第52話 それぞれの想い その3


「…………ん?」


 目を覚ますとあの感触、あの匂いを感じた。

 ゆっくりと顔を横に向けると、そこには沙耶の意地悪そうに笑う顔があった。


「おはようございます、遊兎。今日は大サービスだぞ」


 そう言って、悠人の鼻を甘噛みした。


「はむっ……」


「うぎゃああああああっ!」





「いい目覚めだったな、遊兎」


 温泉旅行の時と同じ、膝までのジーパン、赤いダウンに帽子をかぶった沙耶が、笑顔でそう言った。


「いやいや、何度経験しても、あの目覚めは心臓に悪いぞ」


「何を言うか。この二日お前に夜這いをかけられなかったのだ。私のストレスを考えて見ろ」


「なんの理屈だ、それは」


「おかげで今日はすっきりしたぞ」


 駅のベンチに座る二人。昨日とはうってかわって、五月晴れの気持ちのいい天気だった。


「沙耶、そろそろそのダウンも暑いだろ」


「いや、そうでもない。こいつは中身を重ねるタイプでな、今はそれを外しているので快適だ。それにジャケットの中はシャツ一枚だからな、丁度よいのだ」


「そうか。気に入ってくれてるみたいで何よりだ」


「うむ。夏に着れないのが残念だ」


 そう言って小さく笑う。


「で……だ。遊兎よ、今日は私をどのようにエスコートするつもりなのだ」


「後の楽しみじゃ駄目なのか」


「いやその……駄目という訳ではないのだが……心の準備とかは必要ないのか」


「なんだお前、緊張してるのか」


「にゃ……にゃにを言うか。だ、誰が遊兎ごときに緊張など」


「沙耶」


「なんだ」


「噛んだな、今」


「ふにゃああああっ!」





「沙耶……お前、地下鉄は初めてなのか」


「うむ。私は基本、電車には乗らない。いつも車だったからな」


「そうか……なら、この風景はさぞ新鮮だろう」


「うむ。ずっと真っ暗だ」


「だがな、沙耶……いくら珍しいからと言って、それはやめてくれないか」


 沙耶は窓に向かって正座し、外を眺めていた。


「なぜだ、こう座ってはいかんのか」


「沙耶……庶民の代表として教えておいてやろう。今お前がとっているその姿勢はな、主に子供が電車に乗った時に喜んでするものだ」


「な……それを早く言え。そうと知っていれば私は」


 沙耶が慌てて座りなおした。見ると乗客たちが、沙耶を見て微笑んでいた。


「ふ……ふにゃ……」


 沙耶が顔を赤くして、帽子を深くかぶった。


「でも楽しそうでよかったよ。お前とのデート、車じゃなく電車にして正解かもな」


「そうなのか」


「ああ。車は便利だけど、お前にとってそんなのは普通すぎるだろ。折角のデートだ、普段お前がしてないことを体験させてやろうと思ってな」


「そ、そうか……まあなんだ、騒々しい乗り物ではあるが、こういう機会でもなければ乗ることもあるまい。全くもって、お前らしい選択だ」


「ははっ……」





「おおっ……こ、ここはまさか!」


 駅から少し歩いて着いたそこは、動物園だった。


「子供っぽいかとも思ったんだけどな。どうだ沙耶」


「遊兎!」


 沙耶が悠人の手を、両手でしっかと握った。


「お前には、特別な能力でも備わっているのか。なぜ私のツボを心得ているのだ」


「気に入ったか」


「気に入ったも何もない。早く中に入るぞ!」


 園内で、沙耶が子供のように走り回る。象が鼻をあげると歓声をあげ、猿山で猿に手を振り、キリンを見上げて手を叩いて喜んだ。


「おまたせ」


 ベンチで待つ沙耶に、悠人がソフトクリームを持ってきた。


「これはまた……面妖だな」


「ソフトクリームを知らないとは……沙耶、上流階級がどんないい生活をしているのかは知らんが、俺は庶民でよかったとつくづく思うよ」


「どのようにして食べればよいのだ」


「ん……ああ、こうしてだな」


 悠人が頭から食べて見せる。


「こ……こうか……」


 沙耶が恐る恐る、クリームを口にする。


「…………なんだこれは!この口の中に広がる、ひんやりとした甘くとろけるような食感は」


「お前はどこぞのリポーターか」


「遊兎、もう一度教えてくれ。これはなんと言う物なのだ」


「ソフトクリームだ」


「ソフトクリーム……遊兎、私は今日という日を生涯忘れないだろう。このソフトクリームとの出会いはきっと、これからの私の人生を満ち足りたものにしてくれるはずだ」


「大袈裟だな」


「しかしそれにしても……庶民はこんな物を食しているのか。日本は裕福な国と知ってはいるつもりだったが……ううむ、庶民恐るべしだ。全くもってけしからん」


「こんなもんでよかったら、またいつでも食わしてやるよ」


「本当か!遊兎、お前は本当にいいやつだな」


「と言うかお前、こんなもんで感動してたら、今日一日大変なことになるぞ」


「まだあるというのか。遊兎貴様、さては私を殺す気だな」


「なんでそうなる」


「よかろう。庶民の道楽、しかと受け止めてやるぞ」




 その後二人は、動物触れ合いエリアに向かった。そこにはウサギが放されていて、自由に触れ合うことが出来た。ウサギを抱きながら沙耶は、


「ゆ……遊兎、ここは天国でしゅか……」


 そう言いながらめろめろになっていた。


「沙耶、顔がふにゃふにゃだぞ」


「か……体の力が入らぬ……なんでこいつらは、こんなにかわいいのだ……」


 ウサギの頭を撫でながら


「もふもふ……」


 そうつぶやく。


「お前たちは、もしかして天使なのでしゅか……」





 動物園を出ると、昼を少しまわっていた。


「飯にするか」


「うむ、興奮しすぎて腹も減った。今なら馬一頭でも食えるぞ」


「ははっ。馬一頭は無理だけど、じゃあ食べに行こう」


 よく晴れた空、気温も高くなっていた。悠人が沙耶が脱いだジャケットを持って歩く。

 沙耶は身軽になって更に元気を増したのか、足取りも軽く鼻歌を歌っていた。


 しばらく歩くと、少し趣の異なる街並みが見えてきた。昭和の趣を残すその街は「新世界」と呼ばれていた。


「なんだここは。映画のセットなのか」


 沙耶が、物珍しそうに辺りを見渡す。


「すごいぞ遊兎、こんなところが本当にあるとは」


「ほら沙耶。珍しいのは分かるが、ちょっとは落ち着いて歩けよ。みんなが見てるぞ」


「う……うむ、心得た。しかし不思議なところだ」


「じゃあここにしようか」


 そう言って、悠人が暖簾の奥に入っていく。その店はカウンターになっていた。


「遊兎、椅子がないぞ」


「ああ、ここは立ったまま食べるんだ」


「立食か」


「そんなたいそうなもんじゃないよ。ほら、適当に取っていけよ」


 そう言って悠人が、沙耶の前に揚げたての串カツを置いていく。


「……」


 沙耶が串カツを手に、不思議そうな顔をする。


「こうやって食べるんだ」


 悠人が串カツを、目の前にある容器に入れ、ソースをたっぷりにつけた。


「うまいぞ」


 にっこりと笑い、悠人がカツを頬張る。


「……」


 沙耶も悠人にならい、ソースをつけて口に運ぶ。


「なっ……」


 沙耶が驚愕の表情を浮かべた。


「なんだこれはっ!」


「うまいか」


「うまいっ!」


「新世界名物、串カツだ」


「こ、こんな……こんなうまいものが……」


 口に頬張りながら、興奮気味に沙耶が言う。


「食べるか話すか、どっちかにしろ」


「うまい……殺人的なうまさだ……」


 そう言って沙耶が、一口食べた串カツに再びソースをつけようとした。それを悠人が止める。


「なんだ遊兎、私はソースを」


「これ、ちゃんと見たか」


 悠人が指差したそこには「ソースの二度づけ厳禁」と書かれていた。


「そうなのか」


「ああ、ここのルールだ」


「あい分かった。ルールにのっとり、しっかり堪能させてもらうぞ」

 そう言って沙耶はにっこりと笑い、その後何本も何本も串カツを食べた。

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