BBAが誘拐されました

@nezumiusagi

第1話

「乗って下さい。」

腰に押し付けられた尖った切っ先に、全く声が出せず車に乗せられた。

「3列目にもいますから。静かにしてないと後ろから刺されますよ。」

 ゴミ捨てに出ただけなのに。どうしよう。どうしよう。なんで、私。部屋着やし、つっかけやし、ノーブラやし、おばさんやし。頭の中が疑問符と恐怖でいっぱいで、喉がカラカラで声が出ない。

「そのサングラス掛けて、横のジュース飲んで下さい、残さずに。」

サングラスはいいけど、このジュース絶対何か入ってるよ。飲みたくないしー。

「早く飲めよ!」

さっきのデスマス調とは、打って変わってキツイ口調に驚いて、一気に飲み干した。

 10分くらい経っただろうか、何処に行くかしっかり記憶しておかないと。車から流れる景色を目に焼付けたいのに、段々眠気に襲われ、気付いたら布団の上に転がされていた。頭がぐらつく気がする。うっすら目を開けると、懐かしい感じの天井と照明が見えた。ゆっくり体を起こし見回したが、さっきの男は居なかった。逃げられる!立ち上がろうとした瞬間、また布団に倒れ込んでしまった。足首が何かで固定されていた。ドスっと鈍い音が響いた瞬間、襖がスッと開いた。

「気が付きました?ずっと寝てたから。薬ちょっと多かったのかな。」

若い男だった。色白で今風のイケメン。何でこんな子が…。

「何で?どうすんの?何で私なん?誰にも言わんけん、帰らして。」

涙が溢れてきた。男はゆっくり顔を近付けて来た。

「初めに言っておきます。貴方が変な気を起こさなければ、手荒なことはしません。危害を加えたり、殺したりもしません。それから、僕達は貴方を選んで誘拐しました。貴方の家族構成も調べ上げてます。田辺美紅さん。ご主人は田辺浩一さん、娘さんは桜さん。3人家族ですよね。貴方が逃げたら、桜さん、連れ去りますよ。」

 血の気が引いて、産毛が総毛立った。       

「何の目的なん?」

考えれば、考える程分からない。臓器売買だったら、私じゃなくてもいい。熟女好きなのだろうか。でも、私は決して美魔女ではない。ただの小肥りの年相応なおばちゃんだ。我が家が身代金を要求出来る程のお金が無いことは、家で分かるだろう。

「目的はそのうちに分かると思います。兎に角、暫くは僕と暮らして貰います。僕の仲間は後2人。この家にいるのは、僕だけですが、仲間も貴方を見張ってます。危害は加えたくないので、大声を出したり、逃げたり、外部に連絡を取るようなことさえしなければ、家の中では自由に生活して貰おうと思ってますから。」

 逃げるのは今じゃない。チャンスが来るまで静かに待とう。

「今、何時?」

男は雨戸とカーテンを開けて、

「昼過ぎです。」と、壁掛け時計を指した。

いきなりの外からの光に鼻が反応して、くしゃみを連発した。少し寒い。ゴミ出しだけだからと半袖シャツにエプロン、下は娘の中学時代のジャージのパンツだった。

「これ着て下さい。」

男はパーカーを手渡してきた。

「有難う。」

何をお礼なんて言ってるんだか。誘拐犯なんかに。  

「トイレに行きたいんやけど。」

何たる屈辱。でも、もう我慢出来ない。

「気が付かなくてすいません。足出して下さい。」

男が足首の固定を緩めてくれた。良かった、何とか小股で歩ける。

「付いてきて下さい。」

男の後ろを小股で付いて行きながら、間取りを確認しようと見廻した。私が寝かされていた奥の和室、続きに結構大きな長方形の一枚板の机が置いてあった広めの和室。8畳と10畳くらいかな。その横に廊下がある。トイレは廊下の突き当たりに位置していた。廊下の外には広くて手入れの行き届いた庭が見えた。トイレの横には洗面所とお風呂があり、小さなタイルが貼られている深さのある、昔ながらのお風呂だった。騒いだらここに沈められるのかも。洋式の便座に座りながら、溜まった尿と共に息も吐き出した。

「終わりました?」

「はい。」

手を洗い、また男の後ろを付いて歩いた。180センチはありそうだ。男は和室に戻らず、その横の台所のダイニングテーブルの椅子に腰掛けるよう促した。促されるまま、椅子に腰掛け男を見上げた。男は冷たい麦茶を出してくれた。緊張と恐怖で喉がカラカラだった私は一気に飲み干した。

「もう一杯飲みます?」

私が頷くと、男は少し笑った。私も笑おうと頑張った。笑顔は敵意がないですよと言う印だと、前にテレビで言ってたから。

 壁一面にシステムキッチンが配置され、端に勝手口がある。まだ、玄関を見てないが、玄関横に部屋があれば、田舎の祖父母が住んでいた母屋にそっくりな間取りだ。

 男が麦茶を冷蔵庫に戻す一瞬の間、私はエプロンのポケットに手を突っ込んだ。ああ、やっぱりない。スマホがあればと思ったが、やはりなかった。あの時もスマホで音楽を聞いていたから、横付けされた車に気付くのが遅れたのだ。後悔しても遅い。桜には自転車に乗る時は、音楽を聞いちゃ駄目だとか、歩いてる時も気を付けろだとか口うるさく注意していたのに…。

 そうだ、もう昼だ。妻が母親がゴミ捨てから帰って来ないことに気付いているに違いない。いや、桜の弁当はもう仕上がってたし、気付いてないかもしれない。奴等は私がいるか、いないかより、弁当が出来ているか、ワイシャツにアイロンがかかっているかが重要なのだ。だったら、気付くのは夜までない。最近は桜より夫の方が帰宅が早い。働き方改革のせいだ。帰りが早いから、残業代も半分以下に減り、給料が2万以上減っている。これが働き方改革なら、前に戻して欲しい。早く帰ったからといって何を手伝ってくれる訳でもなく、ソファに座りテレビを観る時間が増えただけなのだから。収入が減った分、小遣いの減額を打診したが無視された。桜は桜でご馳走様と言う訳でもなく、弁当箱はこっちが指摘するまでバッグの中だし。

「田辺さん!」

現実に引き戻された。そうだ、誘拐されていたんだ。お茶を飲んで、一息ついたら、うっかり頭の中が夫と桜の不満で溢れていた。

「ハイ!」

「これからのことを少し話します。」男が向かいの席に座り、真っ直ぐ私の目を見て話し始めた。

「多分、僕達は誰にも見られなかったと思います。だから、ニュースにもならないと思います。」

「でも、私が帰らんかったら、家族が通報すると思う。」   

「年間8万人以上の人間が行方不明で届けられるそうです。幼児なら、事件になるでしょうけど、貴方みたいな主婦がいなくなったからといって、そうそう警察が動くとは思えません。」

おいおい、アラフィフは探しても貰えないのかい。

「でも、私、おらんなる理由ないし。」

「そうですか。でも、大事にはならないと思います。時がくれば、帰してあげるつもりです。だから、その時までは、指示に従って下さい。従って貰えば、乱暴なことはしません。約束します。それから、今から僕は貴方のことを『お母さん』と呼びます。貴方は、僕のことを『ケイスケ』と呼んで下さい。呼び捨てで構いませんから。貴方は、持病の喘息の療養の為にここにいます。僕はIT関係の仕事の為、パソコンさえあれば、何処でも仕事が出来る設定です。話を合わせて下さいね。」 

『ケイスケ』って、呼べってか。

「早速ですが、昼飯を作って下さい。」

「冷蔵庫の中に食材は入ってます。僕は特にアレルギーや、好き嫌いもありませんから。」

「貴方いや『ケイスケ』の分だけでいいんかな?他の人のはいらんの?」

「あいつらの分は大丈夫です。僕とお母さんの分だけで。」

 家族からはママと呼ばれているせいか、『お母さん』が少しむず痒い感じがした。冷蔵庫の中の食材を使って、具沢山の温かいうどんを作った。『ケイスケ』は作っている時も後ろから見張っていた。何処に連れて来られたんだろう。ここは少し寒い。誘拐犯と2人でうどんをすすり上げている。誰かが私達を見ても犯人と被害者とは夢にも思わないだろう。ただの親子にしか…。

「美味しかったです。ご馳走様でした。洗い物は僕がします。」

そう言って、食べ終わった私の丼まで下げ、テーブルを布巾で拭いてくれた。

 通じ合っていれば感じてくれるかも。私は必死でテレパシーを夫と桜に送った。『ママは誘拐犯とうどんを食べてます。早く帰りたいです。』と。

 何もしないということが、これ程苦痛とは。私は初めに転がされていた和室にある、座椅子に座らされていた。

 いつもだったら、ゴミを出した後で洗濯物を干し、ベランダから出勤する夫を見送り、玄関で娘の背中に忘れ物はないか、確認しながら送り出す。桜は本当に忘れ物が多いから。今朝は大丈夫だったかな?洗濯物は誰も干してくれてないだろう。帰ったら、また洗い直さないと。パートの和菓子屋には月、水、金と週3日働いているが、今日は火曜だから、出勤しなくても気付かれないし。男は時がくればと言ってたけど、それが1週間後か、1ヶ月後かは分からない。長くなれば、家計のことも心配だ。住宅ローンは、地銀から引き落とされるし、郵便局からは光熱費とクレジットカードの料金が引き落とされる。どちらもギリギリしか入金してないから、夫の給料が出たら振り分けないといけない。身の危険を感じなくなったら、途端に家のことばかりが気に掛かる。

 「テレビでも付けましょうか?」

テレビからは有名俳優の不倫の話が流れてきた。浮気は男の甲斐性とか、女遊びは芸の肥やしとか言うけれど、本当だろうか?自分の夫ならどうだろう?浮気して給料が5万増えても、増えた分、いやそれ以上浮気相手に、お金も時間も心も体も持って行かれるに違いない。家族には負以外何も残らないだろう。

 「お母さん。」一瞬誰のことかわからなかった。私か。

「はい。」 

「明日からして欲しいことを言います。洗濯と掃除と朝、昼、晩のご飯です。他の時間はテレビを見ても、音楽を聞いても構いません。読みたい本があれば取り寄せますから言って下さい。」

いつもと変わらないじゃん。パートがない分、楽かも。監禁されてなければ。

 

 いつも口煩いママの見送りが、今朝はなかった。洗濯物が多かったのかも。さほど気にせず家を後にした。まさかこの後、半年近くママと会えなくなるなんて。帰ったら、当然いるはずのママが忽然と消えてしまうのだ。

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