波止場②
海坊主がマストを前後に動かすと、右舷左舷へ蒸気船が激しく揺れた。
荒波が立って甲板は水浸しになり、船倉からはバコンバコンと荷崩れする音が響いていた。
その様子に海坊主はキャッキャと喜んでいる。
「コ、コンコ! 祝詞を……」
「ダメだよぉ、赤ちゃんだよ? 可哀想だよぅ」
握った両手を胸の前に当て、涙目になって訴えている。こんな姿を見せられて、躊躇しないはずがない。
「し…しかし、あれを見ろ! あのままでは船が沈むぞ!」
「わかってるけど、斬っちゃだめだよぉ」
泣きそうな顔で懇願するコンコに負けて、刀を仕舞うことにした。
しかし、このまま帰るわけにはいかない。
船から荷崩れの音がしなくなると、また別の船で同じことをして、キャッキャと嬉しそうに笑うのだ。
「それでコンコ、どうする気なんだ」
困り顔で唇を噛み、んんんっと唸った末に説得を試みることした。
「ねぇ! 赤ちゃん! 海坊主の赤ちゃん!」
コンコの甲高い声を聞いて手が止まり、じっとこちらを見つめてきた。
「お船が壊れちゃうよ! めっ! だよ!」
海坊主はキョトンとしたまま、マストから手を離した。
やった、通じたぞ。
『ぶうううう!!』
両手を海に突っ込むと激しい高潮が港を襲い、コンコとリュウは一瞬にしてずぶ濡れになった。
癇癪を起こしてしまい、一度では済まず何度も何度も手を突っ込んで、その度にふたりは高波を浴びた。
「あら、水も
赤く染まった頬に両手を当てて、上目遣いでリュウを見た。
「冗談言っている場合か。一体どうすればいい」
「赤ちゃんの気が済むまでやらせるしかなさそうだね、ぶぁっ!!」
しばらく耐えていると海坊主は落ち着きを取り戻し、ぼんやりと遠くを見つめだした。
ようやく終わったことと、幸いにも船の転覆は
船倉の積荷はメチャクチャに崩れているだろうが、商品は軽く柔らかい生糸だから、ひどくても箱の破損で済んでいることだろう。
「赤ちゃーん! お家に帰りなよー! お父上もお母上も、きっと心配しているよー!」
リュウは怪訝な表情をした。
あやかしの世界はわからないが、こんなことがあるだろうか、と。
「コンコ。この赤子は、ひとりでここに来たというのか!?」
すると再び海面が盛り上がった。しかも今度は港の左右2箇所である。
華厳の滝が逆流するような凄まじい
水塊から落ちる水飛沫は弾け飛び、港を叩いて岸壁を、そしてふたりを濃い霧に包んだ。
水音が止んで霧も晴れ、飛沫もすべてが落ちた頃、正面には日光杉より遥かに太い4本の柱が建っていた。
恐る恐る見上げると、月をも隠す背丈の海坊主がふたり立っていた。
コンコもリュウも腰を抜かしてへたり込み、たまらず抱き合い悲鳴を上げてしまったが、海坊主たちが気にする様子はまったくない。
ひとりが赤ん坊を抱きかかえると、もうひとりは慈しむような顔をした、気がした。
赤ん坊がキャハハッと笑うと、ふたりは優しく見つめ合ってから、赤ん坊の頭を撫でた。
何と微笑ましい親子愛ではないか。
ふたり揃って会釈をすると港町に背を向けて、横浜港を後にした。
一歩進むたび少しずつ沈んでいき、もうじき見えなくなる頃に、頭のてっぺんまで沈みきった。
波紋が止むまで呆然としていると、空が明るくなってきた。
「終わった……のか?」
「…そうみたいだね…キャッ!!」
抱き合っていたことに気付いたコンコは真っ赤になって目を見開いた。パッと離れて背中を向けて、飛び出た尻尾をパタパタさせた。
男でも女でもないが女寄りの稲荷狐に、困ったものだと頭をかいたリュウだった。
かいた頭から潮水が垂れる。着流しも上から下まで潮まみれだ。
小さくしゃがんで背中を向けているコンコも、上から下までびしょ濡れである。
帽子は重たそうにぺったり潰れ、狐耳がツンと立っていることがわかり、おかっぱ頭の毛先からぽたぽた水が垂れている。
白い洋装だから、背中の色が透けて見える。
ははぁ、これが恥ずかしかったのか。
ぶんぶん振った尻尾から飛沫がピッピッと飛んでいた。
「このまま甲斐まで旅したら、水虎もそのご主人も、さぞ喜ぶことだろうな」
冗談言ってる場合かと、コンコが涙目で睨みつけてきた。ぷうっとむくれたその顔に、リュウは笑わずにはいられなかった。
「さあ、終わったなら帰ろう」
コンコが前を隠して立ち上がったので、ふたり揃って海に背を向け、横浜港を後にした。
普段はおしゃべりなコンコは口を尖らせムッとして、だんまりを決め込んでいる。
「こんな早くから風呂屋は開いているだろうか」
ドギマギとした顔でリュウ見つめて、みるみる顔が赤くなってきた。
「
「……放っておくと、後が大変だもんね」
ようやく口を開いたコンコは、どちらに入るか目を泳がせて悩んでいた。
「刀もちゃんと手入れしてよ! 錆びたら使い物にならなくなっちゃう!」
「わかっているさ、俺を誰だと思っている」
この刀はリュウの魂であると同時に、コンコが300年間過ごした祠の霊力が籠もっているのだ。
他人からすれば単なる模擬刀だろうが、ふたりにとって、かけがえのない刀なのだ。
「帰ったら
「僕も手伝うよ! 一緒にやるから教えて!」
水垢離のことではないだろう。手伝ってもらったら、俺が困る。
しかし潮まみれの手で触ってしまっては意味がない。
それに着物も洗わなければ……。
慈悲だ、見ないでおいてやろう。
終わった頃には風呂屋も開くだろう。
身体はその後、丹念に洗うほかなさそうだ。
トボトボ歩いてヒタヒタつけた、ふたり並んだ足跡は、朝日を浴びるとシュワシュワと微かな音を立てながら、青く染まりはじめた空へと吸い込まれていった。
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