5、ある夏の夜だった。
ある夏の夜だった。
受験勉強に飽きた三郎は自分の部屋のベッドに横になっていた。
教科書を読んでいると十五分もしないうちに眠くなってしまうのはいつものことだったが
今日は特別な事情があった。
酔っ払っていたのである。
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その夜の夕食の時に隣町に住む叔父さんが遊びに来た。
三郎君ももうじき十七になるのだから少しぐらいよいだろうとワインをグラス一杯だけ飲ませられた。
その時は何ともなかったのに問題は叔父さんが帰った後だった。
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部屋に戻り教科書を開き、
しばらくすると急に目の前がくらくらとしてきた。
三郎は教科書を投げ出すとベッドに横になった。
彼のベッドは太郎兄さんが結婚前に使っていたものだ。
セミダブルでふかふかして寝心地がよい。
三郎が今まで酒を飲んだのはお正月のお屠蘇と妹のひな祭りの甘酒ぐらいだ。
まともに一杯飲んだのは今日が初めてだった。
だから酔ってはいたものの自分が酔っていると思わなかった。
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なんだかくらくらする。
気持ち悪いのに気持ち良い、
おかしな感じだとぼんやり考えていた。
肉体へのどんな刺激もうるさく感じられる。
なるべく楽になりたいと思っていたら
自分でも知らず知らずのうちに大の字になっていた。
天井の蛍光灯が眩しすぎるのがつらい。
目を閉じる。
体がとろとろと溶けてなくなりそうになる。
夢と現実の境目のような意識である。
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どれぐらいたったろう。
目の裏の黒いスクリーンにぱっと煌々と光る満月が大写しになった。
肉体の感覚が感じられない。
意識だけが満月の目の前に浮いているかのようである。
オレンジに光る巨大な月から
金と銀に光る無数の泡が吹き出してくる。
細いストローを何百本も集めて束にして、
それを石鹸水につけて吹いたような小さな泡だ。
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無数の泡の中には何かうごめくものがある。
それは蟻のような小さな生き物に見える。
小さかった泡が拡大レンズで見たかのように大きくなる。
泡から人間の赤ちゃんが透けて見えた。
肌の色、
髪の色は様々である。
銀髪、ピンクの肌に
葡萄色の目がちょんと付いた子もいる。
髪も肌も黒檀のように真っ黒な子もいる。
大体同じ容貌の者が塊になっているようだった。
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それぞれの塊が月から離れて、
四方に飛んでいく。
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三郎はああ!
世界中の赤ちゃんは月から降ってくるのだ!
と思った。
月から離れた泡たちは降りていくうちに、
何度もいくつかに分かれる。
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三郎には彼らの降りていく町の様子がよく見えた。
雲をつくかのような高層ビルが聳え立つ町もある。
ゴミ捨て場の脇の道にバラックが並ぶような町もある。
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三郎は日頃はあまり視野の広くない平凡な少年だった。
考えることといったら模試の結果に好きな映画スター、
新しい鉄道や飛行機の模型ばかりだった。
だがこの時は空から人間の暮らしを眺める神様にでもなった気分だった。
三郎は思った。
子供は皆、もとは月にいた一つの塊だったんだ。
それなのに生まれる時は
何故もとは一つだった人間は別れなければならないのだろう。
降りていった先次第で彼らの運命は大きく変わるだろう。
あるものは生まれながら裕福で、
尊ばれる。
あるものは生まれながら貧しく、
卑しまれる。
もとはみな一つの塊で一緒に月にいたというのに……
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しばらく泡ぶくに覆われた月の上をうろうろしていた。
離れた所から日本語らしい子供の声が聞こえてきた。
お母さん、
お母さん……
三郎は夢中でその声の元を捜した。
黒髪、黄色の肌に
つぶらな黒い瞳の子供達が塊になっていた。
非常に大きな塊で見渡す限りそんな子達である。
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金銀の泡の塊はどんどん膨らみだす。
もう月にくっついているのは耐えられなくなったのだろう。
ごそりと月から離れて飛んでいく。
三郎の意識も彼らに付き従って宙へ舞った。
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月から落ちていくとすぐ下には雲が一面に広がっている。
雲は月の光を照り返して、
銀色に光り輝いている。
それを抜けると右手に村で一番高い山が見える。
左手のずっと下は灯台が海面を照らしていた。
降りていくたびに「ばいばい」「またね」という声がする。
塊が分離して世界中に散らばっていく。
三郎の傍らには十五個ほどの金銀の玉が残っていた。
彼らと共に降りていくと三郎のよく知った景色だった。
右手は三郎の住む屋敷だ。
左手は丘の下に広がる無数の家々と電線だ。
右手は一つ一つの建物が大きい。
間がたっぷり取られていて、
この遅い時間には人気が無い。
左手は小さな家々が無数に隙間なく建てられている。
ほとんどの家は三郎の部屋のほうが大きいほどだ。
真夜中近いのに人の気配や活気が十分に感じられる。
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三郎ははっきりと思った。
こんな辛気臭い屋敷なんかより
にぎやかでたくさん人がいる丘の下のほうがずっと良い。
三郎はまだ貧富の差も知らない幼い頃、
丘の下に憧れていたことを思い出した。
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にぎやかさに惹かれるように、
仲間と共に丘の下へ降りていこうとした時だった。
急に大きな音が耳に飛び込んできた。
子供向けのカセットテープの曲だ。
近頃太郎兄さんと姉さんの寝室の窓辺でずっと流している曲である。
ちょっとうるさいなと思っているとまもなく止んだ。
しんとした中に金属がこすれるような音が始まった。
その中に、
か細い子供の声が響く。
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「お兄ちゃん。
お兄ちゃん。
一緒に遊びにいこうよ。
あっちに玩具がいっぱいあるよ」
「でもあっちはあまり他の子がいなくて寂しそうだよ」
「見てよ。
電車に自動車に飛行機もいっぱいあるよ。
他の子達はいないから全部僕達のだよ。
それに楽しそうな歌も聞こえるよ」
「俺は嫌だよ。
玩具が沢山あっても二人だけじゃつまんない。
あっちのほうが友達が沢山いて楽しそうだから俺はあっちに行きたい」
また三郎の耳に大音量のカセットテープの歌が飛び込んできた。
明るく勇ましい調子の行進曲である。
小学生の時に一人で暗い道を歩く時、
夜中便所に行く時、
よく歌った曲だった。
歌うと自分が強くなった気がして勇気がわいたものだ。
「じゃあ僕は一人で行くから、
お兄ちゃんはあっちに行きなよ。
近くだから歩けるようになったらまた遊ぼうね」
一つの金の玉は他の金銀の玉と一緒にそろそろと丘の下に降りていった。
もう一つの金の玉はピンポン玉のように大きくバウンドした。
行進曲の流れる中、
三郎の家の屋根めがけて飛び込んでいった。
「可愛いお姉さん!」
最後に、
三郎はそんな鈴のような声を聞いた。
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