1
†
煙が上がる。
見慣れたビル。
遠くにある。
青い空。
白い雲。
銀色のガラス。
摩天楼。
黒い煙。
何故僕はここにいるのだろう?
ああ、そうだ。忘れ物を取りにきたんだ。
大理石で囲まれた壁、床、天井。
早く、会いに行かないと。
炎。
眼前。
焼けたコードが火花を散し降って来る。
砕ける大理石。
剥き出しの断熱材と鉄骨。
窓の外は青い空。
少女の笑顔。
太陽光が眩しい。
ああ、早くあそこに行かないと。
炎。
眼前。
焼けた髪が火を纏って降って来る。
砕ける柔肌。
剥き出しの下着と肋骨。
目の中は黒い穴。
少女の顔。
煙が上がる。
見慣れた顔。
遠くにある。
†
「先生。起きて下さい。先生」
抑揚の無い少女の声がする。
天井の証明が弱く灯り、昼間なのにブラインドを下げっぱなしな為に薄暗い室内。
奥まった部分には人間工学に基づいたしっかりとした椅子と立派な机が置かれ、その上のステイショナリーも整っている。
陽の当たらない壁は一面本棚になっており、陽の当たる側には来客用のチェスターフィールドソファが置かれ、その前には商談用のローテーブルが据えられている。
そのローテーブルの上にはアールグレイの茶箱とティーセット、湯沸かしが展開されたままにされ、来客用ソファの向かいの1人用ソファには一人の男がだらしなく横たわっている。
少女の声は男の眼前から放たれていた。
整理されているのに雑然とした事務所。
「あ……あぁ……ああ」
「起きましたか?
白い丸襟とカフ付きの黒いベロア地ワンピースを身につけた少女が機械的に訊ねる。糊で固められた丸襟とトリプルバレルのカフは全てのボタンが留められ、襟元には白いピケ地のボウタイが結びつけられていた。
御剣と呼ばれた前髪が長くうねった黒髪の男は、呻きながら天井を見上げると、首も動かさずに視線だけで時計を探す。
「
少女は軍式の時間表現を相変わらず機械的に伝えながら、湯を沸かし始める。
湯は瞬時に沸いた。
「あぁ……エージェントか?」
横たわっていた男は、ティーポットに沸騰した湯を入れポットを温めながら給湯室に向かう少女には視線を送らずにそう訊ねると、黒髪を揺すりながら目頭を抑える。
「お生憎様。その話は今のところ頓挫してるわ」
別の女の声。
「あぁ……君かぁ……残念だなぁ……」
黒髪の男は緩慢に立ち上がり、声の主の方とは反対の壁の方に身を向けると、
「酷い言いようね」
「残念なのは本当さ。今回のは大分自信があるんだ」
「あなたの場合、詩集なんか出すより実名で『有名探偵が教える世界の裏側』とかを出した方がよほど売れるわよ」
御剣はそれには関心を示さず、
「相変わらず非効率ね。今どき、そんな古いマナー気にしてる人の方が少ないわ」
男が向き直った先にいたのは、長い黒髪を大雑把に束ねワインレッドのニットのハイネックにダークグレーのジャケットを羽織り、白いトラウザーズを佩いた長身の女であった。足元にはヒールのやや高い黒いチェルシーブーツを併せている。
「僕が気にするんだよ」
男は俯いたまま応える。
そこへアールグレイを淹れた少女が戻ってくる。
ベルガモットの香り。
「ああ、ありがとう、ナナミ」
御剣は立ったままナナミからミルクと砂糖のたっぷり入ったミルクティーを受け取ると、香りを確かめた後、ゆっくりと口に含む。
「砂糖とミルクはご自由にどうぞ」
ナナミの機械的な言葉と共にジャケットの女の前にも紅茶が置かれる。
「相変わらず紅茶のセンスは良いわね」
黒髪の女は来客用ソファに腰掛けると紅茶をそのまま飲み始める。
「それで?本日のご要件は?
黒髪の男も個人用ソファに座り直し、もう一口ミルクティーを味わい、天井を見上げると、そのままの姿勢で間木と呼ばれた黒髪の女に問うた。
「もちろん、『探偵』のお仕事よ」
†
光る地面。
キラキラと。
流れる足元。
サラサラと。
白い手。
背中を押す。
流れ星。
ヒュウヒュウと。
失われる重力。
フワフワと。
赤い
内蔵が浮く。
ザブンザブン。
ゴツンゴツン。
黒い眼孔。
黒い笑顔。
†
「ふぅはぁああ!」
御剣が飛び起きる。
伸び上がるのに落ちる様な感覚。
寝たのは変死体に触れた一瞬。
マイクロスリープに過ぎない。
姿勢すらも変わっていない。
「どうだった?」
薄暗く肌寒い遺体安置所にその声は響いた。
安置所の中には「4人」の影。
一つはジャケットの女。
一つは黒衣の少女。
一つは横たわった死体。
最後の一つは骸に触れた黒髪の男。
「ぁ……あぁ……他殺……だろうな……これは」
薄いゴム手袋越しでもその冷ややかさは伝わる。
「そうでなければ悪魔の仕業だろうね」
御剣はそう言うと手袋を外し、シルクのタイを絞め直す。
「いちいちネクタイを絞め直すなら、最初からしなければいいのに」
2人の吐く息は白い。
「まあいいわ。他殺の線なら他の状況とも合致する部分もあるし、もう少し湾岸周辺の物的証拠収集の要請とその線を加えた上でのプロファイリングの精度を上げてみるわ」
間木は独言の様に早口で告げると、安置所から外に出る。
「その情報は部外者に出して大丈夫なのか?」
急に明るくなる照明に目を細め、ぬるくなった空気の中で御剣も独言を呟く。
「別に?あなたは監視対象だから問題無いでしょう?」
三人が部屋を出ると、後ろの方でボディバッグが閉じられ、引き出しにしまわれる音がした。
そのまま幾つかのエレベーターを乗り継ぎ、幾つかの廊下を渡って間木の職務室に入ると、彼女は机の中から一つの封筒を取出し、御剣に手渡す。
「はい。今回の報酬」
「はい。領収証は要るかい?」
それを渡された御剣は中身の札束を確認しながら訊ねる。
「要らないわ。あなたへの依頼は基本的に機密費扱いになるから」
「国民への重大な背信行為だね」
御剣は中身を確認し終えると、何枚か抜いた後、残りは後ろにいるナナミに封筒ごと渡す。
「国家警察が非科学的なオカルト探偵を調査に使ってる、なんて知れた方が問題よ。あ、確定申告は誤摩化さないでね?」
間木は悪戯っぽく微笑む。
「どうせ僕の行動は6課に監視されているのだから、税務署もそこから直接情報を取ってくれたら便利なのに」
御剣はナナミが渡された封筒を
「警察省と財務省が情報を共有したら、それこそ国民への背信だわ。あと、あなたを追ってるのは6課じゃなくて4課よ」
「えぇ?租界とはいえ
「治外法権とはいえ、一応は国内法が適用されるからね」
「外の治安状態はヨハネスブルク並みでも、か」
「いろんな租界が隣接してるからね、インターポールみたいなのでもないと……」
ここで、間木は少し目線を下に送る。
「まあ、先の大戦以来、EUも有名無実になって久しいんだけどね」
間木は暫く何も置かれていない机上を見ると、目を上げ御剣を見た。
「今回はお疲れ様。お陰で目処がたったわ。送るから暫く入口で待ってて」
○
クロスの敷かれていないテーブルの上に置かれたのは、三段プレートに処狭しと並べられたスコーンやチョコレートと焼き菓子、青く装飾された白磁のティーセットに銀器のミルクポットと砂糖入れであった。
「私は英国式ではなくてイタリア式やドイツ式のコーヒーに甘い焼き菓子の方が好きなんだけど」
間木はそう言うとスコーンに蜂蜜を付けて一口食べると、キーマンをストレートで口に含む。
「いや、送ってもらった上に済まないね。ここは前から気になっていたけど、僕達だけで境界を越えると色々面倒そうで」
御剣はそう言いながらスコーンにバターと蜂蜜をつけて味わうと、ミルクと砂糖をたっぷり入れた濃いめのアールグレイを味わう。
「ああ、ここの茶葉も良いね。後で買って行こう」
黒髪の男は隣に座るナナミにそう言うとナナミにはストレートの紅茶が入ったカップを渡す。
ナナミはそれを一口含むと暫く目を瞑り、それから目を開けた。
「成分分析完了。5番通りの店で購入可能です。先生」
ナナミは無表情にそれだけ告げる。
「そう言えば、さっきの話、僕にしてよかったのか?」
御剣はそのまま話し始める。
「さっきの話?」
「4課がどうの」
「ああ、大丈夫よ。一応私の部屋は『国家警察仕様』だし、それに、どうせあなたは分ってしまうでしょう?」
「まあ、そうなんだが」
「で?」
「ん?」
「ただのお茶なら越境はしないでしょう?」
「ああ、久しぶりにカードを引いてもらおうと思って」
「あら、珍しい」
「夢だと、どうにも曖昧だからね」
御剣の言葉が終わらないうちに間木は布に包まれたタロットカードの箱を取出す。
「スミス・ウェイト版以前のか、珍しいな」
「前のもマルセイユ版だからスミス・ウェイト版以前のよ。これは
間木はそう言うと包んでいた布をテーブルの上に敷き、手を拭き始める。
「スミス・ウェイト版以降は『
次に、御剣にも手を拭く様促す。
「オカルトと言えば、国家警察が非科学的なオカルトを調査に使って大丈夫なのか?」
御剣は手を拭きながらデックを準備している間木に訊いた。
「嫌味?プロファイリングには自分の無意識な先入観も出てしまうから、こう言うランダム性の高い物から『霊感』を得るのは
間木は説明しながら両手で円を書くようにカードを混ぜ始める。
「ほら、あなたも」
そう言うと御剣の両手を取り、カードを混ぜさせる。
ナナミはこの両者のやり取りを無表情に、ただ目線だけで追い、他は黙っていた。
一通り混ぜ終えると、間木はカードを一度テーブル上に纏め、御剣にカットさせると、再度扇状に拡げ出した。
その中から2枚引く様に御剣に促し、御剣もそれに従い、2枚のカードを引き出す。
次に、天地が反転しない様、本を開く様にカードを開ける。
「XVI:
「V:
「あら、あなた。何か神様に怒られるようなことでもした?」
「それは、いっぱい」
閃光
爆発音
衝撃波
それは、御剣の事務所のある建物からだった。
黒い煙がドウドウと立ち昇っている。
「あぁ……ほら、ね?」
御剣はどこか戯けて言う。
「あなた、知ってたの?」
「夢で見たからね」
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