第1話 深夜の急行列車にて
塵や埃で汚れた窓から視線を外し、メルセリオ・クラッカーはポケットの懐中時計を確認する。
ちょうど午前二時三十分。
商談が長引いたせいで随分遅くなってしまった。離れた町へは、往復の移動だけで八時間。乗合馬車より列車の方が段違いに早いが、それでも時間がかかる。
もう二時間は走っている。目的地に着くまで眠りたかったが、列車が揺れるせいで目を閉じても眠れそうになかった。
急な商談に取られる時間、寝不足。ままならないことばかりだ。沸き上がる苛立ちを吐き出すように溜息を吐いた。
事業もようやく軌道に乗ってきたのだ。今日の商談も手応えがあった。これから事業はもっと大きくなる。帰ったら先ほどの商談について早速書類をまとめなければ。
駅に着く前に今後のことをそろそろ話しておこうと、離れた席にいるはずの部下を呼んだ。
返事がない。妙に思って立ち上がった。
「……おい?」
後方の席に視線をやる。誰もいない。
「おい、どこへ行った?」
語気を強めて呼びかけるが、やはり返事はない。列車が揺れる音が空虚に響く。
メルセリオは部下を三人連れてきた。
夜更けの急行列車に他の乗客がいないのは最初からだったが、部下がいないのはおかしい。
そういえば、少し前に部下二人が隣の車両に移ったはずだ。
眠たかったので何と言われて隣に移ったのかあまり覚えていない。ただ、秘書は同じ車両にいるはずだ。気づかないうちに秘書も隣の車両に移ったのだろうか。車両を繋ぐ扉を開け閉めすれば、いくら眠たくても音で気づくだろう。何より忠実な秘書が自分に断りなく移動したとは考えにくい。
メルセリオは席を離れた。揺れる列車内を、座席の背もたれを伝いながら移動する。後方の席へ歩を進めた。こんなことならコンパートメント車に乗ればよかった。
天井のランプの薄明かりが座席と床板を照らしている。作られた影が濃く暗く、列車の揺れと連動して揺らめいた。
たかがひとつ後ろの席が、列車の揺れのせいで遠く感じた。
秘書がいるはずの座席を立ったまま覗き込む。
「おい、一体どうし……」
靴がぴしゃ、と水溜まりを踏んだ。
不審に思う間もなく、メルセリオは絶句した。
壮年の秘書はそこにいた。向かい合う座席の間の床の影に、溶け込むようにして座り込んでいた。
秘書は、口から大量の血を吐いてこと切れていた。
首から胸の辺りまでが真っ赤に染まっている。毎日傍にいた忠実な秘書の驚いたような顔が、列車の揺れでかくんと仰け反りこちらを見上げる格好になる。
「う、うわああああッ!」
混乱と恐慌でパニックになる。
――秘書はいつの間に死んだのか?
メルセリオはずっとあの座席に座っていた。うたた寝さえしていない。この車両に他の乗客はいないし、何かあれば気づくはずだ。
それなのにいつ、誰が秘書を殺したのか。
がくん、と思いきり列車が揺れた。衝撃でメルセリオは通路に尻餅をつく。その拍子に通路を見上げる形になる。
赤い二つの瞳が、メルセリオを見下ろしていた。影になっているが、まだ少年の顔つきだとわかる。
「……よぉ、あんた、クラッカーカンパニーの社長さんなんだってなぁ?」
「な、何だ! 何だ、お前は!」
座り込んだまま、メルセリオは少年から後ずさった。
この少年、いつこの車両に入ってきたのか。すぐ傍にいてどうして気づかなかったのか。
声色は明るいのに、少年の目はひどく冷たい。メルセリオに怖気が走る。
「あんたの秘書、一応ボディガードなんだろ? もうちょっと腕のいいのつけとかねえと」
少年は血のついたナイフを顔の傍で掲げてみせた。
「――殺されちまうぜ?」
狂気を孕んだ少年の凄絶な笑顔に、メルセリオは叫んだ。
弾かれたように床を這い、立ち上がって隣の車両への扉に飛びつく。隣車両への扉側にいて助かった。固い取っ手を思いきり引いて、その中へ身を滑り込ませる。隣の車両へと駆け込みながら声を張った。
「おい、大変だ! 隣に人殺しが……」
目の前に広がる状況に、言葉の続きは消えてしまった。
二人の部下がいた。
どちらも血塗れで、座席に寄りかかって死んでいた。
列車内の床にも座席にも血が飛び散っている。メルセリオの頭は真っ白になる。
通路の先に、淡い青のフロックコートを着て、黒い軍帽をかぶった少年が立っていた。少年の手の内の剣が青緑色に淡く光り、その刀身から血を滴らせていた。
――何だ! この少年たちは一体何なんだ!
逃げようにも、後ろはあのナイフを持った少年、前には剣を持つ少年が立ちはだかっている。部下を三人とも殺したのは、この少年二人に違いない。
メルセリオが恐怖と絶望に縛られて動けずにいると、輝く剣を持った少年がその切っ先をこちらに向けた。
「クラッカーカンパニー社長、メルセリオ・クラッカーだな? 表では煙草会社として事業を展開しつつ、裏では麻薬を売り捌いて金を毟る悪人め! 例え法で裁かれずにいようとも、オレたち〈ルペシュール〉がお前の悪行を裁く!」
少年はこちらへつかつかと歩を進めてくる。
――殺される!
メルセリオは懐から銃を取り出そうとする。
突然、右手の甲にナイフが突き刺さった。薄い肉をナイフが食い破る鋭い痛みが全身を焼き切るようだ。
「ぐああああああっ!」
痛みのあまり叫びながら、その場に転げ回る。
あの赤い瞳の少年がメルセリオの後ろに立ってこちらを見下ろしていた。いつの間にこちらの車両に来たのかという疑問は、痛みで吹き飛んだ。
「おいおい。こんな夜中に叫んだら他の乗客の迷惑になっちまうだろうが。マナーくらい守ろうぜ、社長さんよ」
少年はメルセリオの手に突き刺さったナイフを思いきり引き抜いた。刃が肉を抉り、びりびりと電流が走るような痛みが襲う。どれだけ叫んでも楽にならない。全身から汗が噴き出る。
「おい、いくら悪人だからって痛めつける必要はないだろ」
剣を持つ少年が、咎めるような声を発する。
「凶器を残していけるかよ」
赤い瞳の少年の抗議に、剣の少年は仕方ないと言った。
「早く仕事を終わらせるぞ」
「それもそうだな」
赤い瞳の少年は、血塗れのナイフを動けないメルセリオの首筋にぴたりと当てた。
ナイフの冷たい感触に背筋が凍りつく。
「や、やめ……っ、やめてくれッ!」
「悪いことはあんまりするもんじゃねえぞ?」
赤い瞳の少年は軽い調子で笑いながら、そのナイフを横に滑らせた。
メルセリオの首が鋭いナイフで切り裂かれる。全身を貫くような激しい痛みと、火のような熱さで頭がいっぱいになる。
自分が叫んでいるのかも、もうわからない。
何の音も聞こえないまま痛みと熱に圧し潰され、やがてメルセリオの頭は真っ白になった。
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