牛の首②
ブモオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!
突然、牛鬼がのたうち回った。
リュウがなまくらを振り、牛鬼の脚1本をへし折ったのだ。
「祝詞を頼む! 脚を斬って動きを封じる!」
牛鬼は折られた脚を引きずりながら向き直り、恨めしそうにリュウを睨みつけた。
残る5本の脚を這わせて、リュウ目掛けて突進した。
既のところで横へと飛び退き寝っ転がり、刀を立てると脚が1本飛んでいった。
痛みではない、憤怒の叫びを上げる牛鬼。
その場でのたうち回り、力を失ってぶらぶらとする脚が目についた。その対になる脚がない。
牛鬼はリュウへの恨みで頭が一杯だ、すっかり我を失っている。
いや、まだ脚は4本ある。これなら立てる。
落ち着きを取り戻して立ち上がる牛鬼は、傷のせいか、怒りのせいか、肩が上下するのを止められない。
歯を食いしばり、血走った目をピタリと止めて狙いを定めた。
土を蹴って見つめる先は、高島だ。
「高島さん、早く逃げて! あいつは人を食べるんだ!」
「コンコ! 祝詞を絶やすな!」
牛鍋屋へと駆け込む高島、土を蹴り追う牛鬼。
リュウが飛びかかり、背中に刀を突き刺した。
すぐさま刀を抜くと、脚を止め暴れ狂った。
傷口からは霧のような障気が吹き出している。
リュウは距離をとり、次の刺突を見計らう。
牛鬼の怒りは最高潮に達している。
もう地面を蹴る余裕など微塵もない。
低く構えたその瞬間、砲弾の如く駆け出した。
リュウも土を蹴って駆ける。
狙いは牛鍋屋……いや、高島……。
違う! コンコだ!!
牛鬼の狙いを見誤った分、出遅れた。
地面を強く踏み込んで加速する。
間に合え!!
牛鬼の首が飛んだ。
身体は吊り糸が切れたように崩れ、障気を吐き出しながらしぼんで消えて、無くなった。
首を落としたのは、リュウではない。首の皮一枚、届かなかった。
しゅるしゅるしぼむ牛の首、そのすぐそばには斧を構えた大男が仁王立ちしていた。
その男の頭も、牛である。
「お見事だ、ミノタウロス」
それが牛男の名前らしい。
その名を呼んだのは、意志の強そうな目つきをした恰幅のいい男だった。
静かになったので様子を覗く高島は、男を目にして平伏した。
「私、高島嘉右衛門と申します。誠に失礼ながら
彦根藩第十五代藩主にして、幕府大老を務めた井伊直弼である。勅許を取らず日米修好通商条約を締結、批判は多く名誉も回復できていないが、横浜開港の功労者だ。
『あなたが高島さんですか、やっとお会いできましたな』
井伊のくだけた口調にも、高島の態度は変わらない。額に土をつけたままだった。
「横浜の繁栄は、掃部頭様が命を懸けてなさったご決断の成果でございます。この高島、何とお礼を申し上げればよいか……」
『武家とは言えど、私だって近江の出だ。これだけの大事業、商人なくして成し得ないことくらいわかっておる。礼を述べるのは、こっちの方だ』
井伊は、首に手を当てて哀しそうに微笑んだ。横浜発展の喜びと、様々な無理をして血を流す事態を招いた後悔が混ざっているのだ。
『しかし横浜の様子を見に来たら、これだ。生前に悪運を使い切ったと思ったが、参ったな』
素早く凶暴な牛鬼を一振りで仕留めたミノタウロスとは……。
そんなコンコの視線に、井伊が気付いた。
『あっちに行った折、私が名産の牛肉味噌漬けを食わぬ食わせぬとしたことを知って以来、慕ってくれるようになったのだ。西洋のあやかしだが、今は私の家臣なのだよ。まさか、あっちに行ってから救われるとは、思いもよらなかったな』
恥ずかしそうにする井伊の元へ、駕籠がやって来た。担いでいるのは
駕籠に乗り込んでから井伊は、思い出したようにリュウを見て声を掛けた。
『若いの。横浜を守ってくれることには感謝するが、あまり無茶はしてくれるなよ。大事な仲間の高島も稲荷狐も、そなたを心配しておるぞ』
駕籠の扉が閉じられると、ミノタウロスを先頭に北の方へと向かっていった。墓所がある世田谷豪徳寺へと帰るのだろう。
高島は足音が消え、姿が見えなくなってから顔を上げた。
コンコは呆然と立ち尽くしたままである。
リュウは立ち上がり、膝の土を払っていた。
「まさか……お会いできるとは……」
高島の一言で、時が動き出した。
コンコは牛の首だった角の欠片を拾い上げ、壺を虚空より取り出して封印してから、リュウの方を向いてニヘッと笑った。
「リュウ、幽霊は怖いんじゃなかったの?」
「ば……馬鹿言え!」
「おや、リュウさんは幽霊が苦手だったか。知らないことが、まだあるものだな」
「違う! 幽霊など……」
ドギマギしながらムキになるリュウに、高島は微笑みを送った。
「リュウさん。掃部頭様の仰った通り、私たちは仲間だ。少しずつ、話せることだけでいいから、あなたの話も聞かせておくれ」
閉ざされていた扉がわずかに開いて、光が一筋差し込むようだった。
照れ隠しなのか、リュウはむっつり押し黙ったまま高島に手を差し伸べた。
立ち上がるために引かれた手、今度は私が手を引く番だ。
時間は掛かるだろうが、この若侍を陽の当たる場所に出せたなら……。
高島の内なる思いは、確かな願いへと変わっていった。
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