9

 ×月×日


 もし肉が嫌いな狼の生涯があるとすれば、それはどれ程苦痛な物なのだろうか。

 血と脂が滴る新鮮な肉を前に、その狼は吐き気を覚えるのだとしたら。

 最初の内は簡単だ、狼は新鮮な骸を前にそっぽを向き「今は腹が減っていない」と口にすれば済むだけの話である。

 だが時間が経てばそうは言ってられない、狼は己の体を維持するために生肉を口にする必要がある、故にそれが嫌だと思っていても体は飢え、栄養を欲する。

 しかし肉に牙を掛けた刹那、狼は鼻をつく血肉の臭気に吐き気を覚え喉を刺す胃酸を吐瀉するのだ。

 狼に仲間が居れば「さぁ食べろ」とせがむかもしれない、あるいは骸が咀嚼される様を見せ「美味しいのに」と不満を漏らすかもしれない。

 それでも己の意思を貫くのなら、続く未来は飢え死ぬそれか、あるいは頭を押さえつけられ無理矢理にも肉を食べされられるそのどちらかである。

 狼に産まれた以上狼は肉を食べなくては存在してゆけない、もしその定めを拒むのなら、それは最早生きてるとすら呼べない行為なのだ。

 時折考えてしまうそんな考えに言葉を返したのは、静かな部屋の中、椅子の上で胡座をかいた如月だった。

 あの日姿を見せた如月は、日を追うごとに姿を見せる頻度が増えていき、最近は常に僕の視界のどこかに居座っている。

 最初こそ服すら纏っていなかったが、今ではダボダボのタンクトップにハーフパンツというラフな服装で過ごしていることが多い。

 如月曰く、それは「お前の認識が強まったからだ」との事だ。

 「灰色狼か、お前は随分とその妄想にご執心な様だな」

 相変わらず如月の言葉はどこか古くさい、だが、色彩の情報に疎く性別すら存在しない文字通り雪の様な如月にとって、その言葉は何処までも似合っていた。

 「だがお前が望んでいるのは灰色では無く白だ、穢らわしい狼の色ではなく己が狼では無いと誇示するための白だ。

 足らない言葉に頼ること無く己を証明できる白、そして傷跡がより目立つ白。

 弱くありたいと思うお前の考えには同意しかねるが、少なくとも理解は出来る」

 「初めて僕の意見を否定したね」

 「否定では無い、部分的な意見の食い違いさ。

 何せ、私はお前だが、私はお前と同じでは無い。

 目指す所が同じでも辿る道程は無限にあると言って欲しい物だな」

 相変わらず小難しい言葉に、僕は少しだけ呆れて返答を投げた。

 「哲学的だね」

 「哲学を知らずして何を得ると言うつもりだお前は」

 少しだけ得意げに言葉を返した如月は、何気なく鼻先を指で撫で、細く白い指が真っ赤に染まっていることを確認してから溜息を溢す。

 「おいまたか、少しは私の迷惑も考えてくれよ」

 唐突に如月の鼻孔から流れた血はその量を増し、閉まりきっていない蛇口の様にボタボタと赤い滴を溢し始めた。

 「また血が出てるね」

 「私でも想像せぬ頃合いにこれでは、少々鬱陶しい物だな」

 何の前触れも無く如月が血を流すことは珍しい事では無い。

 そもそも実態を持たぬその幻影にとって、この珍事は見た目以上の範疇の出来事の様だが、時折絶え間なく流れる血の滴とそれに付随する赤の領域に、如月は驚くでも無く溜息を吐く。

 「お前が設定したのだろ、少しは直す努力をしろ」

 「はいはい」

 呆れながら言葉を返すが、瞬きする間に唐突に消える赤のコントラストが僕にとっては少しだけうらやましく感じる。

 「斯様に目立つ傷か、理解はするが、同意はしかねるな」

 鼻先から下を赤く染めた如月は、言葉を反芻するとテレビへと視線を向け、流れる血をフローリングの上に意味も無く零すのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る