第3話 小鳥と始まる日常 その1


 悠人と小鳥の母、水瀬小百合は物心ついた時からいつも一緒だった。


 郊外の閑静な住宅街にたたずむ一軒家。それが悠人の生まれ育った家だった。その隣に二階建てのハイツがあった。電機メーカー工場の社宅。そこに小百合は住んでいた。


 二人はいつも一緒だった。互いの家を行き来し、一緒にいることが当たり前だった。


 物静かで運動音痴、いつも家で本を読んでいる悠人とは対照的に、小百合はいつも元気に走り回る少女だった。


 言いたいことをはっきりと口に出す小百合と、いつも周りを気にして、自分の思いを口にしない悠人。そんな相反する二人は、同じ年にも関わらず、小百合が姉で悠人が弟、そんな奇妙な関係の中でバランスを保っていた。




 小学校に入ると、朝の弱い悠人を起こしに、毎日小百合は迎えに来るようになった。


 赤と黒のランドセルが仲良く並んで歩く姿は、そのまま6年間続いた。


 しかしそれが悠人のいじめにつながった。


 活発でクラスの中心になり、男子からも人気の高かった小百合と一緒にいる悠人は、当然のように男子生徒の嫉妬の対象となった。クラスの男子から「いつも女と一緒にいる泣き虫」とバカにされる様になった。

 悠人自身は、逆らったりすると余計にいじめられると、その中傷を黙って受け入れていた。クラスの違う小百合からそのことを問いただされることもあったが、そのことについて語ろうとはしなかった。


 悠人は自分にコンプレックスを持っていた。運動も出来ず、持病の喘息の発作も定期的に起こり、ある意味いじめの対象になっても仕方ない存在だと思っていた。小百合といつも一緒にいるのなら尚更と理解していた。


 そんな自分と一緒にいてくれる小百合のことが、本当に好きだった。まだ異性として意識してなかったが、彼にとって一番必要な、大切な存在だった。だからこそ小百合に、彼女が原因でいじめられていると告げることは出来なかった。彼女に心配もかけたくなかった。




 悠人は自然と、そんな現実から自分を守る習性を身につけていった。きっかけは小百合と、小百合の父と三人で行ったファンタジー映画だった。


 日常生活においてパッとしない少年が、ある事件を境に魔法を使う能力に目覚め、仲間を集める旅に出て、そして世界を守るために魔物と戦う物語。その世界観に、悠人は夢中になった。


 それから悠人は、その類の書物をむさぼるように読み出し、いつも空想に身をゆだねるようになっていった。両親が買ってくれるゲームにおいても、そういった冒険物にのめりこんでいった。小説であれ漫画であれゲームであれ、一度その世界の中に入っていけば、キャラクターの行動を疑似体験することが出来る。それはこの世界で何の価値も見出せない自分であっても、ある意味存在する意味があるかのように思える至福の時間だった。





 ある日クラスの男子たちに囲まれ、鞄から本を奪い取られる事件が起こった。


 この世界で生きていくために不可欠なアイテムを奪われたことで、その時初めて悠人は、学校で感情をあらわにした。


「返せ、返せっ!」


 悠人が大声で叫んだ。何をしても無反応だった悠人の感情の爆発に、一瞬男子たちは驚いたが、


「泣―いた泣いたー、よーわむしがー泣いたー」


 そう言って笑い出した。その笑いは教室全体へと広がり、悠人は世界そのものが自分を否定し、嘲笑っているように感じていった。


「返せええええっ!」


 悠人が泣きながら叫ぶ。男子の一人が、悠人の本を窓から投げ捨てた。


 自分は何も悪いことはしていない。なのになぜ、こんなことをされなければいけないのか。そんな思いと失望感に重なって、喘息の発作が起こってきた。悠人はその場で倒れこみ、胸を押さえて苦しそうにうずくまった。

 その時だった。


「お前らああああっ!」


 声と同時に、隣の教室から小百合が走ってきた。


 一瞬の出来事だった。悠人を囲んで笑っている男子たちに、小百合の蹴りが見舞われた。その剣幕にひるみ、男子たちが後ずさった。


「よってたかって一人をいじめて、弱虫はあんたらの方だ!」


「なんだよ水瀬、お前、悠人のことが好きなのかよ」


 男子が発したその言葉に、一瞬小百合の顔が真っ赤になった。しかしすぐにその男子を睨み付け、


「うるさい!悠人は私の弟だ!姉弟が一緒にいて何が悪い!悠人をいじめるやつは許さない!」


 そう叫んだ。その勢いに男子たちが慌てて小百合から遠ざかった。


「悠人、大丈夫、悠人!」




 しばらくして悠人が意識を取り戻すと、傍らに小百合が座っていた。気がついた悠人を見て、小百合は安堵の表情を浮かべた。


 あの後悠人は気を失い、その悠人をおぶって小百合が保健室まで運び込んだのだった。あれから2時間、小百合は授業にも出ず悠人に付き添っていた。


 呼吸も落ち着いていた。枕元には、小百合が探してくれた本が置いてあった。


「気がついた?発作はもう治まってるみたいね。歩いて帰れるかな」


 保険医の先生が優しくそう言った。悠人は無言でうなずき、ゆっくりベッドから出た。


「ありがとうございました、失礼します」


 そう言って小百合が頭を下げる。悠人も無言で頭を下げ、保健室を後にした。





 帰り道。夕日で長く伸びた二つの影が並んでいる。二人は無言で歩いていたが、やがて悠人が、唇をかみ締めながらぽろぽろと涙を流した。


「うわあああんっ!」


 一度爆発した感情が、これまで抑え込んでいたあらゆる物をあふれ出していった。何も出来ない自分への憤り、自暴自棄の感情が止まらなくなっていた。


 その時悠人の手に、暖かいぬくもりが伝わってきた。悠人がはっとすると、小百合が悠人の手を握っていた。


「小百合ちゃん……」


 悠人が小百合の顔を見ると、小百合も泣いていた。唇を真一文字に結び、ひっくひっくと肩を上げ下げしながら、悠人の手を握る力が強くなっていく。やがてそれは限界点を超え、悠人も驚くような大声で小百合も泣き出した。


「うわあああああんっ!」


 いつも、どんな時でも元気で笑っている小百合が、あんなに強いはずの小百合が、悠人の前で大声で泣いた。その勢いにおされ、悠人の涙が引っ込んでしまった。


「悠人、ごめん、ごめんね……うわああああん!」


 その場にうずくまり、小百合が膝を抱えて泣きじゃくる。


「悠人が辛かったのに、私気付いてなかった……ごめんね、ごめんね悠人……うわああああん!」


 初めて見る小百合の姿。涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、小百合は言葉にならない言葉を続けた。


「……」


 自然に悠人が、小百合の頭を撫でていた。小百合の頭に、悠人の小さなぬくもりが伝わっていく。


「ごめんね、小百合ちゃん……」


 小百合が顔を上げると、悠人はハンカチで小百合の涙を拭った。


「がんばるから……小百合ちゃんが泣かないようにがんばるから……だから小百合ちゃん、泣かないで」


 悠人の顔はこれまでに見たことのない、優しくあたたかい物だった。


 その悠人の表情に小百合の涙は止まり、そして小百合の胸の中に、熱い何かがこみ上げてきた。頬がほんのりと赤くなっていく。


 ひとつ深呼吸した小百合がゆっくりと立ち上がった。そして悠人の、涙でぐしゃぐしゃになっている顔を、ポケットから出した自分のハンカチで拭いていく。


「悠人、ごめんね……」


「ううん、ごめんね、小百合ちゃん……」


 謝りながら、互いの顔を拭きあう二人。そしてやがて、その奇妙な行為にお互いが気づき、どちらからともなく笑い出した。


「あははははは」


 二人で手を握りながら歩く道のり。いつもより握り合う手に力が入っていた。


「悠人、これからもずっと一緒だよ」


「うん」


 小百合が夕日をみつめながら、歌を歌いだした。父と悠人と一緒に行ったアニメ映画の主題歌。小百合はその優しいメロディが大好きだった。そして悠人は、その歌を歌う小百合が大好きだった……

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