少納言さんはオーネスト 6

 式部さんは一階リビングの窓から、外に足を出して座っていた。

「式部さん」

 背後から声をかけると彼女はゆるりと振り向いた。そんな仕草の一端に、高貴な風情を覚える。

 さて、声はかけたものの、どう切り出していいかわからなかった僕は、情けなくも黙ってしまった。


「人間は不思議なものだと、思うことがあるの」


 ふと、彼女は長い髪をまとめ上げて庭に降り立ち、庭の隅に咲いた山吹の花を撫でつつ言った。

「もう枯れた花、消えた滝、……いなくなった人に思いを馳せること。そこには、何の甲斐も意味もないのに、でも、一日思案していると、そのほとんどは今ここにはないものを思ってるのよ」

「……」

「滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ……」

 背後から、少納言さんのおっとりとした声がした。式部さんはゆるりとこちらを見る。

「それは、四条大納言様(*)の……」

「名前だけでも、生き残れるのね。花も滝も人間も」

「……ええ」

「けれど、だからこそ、残された私たちも生きることが出来るというものじゃないかしら。式部ちゃん。帝もそうだったんじゃないかしら」

「……」

「残された名にしがみついて、いずれ私たちも残される名になる。きっとそれが人の世なのよ。だから、あなたが劣等感を抱く必要はない。自然の流れに抗う必要は、ないの」

「でも、彰子様は……」

「大丈夫よ。式部ちゃん」

 少納言さんも庭に下り、式部さんの手を取った。

「あなたも、もう頑張ったんだから」

 

 それは、式部さんが一番言われたい言葉だったかもしれない。

 僕たちは少なくともそうおもうことはない。『源氏物語』のすごさに圧倒されて、尊敬こそすれ、労うことなど思いもよらない。

 しかし、同じ時代の人間からしたら、そうなのだ。少納言さんが言った通り、式部さんも、『物語』を通して、華やかな宮廷の時代を刻みつけたのだ。


「…………」

 長い沈黙があった。外を通る小学生が、「おひなさまいる」と喋っているのが聞こえる。

「なにしてるのあれ」

 後ろから涼が入ってきた。

「しっ」

 僕は人差し指を彼の口元に立てる。今は思索の時間が必要だろう。

「式部さん、少納言さん。そこ目立つので、せめて縁側に座ってください。僕たち、二階で待ってるので」

 それだけ告げて、僕は引き戸を閉めた。

「いいの? 兄ちゃん」

「なにが」

「兄ちゃん今回何もしてなくない?」

「うるさいよ」

 というか何もしないほうが良いじゃないか。と僕は心の中、自分に言い聞かせて、階段を上った。




藤原公任ふじわらきんとうのこと。道長のまたいとこ。文芸に優れ、『和漢朗詠集』や三十六歌仙を選んだりした。道長の父兼家が「公任のすばらしさに比べて、うちの子どもたちはその影さえ踏めないなあ……」と、父親として言ってはいけないようなことを言ったとき、道隆、道兼の二人が「確かに……」というように黙り込んでしまったのに対し、まだ若かった頃の道長が「影どころか顔を踏んでやりましょう」と言ったという話が『大鏡』に残されている。

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