【パイロット版】稲荷狐となまくら侍 -明治あやかし捕物帳-

山口 実徳

第一幕

横浜①

 時は明治9年、場所は横浜、烏も眠る夜の底。


 石造りの港にひしめき合う蒸気船は、どれもこれも帆を畳んでいた。それはさながら翼を休めて眠りについた鴎や海猫のようである。

 夜のとばりに包まれた洋風建築の商館は、どれもこれも闇より深い色をして静まり返っている。

 商館の並びを北に進むと、川を挟んで陸蒸気おかじょうきの駅がある。汽車も客車も貨車も、死んだように音がない。


 さて、この大岡川を上ってみると、昼間の喧騒が容易に想像できそうな繁華街が広がっている。港から離れると次第に商店は粗末になっていき、更に上れば生活の色が濃くなって、時折かすかないびきが聞こえるほどだ。

 これらの南を流れている堀川との分かれ目に着く頃には、すっかり寂しい町並みである。

 そんな辺りの隅の影に建っている吹けば飛ぶような小屋を目指し、着流し姿の若侍がクサクサとした足取りで、過去を振り返りつつ歩いていた。


 幕臣が大政奉還により一変、朝敵として見捨てられるのが許せなかった。

 元服げんぷく前に勘当覚悟で彰義隊しょうぎたいに加わった。

 新政府軍と戦ったものの、アームストロング砲の爆風に吹き飛ばされて上野の崖を転げ落ちた。

 近隣の家に介抱されたことは幸運だったが、傷が癒えるまでに時間を要し、北上する戦線に出遅れた。

 ようやく刀を振れるようになり一目散に船へと向かうが、死んでしまうと気遣われ、横浜港行きに乗せられた。

 五稜郭ごりょうかく陥落の報に愕然とし、介錯人を探していると、まだ若いのにもったいない、剣の腕があるならと、遊郭の主人から用心棒に雇われた。

 しかし廃刀令が公布されると勝ち得た信頼が泡と化し、あっさり首を切られたのだ。

「刀をもがれた侍に、何の用がありますか?」

 主人が冷たく放った言葉は、何度思い出してもはらわたが煮えくり返る。

 奥歯をギリギリと噛み締めながら、暗い夜道を睨みつけていた。


 突然、宵闇に包まれていた正面の景色が青白く浮かび上がった。

 光の中には自身の影が映っている、背後だ。

 振り返って、絶句した。

 そこには白い虎が揺らめきながら、ぼんやりと光っていたのである。

 唸り声を上げている、獲物を狙っているのだ。

 獲物は、俺だ。

 左腰に回した手が空を掴んだ。

 畜生、何が廃刀令だ!!

 これは好機と言わんばかりに、虎はニヤリと笑って見せてから、侍との距離をジリジリと詰めてきた。

 侍は睨みをきかせたまま、距離を保つ。


 組み伏せるか? そもそも虎を見るのが初めてだ、どんな動きをするのかわからない。それに、この虎はまともじゃない、あやかしのたぐいに違いなかろう。もちろん、あやかしと対峙するのも初めてだ。

 それでは動きなど見当もつかないな。

 自嘲すると、一筋の光線が視界を突いた。


 刀だ!


 すかさず掴んで鞘を捨てると、波打つ刃文が青白い輝きを放った。柄を握った手から腕へ、熱い血潮が駆け巡る。

 刀を構えた侍に、虎は悔しそうに顔を歪めた。募る焦燥に耐えきれず牙を剥き、喉元を目掛けて飛びかかった。

 侍が消えた。

 そう思った頃にはすでに遅い。

 刃は虎の口にあり、噛み砕こうとした瞬間に一刀両断。身体は上下ふたつに斬り裂かれ、ドサッと落ちると泡となって消えていった。


「お見事!」

 甲高い声に振り向いた。

 そこには、おかっぱ頭で吊り目がちな、まだ男とも女ともつかない10歳ばかりの子供が、目を見開いて満足そうに拍手をしていた。ハンチングを被り、襟付きシャツとたっぷりしたズボン、この場に似合わぬ洋装である。

 年端も行かぬ子供と言えど、事情を知る態度。油断はできぬと刀を向けるが、まったく動じる様子はない。


「もういいよ」

 虎が消えた地面からふつふつと泡が沸き起こり、現れたのは不機嫌そうな猫だった。

 いや、やはり虎だ。これも子供だったのだ。

「まったく。ご主人のおつかいに来ただけなのに、ひどい目に遭ったぜ」

 ふてくされたように虎が喋ったので、侍は腰を抜かしてその場にへたりこんだ。

「その分、おまけしたじゃない」

「どうせなら安くして欲しかったな。甲斐は遠いし、塩だって重いんだぞ」

 甲斐の虎…? もしや武田の守護神か…?

「だったら甲斐からここまで水路を引いてよ! 腐らない水があるって聞いたんだ、船乗りたちが喜ぶよ! 水路ができれば君も気軽に遊びに来れるし。ねぇ、いいでしょう?」

「それは、人間次第だな」

 塩を詰めた手ぬぐいを背負い、短い足で跳ねるように闇の中へと駆けて行き、しばらくするとドボンと井戸に落ちる音がした。

「落ちたぞ! 大丈夫なのか!?」

「あの子は水虎ちゃん。水脈を辿ればどこにでも行けるんだ」


 虎の見送りが済むと、子供が吊り目を見開いて侍を凝視した。すべてを見透かすような視線に、思わず身震いしてしまう。

「君がここに来てから、僕はずっと見ていたよ。君が今まで抱いた想いも苦しみも、僕は全部知っていて、痛いほどにわかるんだ……長かったね」

 慈しむような顔をして、哀しそうに微笑んだ。


 貴様の歳と同じだけの年月を、一体どうして語れよう。構えた刀の切っ先を子供の顔に向けようとするが、不気味な雰囲気に負けてしまい、どうにも動かすことができない。

「怖がらなくていいんだよ。僕は君のそばにいたんだから」

 震える刃に目もくれず、子供は少しうつむいて横に一歩だけずれた。

「僕は、お稲荷様」

 自らをお稲荷様と言う子供が隠していたのは、痛々しく打ち捨てられたほこらだった。

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