30 そして、前へ
30 そして、前へ
「寒くてごめんなさいね」
暖房を入れようとするお母さんに丁重に断りをいれた。
二階の角部屋に位置された熊坂の部屋は、寒さのせいもあり、凛と澄んでいた。幾つものキャンバスが、そこら中に転がっている。それと共に、幾つかのガラス片が散乱していた。目を凝らしてよく見ると、それは天井の蛍光灯が割れたものだった。壁にもあちらこちら傷がついている。
「片付けたりとかはしてないんです。整理しようとは、何度か思ったんですけど……」
お母さんはそこで言葉を噤んだが、その先は言葉は要らなかった。熊坂の雰囲気、匂い、思い出に満ちたこの部屋に、手を入れたくは無かったのだろう。
あの日、熊坂と初めて出会った、寒い美術室の光景が蘇る。あの時楽しそうに絵筆を振るっていた熊坂の姿が目に浮かぶ。
お母さんに差し出されたスリッパを履いて、慎重に部屋の中に足を踏み入れた。幸い窓の外には外灯が立っていて、部屋の中を程よく照らしてくれている。
壁際の棚には、使い込まれた数本の絵筆と、もうほとんど残っていないだろう潰された絵の具のチューブ。最後の最後まで搾り出そうとしたのだろうか、どれもこれも小さく丸まっている。限界まで絞り出されたそれを見る限り、熊坂の奮闘振りが目に浮かんだ。
「あの子は、本当に絵を描くのが好きだったんですけどね。高校に入ってからは、あまり新しい絵の具も買ってやれなくて……。あの子は、学校で描いてるからいらないって、笑ってたんですけど……」
お母さんの声が、段々と湿り気を帯びてきた。言葉を紡ぐ内に、色々な事を思い出して来たのだろう。
部屋の隅に転がっていたキャンバスを、一つ持ち上げて表向きにする。たまたま持ち上げたそれは、あの日熊坂が『幻』と言うタイトルをつけた、家族の絵だった。だが、哀しい事にその絵には、黒で大きくバツが描かれている。想いをぶつけたのだろうその絵には、不本意ながら、強いパワーが感じられた。
辺りに散らかっている他の絵も見る。どれも同じように、一度描かれた絵の上に大きく黒で塗りつぶされている。更に奥に立てかけられていたキャンバスには、何も描かれていない上から、ぐちゃぐちゃと赤や茶色やらで塗り潰されていた。
混沌としたキャンバスには、苦悩と絶望が満ちていた。
『絵を描くのが辛くなったんだよ』
『違うな、辛くなったんじゃない、描けなくなったんだ』
熊坂の言葉が、不意に耳を掠めた。
俺はてっきり、宮内達から睨みつけられて、部に居られなくなったのだと思っていた。
だけど、違った。
その時俺は、熊坂と繋がった気がした。
あいつは、自分の心を騙し、周囲の人間に優しい言葉を投げかけ、あくまで普通を装っていたのだろう。だけど、絵にだけは、自分の描くものにだけは、嘘をつけなかったのだ。
自分自身さえも騙していたその優しい嘘が、キャンバスを前にした瞬間、仮面を剥がされてしまうように、音を立てて崩れてしまったのだろう。それは、あいつなりに真剣に向き合って来たからこその、辛い現実だったのかもしれない……。
「武文様……」
横から聞こえたアワレの声が、ゾッとする程冷たい。
だけど、今のアワレの気持ちはよく分かる。
「ああ、分かってる……」
哀しいのだ……。
ああ、だけども、俺に熊坂の痛みを感じる権利などあるのだろうか? 俺は結局、あいつに何も出来なかった。救ってやるどころか、俺はあいつに最後に、絵を描いて見せてくれと言っているのだ……。
奥底に潜んでいた頭痛が、一つ大きく脈を打った。
思わずこめかみを押さえるが、波は幾度も寄せては返す。
「武文様」
聞こえてきたアワレの声は、小さく囁くようなものだった。声の色は、元に戻っている。
「……何でもない」
「お辛いのでしたら……」
「大丈夫だ……」
アワレの言葉を遮る。この期に及んで、自分だけ苦痛から逃げようと言う気は無かった。あいつの苦しみは、もっともっと深かったはずだ。そして、あいつの背中を最後に押したのは、もしかしたら、俺なのかもしれないのだから……。
「どうかしましたか?」
「お母様、ご心配なさらないで下さいね。武文様、今日は少しお疲れなんです」
掛けられたお母さんの声に、アワレが即座に返す。きっと、心配そうな顔をしているお母さんに対しての配慮だろう。
頭痛の所為か少し足元がふらついたので、一度棚に手をついた。その時、棚と壁の隙間に、何かが挟まっているのを発見した。
しっかりと挟まっている所為か、手に力が入らない所為か、上手く取り出せない。
「アワレ……」
アワレを呼んで、目標物を指示する。アワレは頷き一度手を伸ばすが、途中で止め、武文様、少し離れていて下さいと静かに告げた。指示に従うと、アワレは挟まっていた棚をひょいと少しだけ持ち上げ、慎重に少しだけ位置を動かした。そして、挟まっていたものをこれまた丁寧に取り出し、俺の元へと持ってきた。
「あの、あなた……」
その光景を見ていたお母さんが驚いた声を出す。
「驚かせてしまって申し訳ございません。後程ご説明させて頂きますので、暫しお待ち下さいませ」
アワレはそうお母さんへ挨拶をすると、さ、武文様と俺に挟まっていた物を手渡した。
新聞紙に包まれているが、大きさや重さを考えると、間違いなくキャンバスだ。
恐る恐る、そして慎重に新聞紙を開いていく。そこには、俺があの日描いた梅の花が咲いていた。
キャンバスに貼り付けられていたそれは、樹の根元、白紙だった部分が丁寧に切り取られ、そこにはあの日美術室で見た、暖かい熊坂の筆致が色づいていた。
梅の樹を見上げながら、絵筆を取る二人の姿。一人はキャンバス。そうしてもう一人は画用紙に、それぞれ梅の樹を描き写している。後ろ姿の為、二人の表情は分からない。だけど、そこからは笑い声さえ聞こえて来そうな程に、楽しそうに絵を描いている二人の姿を感じた。
この二人の関係が、険悪なものの訳が無い。この二人に流れる空気が、穏やかでない訳が無い。暖かく、柔らかく、それでも力強さを感じる、優しい優しいその絵に、俺の心は完全に奪われた。
自分の描いた梅など、ちゃちな飾りに過ぎない。圧倒される程の魂が込められたその作品を手にしたまま、気がつけば、俺の瞳は水底に沈みかけていた。
「すげぇ……」
その二人は間違いなく、俺と、熊坂だった……。
ふと思い至り、その絵を裏返した。
木枠の右隅に、俺が熊坂に最後に会った日、あいつに絵を描けと言った日の日付が記されていた。そしてその下に、遠慮がちに小さく記された言葉を見つけた。
『友達』
最早零れ出る涙を止める事は出来なかった。延々と溢れ続ける涙と共に、あいつの申し訳無さそうな顔が次々と浮かんだ。
『ごめんね、皆藤君……』
違う!
『ごめんね』
謝らなければいけないのは、俺の方なのに……。
足元の力が抜け、俺はその場に膝を着いた。
あいつは、何も悪くない。ただ、穏やかに日々を送りたいと願っていただけだったのに……。
俺の所為でその日々が壊れてしまったと言うのに、あいつは、俺の事を、こんなに暖かい目で見ていてくれていたなんて……。
なのに俺は、あまつさえこの苦しみの原因をあいつに押し付けて、全てから逃げ出したままだったんだ……。
自分への嫌悪感と、熊坂への申し訳無さで心が潰れそうだ。意思とは関係なく、涙と嗚咽は次から次へと体外に飛び出して行く。
ああ、出来る事なら全てをやり直したい。あの、熊坂が穏やかに笑っていた日まで時間を戻してしまいたい。俺があいつの前に現れなければ、きっと、今でもあいつは笑って、絵を描いていたのだろうに……。
押し寄せる後悔の荒波に溺れそうな時、ふと、頭を抱きしめる温もりを感じた。
「武文様」
アワレの声が静かに聞こえた。
「熊坂様は、ご両親の離婚や、色々な問題が重なって、結論に至ったのです。武文様だけの所為では御座いません」
アワレの声が静かに響く。
「アワレ、俺が……、俺の所為なんだ……」
アワレの抱きしめる力が、少しだけ強くなる。そしてそれに比例して、アワレの声からは熱が消えていく。
「お聞き下さい。熊坂様は、武文様の事を心より愛しく思っていたに違いありません。先程の絵を見て、それを疑う者が居りましょうか。あの素晴らしい絵を見て、それに疑いをかける者がおりましょうか」
静かに響くアワレの冷たい声に頬を叩かれる。
ああ、アワレは今、哀しんでいるのだろうか。怒りに満ちているのだろうか。
「武文様の責任も御座いましょう。ですが、僭越ながら申し上げます。武文様が、熊坂様との出会いを否定する事は、熊坂様の想いを否定する事で御座います。それは武文様と言えど、許される事では御座いません」
その言葉に、俺の心臓は大きく跳ね上がった。
俺は結局、また逃げようとしていたのだ……。
『誰かの為に、何か出来る、素敵な人に、ならないと、駄目よ……』
母さんの声が、瞬間脳裏を掠めた。
ああ、分からない……。
俺は何をしたらいいのか、何をすべきなのか……。
「後悔はいつでも出来ます」
アワレの声が、普段通りに戻った。
「振り返る事はいつでも出来ます。周りを見る事も、遠くを眺める事も、落ち込む事も哀しむ事も、後でいくらでも出来ます」
アワレの優しい声が、心を掠めていく。
「ですが、武文様。私が思いますに、武文様が今一番しなければいけない事は、前に進む事です。胸の時計に、再びネジを巻くことです」
「……立ち止まるな、って事か? 熊坂が、それを望んでるって言うのか?」
「いえ、熊坂様の考えは、熊坂様にしか分かりません。ですが、せめて熊坂様に誇れる生き方をなされませんと、あれだけ想っていてくれた熊坂様に、申し訳が無いじゃないですか」
『ごめんね、皆藤君……』
頭の中に、申し訳無さそうな熊坂の顔がポツンと浮かんだ。
――お前の所為じゃ……。
そこまで思い至り、ようやく気づく。
前に進むことだけが正しい訳じゃない。だけど、あいつはきっと俺が立ち止まっている限り、自分の所為だと思ってしょぼくれた顔をするだろう。それが容易に想像出来てしまい、俺は心の中で苦笑した。
そう、あいつは、そう言う奴だ……。
俺がどれだけ否定しても、あいつは自分の所為だと抱え込んでしまうだろう。
自分勝手な考えかもしれない。傲慢な考えかもしれない。だけど、俺が立ち止まらず歩き続ける事が、俺なりの、一番の餞なのかもしれない。
腕の中の絵を、一度強く抱きしめる。
梅の香りもしなければ笑い声も聞こえない。だけど、あいつの暖かさだけは、じんわりと伝わってくる。
外灯にちらつく雪の影が部屋の中に散っていく。
俺達の会話を聞いていたのか、部屋の入り口から聞こえるお母さんの啜り泣きを耳に溶かしながら、俺は懐かしい友へと想いを馳せた。
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