歴道直下ーKnow tomorrow from past-

蓬葉 yomoginoha

紫式部

式部さんはスタディアス

 誕生日の時のような香りが漂っていた。

 あるいはクリスマスの時のような、嫌いじゃない匂いだ。


「何、この匂い……ていうか、煙いし」


 六畳一間の部屋の中、右手に本棚、正面に雑然とした勉強机と窓、左手に押し入れ。誰の姿もない。そうなれば。

 僕は押し入れの引手に手をかけて、ゆっくりと引いた。そこに。


 

 「おや」


 

 重たげな、十二単じゅうにひとえを着た女の人が、いた。




「……」

「あなたがこの部屋のあるじ?」

「え、あ、はい。まあ」

「そっか。邪魔してるよ」

 綺麗な人だ。

 眉が黒く塗られている。お歯黒はぐろはしていないようだけれど、教科書で見るような昔の貴族の女性だった。

 彼女はどこから持ち出したのか、蝋燭ろうそく鉛筆えんぴつ立てに立てて、本を読んでいる。

「あの」

「うむ」

 色々聞きたいことがあったけどまずは、と僕は畳の方を指さした。

「蝋燭消してください。火事なっちゃうんで。こっちで読んでいいですから」



「なかなか面白いわね。未来の書物も」

 押し入れにしまったままになっていた「ポケモン」の漫画を読みながら、十二単の女性は言った。

「漫画というんですよ。それ」

「まんが……へえ。絵巻みたいなものかしら。でも、読み方が難しいわよね。これ、右からこう……読むのよね?」

 こちらに身体を寄せて、彼女は聞いてきた。

「ええ。右上から左、右下、その左、また右下っていう感じで」

「ふうむ」

 腰以下にまで達していそうな髪の毛が揺れる。一瞬、ふわりいい香りがした。


「で、その続きを読む前にちょっといいですか」

「うん」

「あなたは、誰ですか」



「誰って言われると困るけど。あ、それ見せて」

 彼女はリュックサックを指さした。高校から帰って来た時のままで、教科書やノートが入っている。

「どれ?」

「その、日本……史? なんとかって書いてある書よ」

「あ、これですね」

『詳説日本史B』。人口に、いや高校生に膾炙かいしゃした、オレンジ色の教科書だ。

 それを渡すと、彼女は慣れた手つきでページをめくった。


「これあれよね、史書よね」

「そうですね。たぶんあなたが思ってるのとは違うと思いますけど」

「うんうん。あら、東大寺の廬舎那仏るしゃなぶつ、懐かしいわね。あっ、弘法こうぼう大師に伝教でんぎょう大師のことも載ってるわ」

「あの、寄り道しないでください」

「あら、ごめんなさいね。……あ、ここよここ」

 国風文化と大きく見出しの付けられたそのページ。右のページの文を指で追う彼女の細く綺麗な手が、ある一点で止まる。

「ああこれこれ。『源氏』の作者」

「え」


  かな物語では、(中略)中宮彰子(道長の娘)に仕えた紫式部の『源氏物語』が  

  生まれた


 教科書にはそうある。

 つまり、この人は。

「紫式部さんでしたか……」

 そう言うと、彼女はふふんと、どこか得意げに笑った。



** 

「ていうか、これで全部? もっといっぱい物語あるじゃない」


 この時代の著作物がまとめられた部分をつついて、彼女は眉をひそめている。僕にそんなことを言われても困ってしまう。


「学校で習う範囲ですけど、でも大体だいたい網羅もうらしてると思いますよ」

「むむむ。せないわ。それに、なんか私、あの少納言しょうなごんと同等みたいな扱いになっていない?」

「そうですね。大概、セット……並んで習いますね。お二人は」

「いやいやいや。ありえない。私、彰子しょうし様に仕えてたのよ? のちのみかどの母に仕えてたのよ? レベルが違うわ。レベチよレベチ」

「何でそんな言葉知ってるんです」

「セット」という言葉じゃわからないだろうと気をつかった自分が馬鹿馬鹿しく思える。

「ちなみにあなたは、読んだことあるの?」

「『源氏物語』ですか?」

「そうに決まってるでしょ」

「ちょこっとしかないです。学校でやった範囲くらい」

「ええ? 全部読んでこその学問じゃないの?」

「そんなことしてたら授業つぶれちゃいますよ」

「理解出来ないわ。……ちなみに、どこ読んだの」

「えっと、始まりのシーンですね。桐壺きりつぼ更衣こういのとこと、あと光源氏が若紫わかむらさきを見つけるとこですか」

「あの場面を? そこだけやったわけ?」

「まあ、そうですね」

「ちょっと……それじゃ源氏の評判悪くなっちゃうじゃない。いとけない少女に手を出すロリコン誘拐ゆうかい男みたいな」

「何でそんな言葉知ってるんです」

「桐壺のとこはまあいいとしても……むう」


 よほど気に食わなかったらしく、彼女はだらっと畳に寝転がってしまった。十二単だと寝転がっても寝転がった感覚にならないのではないだろうか。


「でも、一番有名ですよ。多分この時代の文学で」

「……ほんと?」

「『枕草子まくらのそうし』と張るくらい」

「……」

 沈黙の果て、舌打ちが響いた。


 紫式部に会ったなら、清少納言の話はしないほうが良い。


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