第49話 幼馴染・小百合 その3


「……」


 悠人がゆっくりと目を開けた。視界の先には、見慣れない天井があった。


「そうか……ここ、旅館だったな」


 時計を見ると、夜中の2時を少しまわっていた。

 窓の外を見ると、深い闇が広がっている。過疎マンションの夜も静かだが、旅行先での夜の静けさは、また格別のものだった。


「ちょっと出るか……」


 浴衣の上にジャケットをはおり、悠人は廊下に出た。隣の部屋も静まり返っている。彼女たちもお休みのようだ。

 ロビーの下駄を履いて外に出ると、ひんやりとした風が心地よかった。温泉街の少し外れに位置するこの旅館、辺りには特に何もなかった。静寂と闇が広がっている。


「こういうの、いいよな……」


 自然と顔がほころんだ。カラカラと下駄の音がこだまする中、販売機を見つけて缶コーヒーを買ったその時、背後に人の気配を感じた。


「え?」


 振り返るとそこに、浴衣姿の小鳥が立っていた。


「小鳥か」


「やっぱり悠兄ちゃんだった。目が覚めちゃって外を見てたら人が見えて、悠兄ちゃんに見えたから追っかけてきたんだ」


「それはいいけど小鳥、その格好寒くないのか」


「あ……あははははっ、慌てて来たからこのまんまだった」


「風邪ひくぞ。これ着とけ」


「でも、そうしたら悠兄ちゃんが」


「いいから。こういう時は黙って着てろ。女の子の礼儀だよ」


「……ありがと、えへへっ」


 小鳥が嬉しそうに袖を通す。


「あったかいね、悠兄ちゃんの服。悠兄ちゃんの匂いがするよ」


「こっ恥ずかしいこと言うんじゃないよ。ほら、小鳥も飲むか」


 そう言って缶コーヒーを小鳥に渡した。


「ちょっとこの辺りをぶらつくつもりなんだけど、一緒に歩くか」


「うん。悠兄ちゃんと夜のデート、最っ高の思い出だね」


 小鳥はそう言って、腕にしがみついてきた。


「こらこら、これじゃ歩けないよ」


「いいでしょ、夜道危ないし。ちょっと怖いし」


「甘えん坊さんだな、いくつになっても」


「それは小鳥にとって、褒め言葉だよ」


「そうなのか?」


「うん」


 特に何があるわけでもない暗い夜道を、二人が歩く。


「ほんと静かだね」


「そうだな、いいところだ」


「悠兄ちゃん、本当はこういう所で暮らしたいんだよね」


「小百合から聞いたのか」


「うん。騒がしくなくて、自然がそこそこあって、夜は程よく暗くて……それでいて家ではアニメが見れてゲームとネットが出来れば文句なし。ややこしい引きこもりだってよく言ってた」


「言いたい放題だな、あいつ」


「――人はいつか土に帰る。でもそれに安心して、生きている間に土と離れた生活をしてはいけない。土と触れ合うことを大切にしないと、人間はいつか土から見放されてしまう」


「なんでお前が、俺の中学時代の作文を知ってるんだよ」


「お母さんが言ってたもん。今思い出したら恥ずかしいこと書いてたなって笑ってた」


「小百合……人の黒歴史を子供に教えるんじゃないよ」


「でもあの時、悠兄ちゃんのことを格好いいって思ったんだって。やっぱり悠兄ちゃんは優しい人だって」


「褒めても何も出ないぞ」


「やっぱり?あはははっ…………ねえ、悠兄ちゃん」


「どうした?」


「悠兄ちゃんって……やっぱり今でも、お母さんのこと好き?」


「剛速球が来たな、いきなり」


「ごめんなさい……でもこれって、ずっと悠兄ちゃんと結婚したいって思ってた小鳥にとって、すっごく大事なことなんだ。恋のライバルが幼馴染のお母さんだなんて、ハードル高すぎるもん」


「まあ……小鳥にだから正直に言おうか」


「うん、お願い」


「今でも正直、小百合のことは好きだよ。あいつは俺の人生の中で、一番長く、そして一番深くつながってたやつだ。俺のことを一番知ってるし、一番理解してくれている。そして俺もあいつのことを、一番分かってるつもりだ」


「……」


「いつもあいつと一緒だった。俺もぼんやりとだけど、このまま小百合といつまでも一緒なのかな、そんな風に考えてた。でも色んなことの中であいつは最終的に、別々の人生を歩くことを決断した。それが小鳥の……お父さんだな」


「小鳥、お父さんのことよく覚えてないんだ。たまにお母さんから話を聞いたりするんだけど、実感がないって言うか……お父さんで思い出せることって言ったら、息苦しさって言うか」


「そっか。俺は会ったことがないから分からないけどな。でも少なくともあの時、小百合はあいつを選んだ。いい結果にはならなかったけど、小百合には小鳥がいたから、自分の選択を後悔しなかった。

 あいつはがむしゃらに頑張った。本当は弱くて寂しがり屋で泣き虫なのに、強くあろうといつも前を向いていた。その強さに、俺は憧れた。あいつが幼馴染だったことを、俺は誇りに思ってるよ」


「ありがとう……」


「だから答えは……好きだけど、でもそれ以上に、あいつに憧れてるって感じかな。あいつはいつも俺の前を歩いていて、俺の目標なんだ。もう10年以上会ってないけど、あいつは今でも強く生きてる、そう思うと俺も頑張ろうって気になるんだ」


「そっかぁ……いいな、お母さんは。こんないい男にそこまで言わせるんだから」


「ちなみに俺は、あいつに二度振られてる」


「知ってるよ。お母さんから聞いたから」


「あいつ……自分の子供に何聞かせてるんだ」


「私が教えてもらったんだ。悠兄ちゃんのお嫁さんになるために、乗り越えなきゃいけないお母さんの人生、是非教えてくださいって」


「あいつまた、俺のこともべらべら喋ったんだろ」


「悠兄ちゃんの想像から、そんなに外れてないと思うよ」


「俺の人生、だだ漏れなんだな」


「……でもね、悠兄ちゃん、さっき悠兄ちゃんがお父さんのこと聞いたでしょ。その時思ったんだ。小鳥、お父さんのことは覚えてないけど、そう聞かれた時に浮かんでくるのは、悠兄ちゃんなんだ。

 子供の時、一緒に遊んでくれて、お風呂に入ってくれて、星を見せてくれて……引越してからも、誕生日に電話くれたり、プレゼント贈ってくれたり、卒業式に手紙くれたり……小鳥の思い出は、悠兄ちゃんでいっぱいなんだよ」


「たいしたことはしてないと思うけど、でも嬉しいよ」


「運動会でお父さんの代わりに走ってくれて、ゴール前でひっくり返って」


「どわっ!お前、そんなことまで覚えてるのかよ」


「覚えてるよ。あの時小鳥、大泣きしたもん」


「あれも黒歴史だよ、俺の」


「でも悠兄ちゃん、あの時格好よかったよ。小鳥の大切な大切な思い出だから……」


 そう言って小鳥が立ち止まり、うつむいた。


「どうした小鳥」


「……」


 そして腕に強くしがみつき、悠人を見上げた。


「……どうした?」


「悠兄ちゃん……」


 悠人を見るその瞳は、憂いに満ちていた。


「お母さんへの気持ちは分かった。やっぱりお母さんは、悠兄ちゃんの中で大きな大きな存在なんだって……それで、あの……悠兄ちゃん、小鳥……」


「……」


「小鳥のことは……どうなのかな……まだ私は……幼馴染、水瀬小百合の一人娘、5歳の女の子なのかな……」


「小鳥……」


「悠兄ちゃんが私を大切に思ってくれていること、すっごく嬉しい。でもそれって、悠兄ちゃんにとっては、私がいつまでも『かわいい小鳥ちゃん』だからなんだって……そう思ったらね、胸が苦しくなる時があるんだ……」


「そ……」


 甘い吐息が悠人を誘う。小鳥が頬を紅潮させ、潤んだ瞳で悠人をみつめる。


「悠兄ちゃん……私は……水瀬小鳥は……もう立派な大人だよ……そして……水瀬小鳥は工藤悠人さんのことを、心から愛して……います……」


 悠人の胸の鼓動が、不自然に高鳴っていく。


「悠兄ちゃん……」


 小鳥がそのまま、ゆっくりと悠人の胸に顔を埋めた。

 小百合の娘の小鳥ではなく、一人の女性、水瀬小鳥に抱きつかれているという意識が生まれ、そのことに悠人が激しく動揺した。


「小鳥……」


「悠兄ちゃん……大好き……」


 そう言って、小鳥は悠人から体を離した。


「えへへっ……」


 赤面したまま、無邪気に舌を出して小鳥が笑う。悠人はまだ動揺を隠せないでいる。それはまた、小鳥を女性として意識した自分への驚きでもあった。


「ごめんね、悠兄ちゃん。なんだか急に寂しくなっちゃって」


「あ、ああ……」


「もうちょっとお散歩、いい?」


「そ、そうだな。暗いからゆっくり歩こう」


「うん」




 少し上り勾配だった道の先に、公園があった。ベンチに座った頃には、悠人の動悸も治まっていた。小鳥も隣に座り、自然と二人は空を見上げた。


「すごい星だね、悠兄ちゃん」


「ほんとだな……星観測に最高の場所だな、ここは」


 空に無数に散らばった星々に、二人が溜息をもらした。

 小鳥が悠人の腕にしがみついた。


「……また一つ、夢が叶ったよ。こうして悠兄ちゃんと二人で、星を見るって夢」


「そうだな、一緒に行こうってずっと言ってたもんな」


「うん。今、最高の気分だよ」


「アルクトゥルス、スピカ、しし座のデネボラ……春の大三角……」


「北斗七星、春の大曲線……」


「いつも星を見てると、この空に溶け込んでいくような感覚になるんだ。その感覚が好きなんだ」


「悠兄ちゃん一人で?」


「いや、今は小鳥と二人で」


「本当?」


「ああ。なんかこう、二人で手をつないで星空の中を飛んでいるみたいな」


「じゃあ、小鳥が悠兄ちゃんを連れていってあげるよ」


「小鳥が?」


「うん。小鳥には翼があるから」


 そう言うと小鳥は悠人の手を握った。


「離しちゃだめだよ、しっかり握っててね」


「分かった」


「それっ……」


 星の海を見ている二人は、本当に飛んでいるような感覚になった。

 悠人の中に、小鳥にいざなわれ飛んでいるイメージが浮かんできた。その翼は真っ白で、大きかった。しばらく二人は星を見上げながら、二人だけの旅を楽しんだ。





 部屋に戻り、煙草を吸いながら悠人は思索していた。

 小鳥にはその名の通り、大きな翼がある。未来へ羽ばたいていく為の、母親譲りの力強い翼だ。しかし時には、その翼を休めるための止まり木が必要だ。でないと小鳥はいつか、母親の様に力尽きてしまう。

 今、小鳥はまだ若く、人生に希望があり、飛び続けることが出来る。だから今のうちに、彼女が翼を休められる場所を見つけなければいけない。それが何なのか、誰なのか……


 決断の時が刻々と近付いている。

 小百合と小鳥の約束の日。

 小鳥は愛おしく、何物にも変えがたい存在だ。しかし、小鳥が望んでいるのは男としての自分だ。その想いに自分はどう結論を出すのか。


 そして今しがた、小鳥に対して感じた気持ちはなんだったのか。旅行先の開放感と夜の雰囲気が、自分の心を乱したのか。それとも……

 中途半端に出せる答えではなかった。そしてまた、小鳥に答えを出すと言うことは、沙耶、弥生、菜々美への答えにもつながっていく。


 小百合へのいまだ消えぬ想いもある。このままの状態が続いてくれたら……そんな甘い願望は、かつて小百合との間で経験した、後悔しか残らない結末を迎えてしまう。

 同じ過ちを繰り返す訳にはいかない。精一杯悩み、そして向き合い、工藤悠人として、一人の男として答えを出さないといけない。




 煙草を消し、愛おしい幼馴染の顔を思い浮かべ、


「大丈夫だ小百合、大丈夫だ……今度こそ俺は、後悔しない結論を出すからな」


 そう、小さくつぶやいた。

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