横浜②
ハンチングを脱ぐと三角形の狐耳が、くるりと回るとふさふさの尻尾が生えていた。服についた飾りと思ったが、機嫌に合わせて動いているから本物だ。
呆気に取られる侍をよそに、稲荷狐はやれやれと両手を広げた。
「村の畑を守っていたら、急な文明開化だもん。人は増えるし蒸気船に陸蒸気、
「余計な奴ら? 罪人か」
稲荷狐は、不敵な笑みを浮かべた。
「違うよ、あやかしさ」
ずっと見ていたにも関わらず、稲荷狐はいつの間にやら巫女装束になっていた。
「日本中、いや世界中からやって来る悪戯好きなあやかしたちを、何とかしなきゃと思った矢先にこのとおり。みんなは今、神様よりも西洋文化を信じているんだ」
祠にそっと触れると、ギシッ…と潰れてしまいそうな悲鳴が聞こえた。そのうち崩れて、腐った板切れになってしまうのだろう。
「祠がいよいよダメになったとき、その霊力を刀に封じ込めたんだ。お侍さんが持っている、その刀だよ」
なるほど。虎はもちろん刀があったのも、稲荷狐が仕組んだことか。
「模擬刀だから、振っただけじゃあ斬れないよ。僕が
刃に触れてみたが、確かに研いでいなかった。これでは人は斬れないし、
また祝詞が必要ということは、斬る斬らないは稲荷狐次第というわけだ。
いや、祝詞があっても刀を振らなければ、あやかしは倒せない。
ふたりの息が合わなければ、あやかしたちが横浜を荒らし回るというわけだ。
ちょっと待て。退治したはずの甲斐の虎は
「あの虎は何故、蘇った」
「水虎ちゃんは小さいけど神様だもん。神の力で斬ったところで死にはしないさ」
「痛いけどね」
そうか、また会う機会があれば謝ろう。
「それに刀の霊力とは……」
「気付かないのは耐えられている証拠なんだよ。さあ、構えて」
疑わしく思いつつ刀を構えると、稲荷はニヤリと笑ってから歌うように祝詞を唱えはじめた。
すると刀に光の粒が集まって、みるみる輝きを放ち、柄を握る両手が、両腕が暖かな光に包まれて、全身に巡ると血が沸き上がるような感覚になった。
祝詞が止まると荒い血流は収まって、辺りは再び暗闇となった。
「耐えられない人は吹き飛ばされたり、バラバラの粉々になっちゃうんだ」
耐えられる身体で良かったと、冷や汗を垂らして刀を仕舞った。
「お金のことは心配しないで。高島のおじさんが出してくれるって」
「高島……? 高島
今度は、つば広のとんがり帽子に黒尽くめの服になっていた。侍は知らなかったが、魔女の格好である。
横浜開港で行われた、高島主導の埋立事業や発展があまりに早く、まるで魔法の杖だと評されたから、この服装なのだろう。
そうだよ、と言ってくるりと回り、スカートを
たかが子供の足じゃないかと言い聞かせるが、赤く染まった顔を背けずにはいられなかった。
「ねぇ、僕と一緒に悪いあやかしを封じよう! 僕には君しかいないんだ!」
手を握られてぶんぶん振られ、ねぇねぇねぇと懇願されて、顎に手を当て考えた。
西洋化に加担する高島に手を貸すことは、不快極まりない。
しかしこの9年、世を忍ぶような仕事をし、日々の暮らしがやっとの毎日に
そこへ廃刀令による失職である。
食わねど高楊枝とは言うものの、本当に食えなければ死ぬ。
剣の道しか知らぬ侍にとって、剣の腕で食っていける仕事は誇らしいのだ。
「僕はこの祠から横浜を300年間、見守っていたんだ……。やっと迎えた繁栄を、あやかしたちに壊されるのは嫌なんだ」
容姿も中身も子供だが、横浜を長く見守って、その思いは誰にも負けていない。
手を握る力が強くなり瞳が潤んで、ふるふると震えだした。
「わかった、一緒にやろう」
稲荷狐はパァッと明るい顔になり、涙を拭って笑顔を見せた。
用心棒の仕事がなくなってすぐ、稲荷狐に請われたのならば、これは良縁かも知れない。人生を委ねようではないか。
やったぁ! と喜びピョンピョンと跳ねる様は子狐だ。とても300歳には見えないが、これでも稲荷狐の中では若い方なのだろうか。
「それじゃあ僕のことは、そうだなあ……コンコって呼んで!」
ニッコリ笑って名前を伝えるコンコの様子に、侍は顔を引つらせた。
「君の名前は、確か……」
「名前は捨てたんだ!」
元服前にも関わらず彰義隊に加わろうと決めた際、上野の山に名前を葬った。こんな親不孝者は最初からいなかったのだと、親に思って欲しかったのだ。
「名前がないと不便だよ?」
「いらないんだ! 名前など……」
コンコは唇に指を当て、んー……と唸りながら侍をまじまじと見つめて考えた。
「きん」
「はっ?」何だその商人のような名は。
「こつ」
「はぁあ!?」子狐め、何を考えている。
「りゅうりゅう」
侍の身体を観察し、よく鍛錬されていると思い筋骨隆々から名付けたようだ。
しかし何とも安直な……。
「それじゃあ、リュウだ。リュウって呼ぶね!」
コンコはリュウに身を預け、上目遣いで見つめていた。
嬉しそうに輝く瞳を見下ろしたリュウは、懐かれてしまった参ったなぁと頭をかいて、白む空を見上げるのだった。
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