしたため、従業員を大幅に増やし、生産ラインを増幅し、ほぼ家族経営に近かった会社は従業員二十数名を抱えるまでになった。しかしバブル崩壊後は売り上げが激減、経営状況は衰微する一方、負債を抱えるようになるも、裂太郎の長子、凌空児(りくじ)は高級志向を止め、職人のこだわりを前に出さず、身近なグッズを廉価で作り、足で稼ごうとするようにあちこちに売り込み活動をし、一九九〇年代後半にじわじわ売り上げを伸ばして木耳工を甦らせた。凌空児は世紀が変わると同時に五〇代後半で早々に引退し、娘の羚(れい)に継いだ。婿であった彼は離婚し、西欧放浪の旅に出てしまった。


 彼女は秋田にある大学の寮に入り、卒業後、八年間父親を補佐し、二〇〇一年に社長に就任した。彼女は職人の血を継ぐも実務に堪能ではないので、前社長の右腕で、当時経理課長であった三六歳の平静不夫(ひらひでふじお)が大いに援ける仕組みが自然に出来上がった。


 就任三年後の或る日、


「平静課長、わたしの大学後輩が地元の会社を辞めてこっちに就職したいらしいのよ」


「社長の大学なら優秀な人材なんでしょうね。ただ友情でご推薦は困りますよ。当社に余裕はありませんから。戦力にならなければ困ります」


「彼はここみたいに、伝統があって、儲けに囚われない倫理と、理窟を超えた職人のこだわりでできている世界に生きがいを感じるタイプなのよ、あなたとは大違いでね。いずれにせよ、うちは事務屋が不足しているわ。って言うか、課長と事務の佐々木さんしかいないじゃない。経理に堪能な人が欲しいのよ。彼はその専門だわ。大学でもそれを研究していたのよ。卒論は『イタリアで生まれた複式簿記』だったそうよ。卒業後は地元中堅企業の経理畑でずっとやっていたみたい。


 大学時代はサークルで知り合ったんだけど、温厚誠実で緻密で信頼できるわ。お金を預ける以上、信頼できる人物じゃなくちゃ困るわ。でも探すのは大変なのよ。わたしたちみたいな小さな会社でコンプライアンスを維持するのはとても難しい、って日頃から考えているのよ」


「サークルって?」


「ロック・ミュージック・サークル〝わなび〟よ。赤門善哉(あかかどよしや)くんっていうの」


 赤門は経理と営業を兼務し、十年を経て平静が専務取締役になったとき、経理課長に昇進し、経理専任となった。同時に結婚し、三年後には一人娘も生まれる。慎ましく、世間の騒がしさも遠く、淡々と木材の質感を活かして微妙なラインの美しい製品を作る木耳工の世界は彼にとって最も幸いな場所であった。人にひけらかすこともないプライドも感じている。生活のすべてを繊細に遺漏なく組み上げようと心掛け、会社の近くに三〇年ローンでマンションを買い、歩いて通勤した。三〇年後は七〇歳だが、その前に退職金で返済できるはずだった。それに退職後も働かせてくれるところを探して働くつもりだ。貯金もある。具体的な心配はなく、楽しい日々とも言えた。いや、むろん多くの人と同じストレスや漠然とした様々な不安はある。出勤時は胃が重いときや、からだが鉛のように感じられる日もある。そんなときは通勤途上にある美しいステンドグラスのクラシカルな白い教会を見ると心が少し安らぐのであった。いつか入って見たいと思っている。


 二〇一〇年代、会社の経営はリーマン・ショック以来の世界的不況の影響もあり、再び傾いていた。赤門が四一歳の或る日、四半期決算を控えて残業し、財務諸表のうち貸借対照表の元になる各データを確認していたときだった。後ろに平静が立つ。


「赤門くん」


「はい、何でしょうか」


「マジェスティック・メガネに納品するHgh1171二百本を今期に載せてくれ」


「ええ?」


「二度言わせるな。それとも言ってることがわからんのか。冗談じゃない、ベテラン課長のくせに」


「いいえ、しかしそれでは来季の納品分を今期に載せることになってしまいますよ」


「当然そうさ、わかっている。だから言っているんだ。来季のものは黙っていても来期に入れるが、今期に入れるにゃ言わなきゃならんだろ」


「しかしそれでは」


「それでは何だ? わが社の状況は君もよく知っているだろう」


「ええ。しかし売り上げを高くしてしまうと粉飾になります」


「だからそれを言っているんだ」


「来季の売り上げが減ります」


「バカか? 来季もやるんだ。青山メガネやサンガ光学レンズやアカデミック眼鏡に納品する分もやるんだ」


 やむなくそうした。翌日、契約している税理士事務所の税理士が来て書類を見たが、何も言わなかった。不思議に思ったが、税理士はこちら側の味方をしてくれているのだと考え、納得した。決算後、外部監査人として契約している公認会計士が確認に来た。赤門は今度こそダメだと観念するも、今回も何も起こらなかった。「みんなわかってるんだ。結託してるんだ」 そう気が附く。やがて仕入の計上は来期に回すようになった。それでも足りない。


 平静の要求は高じてきた。


 棚卸資産を架空計上したり、不良在庫を計上したりしてするよう指示される。こうすれば財務諸表の上の見掛けは売上原価が減少し、すなわち利益が水増しされる。売上原価というものは、期首の商品在庫に当期の仕入額を足し、期末の商品在庫を差し引いて計算するので、期末の商品在庫を大きくすれば結果的に売上原価が減り、利益が増えたように見えるのである。飽くまで架空だが。


 また、少額の固定資産を資産計上して償却していくことも指示された。


 現行税法上、固定資産の基準を「耐用年数一年以上で、取得額が二〇万円以上の資産」と定めているので、たとえば一〇万円の機器で耐用年数一〇年があるものならば費用としてそのまま売り上げから差し引かなければならないので、利益を減ずるが、この少額の資産を資産計上すると、耐用年数に応じて減価償却できるので、この例なら、一〇年に分散して一年一万円ずつ売り上げから差し引くことができるので、費用が抑えられ、利益水増しの効果がある。


 そして遂に、


「いえ、それはできません」


「命令に従えないのか。もう相手の承諾はあるんだ」


「しかしそれは犯罪です。誤記・誤認と言い逃れできません。刑法にも触れます。背任です、虚偽記載罪です」


「君は家族を路頭に迷わせたいのか。経営状況が悪ければ銀行の融資も受けられない。取引先の信用調査にもパスできない。つまり会社は倒産し、我々は破滅する」


「いずれ破綻します。財務諸表上は利益があるので株主に利益配分しないわけにいかないし、利益が増えれば当然納税額も増えます。実際の儲けがないのに配当や税金を増やせば余計苦しくなるだけです」


「いましかない。今日を生き残らなければ、そもそも明日は来ないのだ」


「でもそれは。・・・無理です」


「君は以前に瀬御厨(せみず)くんが納期を前倒しにしてくれと頼んだとき、呑んだそうだね」


「え、なぜそれを」


「先週彼が金を借りたいと言って来てね。断ったんだが、そんな話を土産に置いて行ったのだよ。そういうネタでも小出しにすれば金が無心できると思ったんだろう。甘い奴、愚かな奴だ。人を裏切る奴など信用されるはずがないことがわからない。自分は大丈夫だと思っている。自分は赦されると考えている。だから裏切りができる。典型的な〝何もわかっちゃいない野郎〟だ、あの男は」


「そんな」


 裏切られたのだ。


 瀬御厨は木耳工の営業の一人だったが、成績が悪く、一年前に退社した。在職中に懇願され、一度だけ赤門は要求を呑んでしまっていた。軽佻浮薄なのに、彼にはどこか憎めないリリシズム的な匂いがあり、赤門にとっては逆らえない畏怖にも近い(怖くはなかったが)感覚があった。年下で東北の出身で同情する気持ちもあった。それが仇になったのである。


 平静が去った後も赤門は固まったように考え続け苦悶する。確かにいまのままでは未来がない。だがそうは言っても、専務取締役の要求は、明日の破滅でしかない。二つの道を比較しても、いま路頭に迷うか明日迷うかの違いでしかない。いや、違いは歴然だ。いま路頭に迷っても犯罪者ではないが、明日迷えば犯罪者なのだ。


 赤門は大学の先輩でもある社長室に行った。彼女は脚を組んで坐っている。衰えた容色がどこか懶惰で美しい。かつてはあでやかな大きな眼がいまは皺が寄せて、でもそれがおしべのように長く垂れた睫毛のしだれと、やや垂れぎみの眼のラインとのハーモニーをなし、相余って醸す退廃的な美。彼はそんな魅惑に構うときではないと振り切って、訴える。


「専務から架空の請求書を水濠社に出せと言われました。そして翌月は水濠社も架空の請求書を出すそうです。先般、大量に返品された不良在庫を水濠社が買い取り、翌月それをうちが買い戻すよう書類を作れというのです。監査人も共謀者です。僕は」


「赤門くん、悪いけど、いまだけ、今回だけやってちょうだい。銀行の融資が受けられれば契約が取れるのよ。これがうまくいけば、どうにかしばらくは凌げるのよ。お願い」


 赤門は呑んだが凌げなかった。凌げなかったばかりではない。内部告発があったらしく、税務署が入った。調査が行われ、不正が発覚する。社長も専務も「知らない」と言った。それだけではない。


「赤門課長には前科がある。なぜ対処しなかったのかと言われるかもしれないが、最近知ったばかりで、これから調査しようとしていたところなんです」


 専務はそう言ったらしい。 


 彼らが互いに教唆や共謀や威圧をしないように、質問は別々の部屋で行われた。専務の発言や社長の態度を聞いて、赤門は生まれて初めて叫びそうになった。


「そんな莫迦な、そんな酷い、僕だけじゃない、そんな」


「僕だけじゃない? 認めることになるが、それでいいんだな?」


 口をつぐんで下を向いた。家族のことが急に想い出され、涙が込み上げる。


 暗くなって、しょぼくれて家路に就く。月がなく、外灯も昏く感じる。


 教会まで来た。灯りが洩れて扉は開いている。いつもどおりだ。入った。礼拝堂は白い祭壇の上には聖なる十字架があり、その背後に光を象る黄金の太陽のような象徴が輝き、天使が聖句の記された帯の両端を持って翼を広げ飛んでいる。『汝の敵を愛せよ。右の頬を打たれたならば左をも差し出せ。上着を奪う者には下着をも差し出しなさい』 そんな聖書の言葉が脳裏をかすめた。


 敵を愛せよ? 奪う者に差し出せ? なるほどそれは高潔な行為かもしれない。本人はそれで満足かもしれない。だがそれで不幸になる家族は? あるはずの幸せを奪われ、泣く妻やこどもたちは。自分がよければそれでいいのか? 例えば自分の愛する家族を殺したものを愛せるのか? それが残虐で無慈悲な殺戮であっても赦せるのか? できない。できるわけがない。できる奴は非道で無慈悲だ。いや、それ以下だ。それは以前から心に抱いていた疑問だった。仏教だってそうだ。出家して修行して苦しむとしても自分の決めた悟りへの道だから自分はよいかもしれないが、捨てられた家族はどうなるのだ。


 確かに赦しは尊いし、心理学的に言っても魂を癒やす。憎しみは相手に害なすだけでなく自らも苦しめ、肉体を滅ぼすストレスを与える。そう言えば、以前どこかで、自分の息子を殺した息子の友人を憎んだが、その子と面会した瞬間、犯した罪の恐ろしさに震える自分の息子と同じ年の少年を見て、赦す気持ちになり、赦した瞬間に自分の心の苦しみから解放され、救われた・・・というようなエピソードを読んだことがあるが、それは確かに真理だし、その母親の決断は偉大だし、尊敬に値するし、尊い話だとは思うが、もし相手が自分の息子と同じような若者ではなく、凶悪な汚いおじさんで、快楽のために虐殺したのだとしたら到底赦す気にはなれないだろう。あゝでもだからどうしたらいいのだ?


 かなぐり捨てるように、その場を去る。いつの間にか走っている。やがて家に着くだろう。しかし何にもならない。どこにも逃げ場はない。


 家に着いた。何と虚しいことか。しかし現実に戻らなくては。呼吸が落ち着くのを待った。玄関を開ける。ネクタイをかなぐり捨てるように引っ張り、背広を脱ぐ。衣紋掛けには掛けず、ズボンとともに元気のない夫を見て妻が尋ねた。


「何かあったの?」


 幼い娘を眺めて涙があふれる。


「ねえ、どうしたのよ、黙っていないで」


 どう説明してよいかわからなかった。すべての前提条件を話さなければ説明にならない。社長に従った理由は概ね二通りある。瀬御厨を断れなかった理由はうまく説明できない。どうして税務署職員に強く反駁できなかったかは、・・・なぜだろう? 何に遠慮していたのか? そもそも会社勤めの経験のない妻に、会社のそういう全体的な雰囲気を解らせることなんて、到底できないような気がした。いや、それ以前に女に男のメンタリティなんて理解できないんだ。ならばなぜ結婚したんだろう。そんなことを半ば無意識的に考え耽っていると妻が遂に、


「あなたって、本当にはっきりしないわね、苛つくのよ。めそめそ哭くだけで、何にも言わないって、何それ! あり得ないんだけど? バカじゃない? 何だかわかんなくって不安だけ煽られて超頭来るんだけど? 言わないんなら、哭くな。どっちかにしろっ!」


 コップのビールを一気に呑む。


「実は会社で不正があって」


 聴き終えた妻は激怒した。


「何なの、それ! 何であなたが負わされてンのよ、もぉ、ほんとに、まどろっこしい! 何で言わないの」


「言うよ。咄嗟に何て言っていいかわからなかったんだ」


「そのまま言えばいいんじゃない、何なの、それ、あり得ない。冗談じゃないわ、職も失って罪も着せられて、犯罪者にされちゃうのよ、犯罪者の家族として生きて行くのよ、生活が、未来がめちゃくちゃだわ。逢梨紗(ありさ)はどうなるのよっ」


「わかったよ。だから言いたくなかったんだ。おまえには何もわからない」


「言いたくないってどういうこと、わかるとかわかんないとかじゃないでしょっ、言わないでどうするのよ」


「わかってるよ、うだうだ言うな、俺を馬鹿にしてんのか」


「そう。・・・じゃ、もういいわ」


 妻は娘を連れて別の部屋に行った。


 じっと考えている赤門のからだに凄まじい憤怒が噴火のどす黒い煙のように濛々と起こった。身勝手な専務の保身に対し、裏切った社長に対し、愚かで浅はかな瀬御厨に、狡賢い世間すべてに対して烈しい憎悪が唐突に湧き起こった。それは我が身を護る獣の本能だ。どうして左が差し出せるか。すべてぶっ殺す!


 ジーンズを穿き、革のベルトに武器を差し込み、佩いた。キャンプで薪割に使ったアックスだ。サバイバル・ナイフもつかむ。黒豹のように夜を跳梁する。幹部は創社以来の人間なので、皆会社の近くに住んでいた。平静の家に着く。アックスでサッシを破り、鍵を開け、暗い部屋に中に入る。物音で出て来た人間を殺した。女だ。平静の妻だろう。廊下を歩き、居間に入る。平静は何かが廊下から近附くのを感じたのだろう。点いているテレビに背を向け、赤門の侵入しようとする入口を凝視して立っていた。


「何だ、おまえは。いったい」


「クズを殺しに来ただけさ。ザマアミロ、生ゴミ野郎、貴様に裁判なんてもったいねえ、貴様らなんざ縄で束にしてゴミと一緒に燃やすがふさわしいぜ」


「正気か! 人殺しだぞ、もっと重い罪だぞ、家族を想い出せ」


「ぅぜぇぜえ~」


 アックスで脳天をかち割った。噴水のように血飛沫の柱が天井を逆瀧のように打つ。サバイバル・ナイフで胴体を裂く。


「さあ、次だ。あははは、あははは、俺は本当の自分に還ったんだ」


 パトカーのサイレンが鳴り響く中、社長宅の敷地に入る。寝室の窓を突き破り、ベッドに馬乗りになる。この日この時間に就寝することを予測していたわけではない。そもそも(家の間取りを漠然と知っていたとは言え、)寝室の位置さえ知らなかったし、外から彼女の姿が見えたわけでもなかったが、この場所にいることがなぜだかはっきりとわかっていた。


「きゃあああああ」


 だがその声は響き切らない。赤門はつかむように口を塞いで羚の声を押し込んでしまう。


「黙れ、黙れ、黙れ、黙れ黙れっ! 黙らなきゃ殺す、あー、しょうがねー、殺す、俺じゃない、おまえが悪いんだ、黙りゃいいだけなのに、ひゃはは、殺す殺す殺すっ! ぅふひゃあっはあはあはあはあははひゃははははあはあはあはっ! あぎゃぶゔぁぼばぶ~」


 殺してから自分が大学時代、先輩に淡い恋愛感情を抱いていたことに気が附いた。だから殺したような気もする。血を滴らせ、ベッドの上に仁王立ちになり、


「実らない想いの鬱屈か。ぅふふ」


 赤門はいまの自分の暴虐な行為が粉飾事件のせいではないことをだんだん感じ始めている。瀬御厨の居場所がわからないことが残念だが、もう興味はなかった。蝙蝠のように社長宅から飛ぶように羅刹となって家に帰る。扉を開ける荒々しい音に妻と娘が驚いて出て来る。善哉は人間を睥睨する殺戮神のよう顎を上げて見下し、凄絶な形相で哄笑する。


「ふふぁわははははは」


 血塗れの夫を見て叫ぶ。


「何なの、あなた! 何なの、あなた、その恰好!」


 逢梨紗が泣き喚く。


「ぅぎゃあああ、俺を否定したな、この俺を、この俺を否定したな、俺を、否定したな、この俺を、否定したな、否定した、否定したな、俺を、否定したな否定したな否定したな否定したな否定したな否定したな否定したな否定したなああああああ、ぅぐゎわわわわわっきゃああああああ!」


 心のどこかが叫んでいた。殺すな、殺さないでくれ。しかしそれゆえに炎は滾り駈られ煽られ、逆噴する。


「ぁああああはあはあはあは、死ねやっ」


 屠る。血が迸る、血が炸裂する。舞い翔り飛ぶように躍動する修羅、眼を剥き、血走った白眼の真ん中にただ怒りと困惑のまま止まったような眸、瞳孔が開いていてそこは真っ暗だった。底知れない闇であった。恐怖で眼を見開いた娘の顔が永遠に忘れられない。何という、何という酷いことを、何という可哀そうなことを、俺は・・・・そう想いながらも、彼の脳裏には『臨済録』の有名な一節が焦燥のように空転しながらリフレインしていた。「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し・・・」 毒々しい原色のぬめぬめした生き物のように、鱗でもあるかのようにぬらぬらと照り、血に塗れて欣喜雀躍、窓を破って外に出る。その身の軽いこと、まさしく跳梁跋扈、活き活きとして、毒々しくも美しくさえあった。髪を靡かせ奔り、柵や塀を飛び越え、咆哮し、自由闊達極まりなし。やがて着く。


 黎明前の光が少し空を明るくする時刻。清蒼院の前だった。まだ門は開いていない。茅葺の苔が次第に青みを帯びてくるのを眺めていた。


 茅葺に生むす深い苔に秋の明晰な光があたって、苔の青が眼に染み入る。睿らかさは喩えようもない。存在はあるがままにあるだけで、美しく、ただ物的な無味乾燥ゆえ、むしろ奥深くあらゆる哲理を含み、甚深である。非情が倫理を簒奪して蒼穹のよう星辰の天宇のよう崇高な神々しさ。




 善哉はここに来たときの幸せな時間を思い出し、妻や娘を想って慟哭した。自殺を考えた。だがやめた。遺族に憎まれ罵倒されて生きようと決す。魂を悔恨に苦しめ、喪われた家族を想って悲痛に苛まれ、身を裂かれねばならない。それが厳然たる事実だ。


 生きることは袋小路なのだ。

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