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 ×月×日



 存在の認識は、名を定めてこそ成される物だとどこかで聞いたことがある。

 例えば林檎という存在がある、だがその果実から林檎と言う名前を無くせば、その存在はただの果実という大雑把な存在となる。

 更に果実という名を無くせば、それは何かしらの植物の一部となる。

 つまり、逆を返せば存在という物はコーヒーに落とされたミルクの様に、どこまでも曖昧模糊とした存在で、他との境界すら定かでは無いものである。

 だからこそ人は、その乳白色の染みに幾重にも定義を定め、線で囲い、確固たる唯一無地の存在としてその染みを他と隔離し、認識する。

 その最小単位の区分けこそ、名という概念だ。

 鴉という名前を知らない人間にとってはただの黒い鳥でも、それに鴉という名前を与えるとそれはもう他の黒い鳥とは違う、ヘンペルの鴉に頼らずとも人はその鳥の名を見分ける事が可能になるのだ。

 故に名は重要だ。

 脳に受容体がある様に、概念は名という定義にのみ反応するのだから。

 ならばもし、物理的に存在しないソレに名を与えたのならどうなるのだろうか。

 ふとそんな事を考えてしまった。

 ごく僅かな存在感、陰も形も無いソレに名を与えたのなら、虚構の片隅に居座る君はどうなってしまうのだろうか。

 ソレでは無く、一つの存在として確立された陰はどうなるのか、その好奇心は夜、いっそう強くなっていった。

 頭の中が騒々しい、静かな寝室に響く残響の中、僕はつい好奇心に負けて口を開いてしまった。

 「如月(きさらぎ)」

 それが虚空に付けられた名前だと自ら認識したその瞬間、頭の奥で何かが僅かに動き、頭の中の残響が少しだけ小さくなった気がした。

 風の強い日、窓を少しだけ閉じる様。

 奥底から吹き込む情報が何かにつっかえ、少しだけ頭の中が静かになった、そんな気がした。

 今思えば、それこそがその存在の誕生の瞬間だったのだろう。

 だが、とっさに僕は思ったのだ。

 僅かな違和感を誤魔化す様、ごくごく小さな声で否定を述べた。

 「何やってるんだか……」

 ひとりぼっちの部屋の中、ソレを含め誰も返事をする事の無い言葉。

 いつも通りソレは何も意見を述べず、ただ静かに言葉を受け止めてくれる、そう思っていた。

 だけど。

 「馬鹿だな、お前は」

 不意にそんな言葉が頭の中に響いた。

 実際に声が聞こえた訳でも、その声がどんな声だったのかも認識した訳でもない。

 だが、音も無く、そんな言葉は頭の中で励起していた言葉を、直感的に僕は認めた。

 これは如月の初めての言葉だと。

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