第16話 悠人争奪戦開始 その1
子供の頃から、悠人は団体行動が嫌いだった。特に数日間「旅行」という名目で他人と行動することは、これ以上にない苦痛だった。
高校2年の冬、修学旅行当日。彼は布団にもぐったまま出ようとしなかった。
「悪魔さえこなければ、行かずに済むのだが……」
だが、その願いは無残に打ち砕かれた。部屋の扉が勢いよく開かれ、その「悪魔」はやってきた。
「悠人、おっはよー!」
早朝5時半にも関わらず元気全開の声。小百合だった。その声と同時に悠人の布団がはがされた。
「ぬおっ!」
「遅刻遅刻、悠人、修学旅行遅刻しちゃうよ!」
「ああ遅刻だな。だから俺のことは放っておいて小百合、お前だけでも行ってくれ。青春の1ページを無駄にするんじゃないぞ」
「訳の分からんことを言ってる場合じゃない!」
そう言って小百合が、悠人が離さずくるまっている毛布を引き剥がそうとする。
「ええい、放っておいてくれと言ってるだろうが。俺は400℃の熱で動けんのだ」
「なら雪で冷やさないとねー」
「くっ……」
この頃の悠人は小百合が苦手だった。
自分のことを、ある意味両親よりよく知っている他人。誰よりも一番共に過ごした他人。それは彼にとって、弱点を全て知られていることでもあった。そのことに嫌な感情を持っていた訳ではないが、こういうときは別だった。今日起こしにきたのも、悠人がさぼるのを見越しての行動だった。
「はいはい、悠人が行きたくないのは分かってます。でも、はいそうですかと保護者が言うわけないでしょ。高校最後の一大イベントなんだから、早く起きて用意しないと」
「だーかーらー」
悠人が無駄な抵抗を続ける。
「期間限定、場所限定のスポーツなんぞに俺は興味がない」
「いいじゃないスキー。こんなことでもなかったら悠人、絶対にしないでしょ。せっかくのチャンスなんだから体験しておこうよ」
「何が悲しくてこのクソ寒い季節に、雪山なんぞに行かないといかんのだ、それも5日も。俺は死ぬまで雪山に行く予定もないし、筋肉痛にも興味はない」
「はいはい言い訳やゴタクは後でゆっくり聞いてあげるから。私は悠人と一緒に行くって決めてるんだからね、起きた起きた」
「大体なんなんだお前は。年頃の娘が堂々と男の寝室に。少しは恥じらいを持て」
「おー、思春期だねぇ少年。あっそうだ、どうしても行かないって言うんだったら、悠人のお母さんにばらしちゃおっかなー」
「何のことだ」
「勿論エロ本のあ・り・か。悠人があんな場所にあんなにたくさん、あんなすごいエロ本隠してますよーって」
「お……お前……」
「それから、そうだな……この前起こしに来た時、悠人の体に起きてた異変。クラスの女子に話しちゃおっかなー」
「ぬおおおおおおおっ!」
悠人が絶叫と共に股間を隠した。
「お、お、お、お前、な、何て脅迫だそれはっ!だいたいこれは、青少年なら誰にでも起こる生理現象に他ならんのだ!何もやましいことじゃない!」
「でも女子は……むふふふっ、ドン引きするだろうなー」
「こ……この悪魔め……」
観念した悠人が起き上がった。
「ほら、着替えるから向こう行っとけよ」
「何恥ずかしがってるのよ。一緒にお風呂に入った仲じゃない」
「俺は今、17歳だ!」
「はいはい、ふふっ」
小百合が部屋から出たのを確認して、悠人が着替え始めた。
「まぁ……こうなると分かってはいたんだけどな……」
悠人の想像していた通り、5日間の旅行は苦行だった。
バスの中でのくだらない余興三昧。現地に着くとすぐにスキー研修。初めて着けたスキー板に難儀しながら、しばらくは横歩きで上る練習。あっと言う間に筋肉痛になった。初日は雪の舞う天候だったが、余りの運動量に汗がひくことはなかった。
(何が悲しくて、雪山で汗をかかなくちゃならんのだ……)
滑る練習に入ると、ほんの僅かな傾斜が断崖絶壁に感じられた。スピードを殺すためにボーゲンをしようとしても、筋肉痛で足が震えてうまくいかない。しかも彼の班についているインストラクターは超がつく脳筋男で、四六時中大声をあげながらはっぱをかけてくる。
「こら工藤、なんだお前そのへっぴり腰は!」
(何の罰ゲームなんだこれは……)
旅館でも苦行は続いた。
特別仲がいい訳でもないクラスメイトたちとの同室。悠人はただの人数合わせだった。必然的に部屋の中でも、悠人は浮いていた。ある程度会話に入って合わしてはいたが、それでも限界はあった。2日目からはほとんど話すこともなく、一人でウオークマンを聞いて時間をつぶすようになっていた。
一人で寝ることに慣れている彼にとって、他人と共に寝ることも苦行だった。静まり返った部屋の中で、複数の人間の寝息や寝返りの音が気になって、明け方近くまで眠ることも出来なかった。好きなアニメも見れずゲームも出来ず、軍隊に入れられたような気分だった。
小百合とは食事の時ぐらいしか顔を合わすことはなかった。
悠人は、この5日間を無事乗り切り、帰ったら好き勝手にすることだけを心の支えに、この苦行に耐えようとした。
それでも4日目には多少滑れるようになり、そのことに喜びも感じた。初めは陸に上がった河童のように何も出来なかったが、鬼教官に絞られ続け、体のあちこちが悲鳴をあげていく中でこつをつかんでいった。続けていく中で得ることの出来る達成感を、間違いなく悠人は感じていた。その時だけは悠人も、ここに連れてきた小百合に感謝した。
最終日は午前中に少し滑って現地を離れることになる。4日目の夜、ある意味打ち上げのような食事会が催された。くだらないゲームや歌。しかし団体行動という足かせが逃げ出すことを許さなかった。
途中、あまりに苦痛がピークに達した悠人はその場を離れ、トイレに逃げ込んだ。しばらくそこで時間をつぶして戻る途中、窓の外を見ると静かな夜の世界が広がっていた。
窓を開けると、ひんやりとした空気が気持ちよかった。そして空を見上げた悠人は、何かを思い立ったように小さくうなずき、大広間へと戻っていった。
夜。
皆が寝静まった頃、悠人は旅館からの脱出を試みた。教師の警護も思ったほど厳重ではなく、なんなく彼は外に出ることができた。
一人歩いていく悠人。その時背後から、彼の肩を誰かが叩いた。
「ひっ……」
振り返ると、ジャージにダウンジャケットを着込んだ小百合が立っていた。
「悠人、何してるの」
小声で話す小百合。一番見つかってはならないやつに見つかってしまった……そう思って悠人が天を仰いだ。
「ねぇ悠人、どこに行くつもりなの」
しかし悠人の絶望とは裏腹に、小百合の目には興味と期待がこめられていた。
「ね、ね、悠人。何か面白いことでもあるの?」
「いや、その……特に面白いことじゃない。あれだよ」
そう言って悠人が空を指差した。
「え?」
悠人の指差す方向を小百合が見上げる。
「あ……」
そこには満天の星空が広がっていた。
「せっかくこんな雪山まで来たんだ。これぐらいの贅沢、あってもいいだろ」
「いいかも!」
「え?」
「懐かしいな。なんか昔、悠人とプラネタリウムに行ったのを思い出しちゃった……でも4日もここにいるけど、こんなに星がきれいだったなんて全然気付かなかったよ」
「ま、晴れたのは今日が初めてだしな。しかし以外だな。いいのか?クラス委員が規則破って」
悠人が意地悪そうな顔で言った。
「いいの、これくらい。だってこの4日間、ほとんど悠人と話も出来なかったし。それに役員やら何やらで結構働いたしね、これぐらいのご褒美もらってもいいでしょ」
小百合がにっこりと笑った。
途中で買った缶コーヒーを手に、二人は旅館から少し離れた場所に腰掛けた。
「ほんと、きれいだね」
「静寂と、星空に吸い込まれそうな感覚……これだけでもここに来たかいがあったかもな。ありがとな、小百合」
「なになに悠人、ここにきて私に告白?」
「アホ」
「ははっ……でも、昔は家の近くでも星、見えたよね。悠人覚えてる?公園で一緒に見たの」
「覚えてるよ。お前に冬の大三角形を教えるのに苦労したしな」
「あ、そんなこともあったよね。私が唯一知ってる星座、オリオン座で出来るやつだよね。そうそう、あれ、悠人に教えてもらったんだった」
「なんだお前、あれだけ教えてやったのに、今まで忘れてたのかよ」
「そんなことないない、ちゃんと覚えてるよ私」
「なんだその、取ってつけたような答えは」
「あははっ……ねえ悠人、スキーどうだった?」
「ん……まぁ……なんだな、やっていけば面白いのかもなって感じかな。何とか今日は滑れるようになったみたいだし」
「そうなんだ、凄いじゃない」
「でもまぁ」
悠人が頭をかく。
「これが最初で最後になるんだろうな。靴やウエアー、板を買うつもりもないし、楽しいのかもしれないけど、それでもアニメのほうがずっといい」
「でも悠人の口から『面白い』って言葉が聞けただけでも、なんか嬉しいな」
「お前はどうだったんだよ」
「私?ふふっ、実はちょっと、はまっちゃったみたい」
「そうなのか」
「うん。なんて言うのかな……滑ってると、この世界と一体になっているような気持ちになっちゃったの。風になってるって感じかな。もっともっと滑っていたい、そう思えたんだ」
「そっか。でもそこまで楽しめたんなら……よかったな」
「うん、ひょっとしたら私、大学に入ったらスキー始めちゃうかも」
「おいおい、大学に行ってもソフトボール続けるんじゃないのか」
「ソフトボールは……高校で引退しようと思ってるんだ」
「初耳だぞ」
「うん。この話するの、悠人が初めてだよ」
「中学からずっと続けてたんだろ。俺はてっきり、社会人になってもするもんだと」
「そんな風に考えてた時期はあったよ。でもね、なんて言うのかな、限界を感じたって言うか……確かに私はソフトボールが好き。これまで続けてよかったって思ってる。でもね、自分の限界を感じてしまったら、この先はただの遊びになっちゃいそうで、それは嫌だなって思ったんだ。ソフトに対しては、そんな気持ちを持ってしたくないっていうか」
「相変わらずクソ真面目に考えるよな、お前は。遊びでも健康のためでも、何でもやりゃいいじゃないか」
「そうなんだけどね……ははっ、でもね、どんなことにでも限界を感じちゃったら私、駄目なんだ。もうこれ以上打ち込めないっていうか」
「そっか……まあでも小百合、お前がんばったよ」
「え……」
「お前、本当にがんばったよ。そのことは俺が知ってる。いつかきっと、ソフトに捧げた時間が役にたつ時がくるさ。頑張った自分を褒めてやれよ。無理なら俺が褒めてやるから」
そう言って、悠人は小百合の頭を撫でた。
「ありがと、悠人。えへへへ」
小百合が頬を染めて笑う。
「だから大学に入ったら、何か新しいことに挑戦したいってずっと思ってたんだ。それでね、今回スキーやってみて、これだって思ったんだ」
「そっか……それならいいんじゃないか。がんばってみろよ。応援はするよ」
「うん、がんばるよ」
星を見上げ、小百合は小さく笑った。
「ねえ悠人……私たちって考えてみたら、子供の時からずっと一緒にいてるよね」
「そうだな、いつからかも覚えてないけど、お前と一緒じゃなかった時なんてなかったんじゃないか」
「そうだよね。でも、大学は別になっちゃう」
「お前は推薦、俺は多分適当な所」
「うん……ずっと一緒だったから、それが当たり前だったから、別の道に進んでいくのがちょっと怖いって言うか……ねえ悠人、私たちこれからも一緒にいれるのかな」
「……」
沈黙が辺りを覆う。ふと悠人が小百合を見ると、体を丸めて少し震えていた。それが寒さからなのか、不安からなのかは分からない。だが悠人は、静かに自分が巻いていたマフラーを外し、そっと小百合の首に巻いた。
「ありがとう悠人」
「すまん、気付くのが遅かった」
「そんなことないよ。ベストなタイミングで巻いてもらったよ。私が編んであげたマフラー」
「それは余計だ」
「ふふっ」
「ずっとこのままじゃないか」
「え……」
「例え違う大学に行っても、俺たちはこのままだよ。何も変わらない。こんな腐れ縁、そう簡単に切れるもんじゃないしな。第一俺が逃げ出しても、お前絶対追いかけてくるだろ。お前は俺の保護者なんだからな」
「悠人……」
「俺は絶対にお前から逃げられない。俺の弱み、全部握られてるしな。それにもし、お前が困ったり辛くなった時は、俺が傍で守ってやるよ」
悠人の自然な気持ちだった。これまでずっと一緒に育ってきた幼馴染。その関係が崩れることなど、彼には考えられなかった。悠人にとって小百合は「家族」だった。
「……」
小百合が悠人の腕にしがみついてきた。
「おい、小百合……」
「ごめん悠人、ちょっとだけこう……させてもらえるかな……」
「あ、ああ……」
悠人が照れくさそうにうなずき、再び星に視線を戻した。
「ありがと、悠人……」
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