ゲーテ座の怪人②
夢の中で私は この心にささやく 今、姿を現し
ザ・ファントム・ジ・芝居 私さ
腹の底から劇場いっぱいに響き渡る歌声に、今にも飲まれてしまいそうだ。
ひらりとマントが
「勝負だ、侍!」
リュウも舞台に飛び上がり、スラリと抜いた刀を構えた。
猫たちは大歓声を上げている。
先手を取ったのは怪人だった。片手でヒラヒラとさばかれる、蝶のように舞う切っ先に、リュウは間合いを詰められない。
受ける刃はどっしり重く、斜めに構える怪人の身体が遠い。
斬撃が鋭い日本の剣法とは、まるで違う。
しかしリュウは、余裕の笑みを浮かべていた。
西洋剣の重厚な一撃に、刀は払い除けられた。弾かれてリュウは、膝をついて下段の構え。
馬鹿め侍、貴様の頭がガラ空きだ。
一撃必殺! 怪人は西洋剣を両手で掴み、振り上げた。
違う、よく見えるのは仮面を割られたせいだ。
剣を掲げてピタリと止めた瞬間、リュウが眉間を突いたのだ。
それにしても何と素早い刺突なんだ。あの隙だらけの体勢から切っ先が飛んでくるなど、夢にも思わなかった。
いいや、侍の構えに嬉々とした己に隙があったのだ。
そして侍は、身体に隙を作ったが、心に一分の隙もなかった。
怪人は素顔にも薄ら笑いを浮かべて、ゆっくり後ろへ倒れていった。
「骸骨だ! リュウ、早く留めを!」
コンコが祝詞を唱えると、リュウは真っ直ぐ刀を突いた。
断末魔の叫びが劇場に響き渡り、紫煙が苦しみもがくように立ち上り、それは霧となって消えていった。
だが突いたのは怪人ではない、白い仮面だ。
「この男はあやかしではない、人間だ」
コンコが恐る恐るランプで照らすと、痩せた男の間抜けな顔が浮かび上がった。目は落ち窪み、頬はげっそり
コンコが男を揺さぶると、ハッと気付いて周りの景色に動揺していた。
首をひねり身体をひねり、皿のようにした目で辺りを何度も見回すが、男の混乱は収まりそうにない。
「……あれ? 何だ? ここはどこだ!?」
「パブリック・ホールだ。知っているか?」
「……ゲーテ座? え!? どうして私が!?」
「前はそんな名前だったね。おじさん、お芝居に詳しいの?」
ようやくふたりを凝視して、首をカクカク縦に振った。
聞けば男は、売れない戯作者だった。
西洋芝居を伝え聞き感銘を受けたものの、実際の芝居を観ることが叶わない。
観たい思いが募るうち、筆がピッタリ動かなくなってしまった。
書けないならと、芝居小屋から放り出された。
西洋芝居さえ見れば、新しい話が書けるのにと恨めしく思っていたある日。
西洋芝居の真髄が見えるという仮面を貰った。あの白い仮面である。
そこまで聞くと、リュウは身を乗り出した。
「誰に貰った!?」
「見知らぬ年寄りです。どんな経緯か忘れましたが、いつの間にやら意気投合して、気付いたときには手元にあったんです」
コンコもリュウも思い浮かんだのは、延遼館の老人である。
「仮面を被ったら、西洋芝居の夢を見たんです。芝居小屋のどこにでも入れて、洋装にも躊躇なく袖を通せて、西洋文字の台本もスラスラ読める。演じてみれば、どんな役者よりも上手く出来る」
それらは仮面の魔力によるものだろう。力強い歌声も、戯作者のものとは思えなかった。
「それが夢ではなかったなんて……」
戯作者はもちろん、コンコまで床に手をついて愕然としていた。
「黄色じゃないなんて……」
それは、そんなに問題なのだろうか。
コンコが西洋剣を手に取った。両手でなければ持てない重さだ。
「これ芝居用なんだろうけど、ひっどい剣だね。重たいし刃先が真ん丸だよ? よくこれを片手で振ったね」
「剣の腕も、仮面に
「これは明日、腕が痛むなぁ……」
戯作者は筆を取れないことを悔やんでいるようだ。きっと、新しい話が思い浮かんだのだろう。
猫又がコンコの服をチョイチョイと引いた。
『僕たちは、どうすればいいニャー』
『芝居したいニャー』
「僕から高島さんに話してみるよ。せっかく戸塚から来たんだもの」
大興奮で劇場内を駆け回る猫たちに、決まったわけではない! とリュウが釘を刺すと、猫又が凄んだ。本当に、ちっとも可愛くない。
『決まるまで、どうすればいいニャー』
「この男に芝居を教わればよかろう」
「短い間であれだけ出来るんだもん。教えるおじさんも、教わる猫又さんたちも凄いよ!」
戯作者は照れ、猫たちは僕たち凄いニャー! と駆け出した。興奮すると走るのは、何とかならないだろうか。
「決めるのは劇場主だ、断られたら戸塚に帰れ。いいな?」
『僕たちの芝居を観たら、みんないいって言うに決まっているニャー』
『決まってるニャー!』
猫たちの自信満々な言葉と素振りに、コンコとリュウは、そうかなぁ? と顔を見合わせた。
戯作者には、話だけではなく芝居を教える才があるのだ、自信を持ってやれとハッパをかけた。
「おじさんのことも、高島さんに話そうか?」
「いや、話を書くのはこれからだし、甘えていてはいかん。力を認められて雇われなければ」
「じゃあ、猫又さんたちで鍛錬すればいいよ!」
『頼んだニャー』
戯作者は、凄まじい数の猫を引き連れて帰っていった。横浜の魚を食い尽くされやしないだろうか、不安になるほどだ。
「やっぱり、帰ってもらった方がよかったかな」
「あの様子では、帰れと言っても聞かんだろう。駄目で元々、高島のところへ行こう」
この戯作者も、猫の芝居も、その後どうなったのかは伝わっていない。横浜から魚が消えた話もない。
ゲーテ座の歴史の行間に、彼らの功績がしかと刻まれていることを、どうか忘れないでほしい。
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