第43話 贖罪の十字架 その10
「……」
誰もいない夜道を、柚希は黙々と歩き、紅音を探していた。
山崎に会った後で、柚希は学校にも足を向けていた。
そしてそこで、山崎の仲間と思える二人の骸を見つけた。
これ以上被害が増えるまでに何とかしないと……そう思い紅音を探す柚希の耳に、一発の銃声が聞こえた。
それはあの、いつも紅音と会っていた川の方から聞こえた。
「紅音さん……!」
柚希が早足で、あの場所に向かう。
今なら……きっと今ならまだ間に合う、紅音さんを守ると先生に、そして自分にも誓ったんだ……柚希が何度も何度も心の中でそう叫んだ。
満天の星空が川面に映り込み、輝いていた。
川の周りには蛍が飛んでいて、蛍光色の光が辺りを彩っている。
「……」
その幻想的な世界の中、紅音が一人たたずんでいた。
妖艶で美しいその姿に、柚希が息を呑んだ。
「紅音さん」
土手を降りながら、柚希が声をかけた。
柚希の声に体をビクリとさせた紅音が、振り返らずに言った。
「柚希さん……来ないで下さい」
その声は、風が吹けば聞き取れないほど弱々しい物だった。
柚希の脳裏に、初めてここで紅音と会った時の記憶が蘇る。
「それは……無理ですよ紅音さん。だって僕は、こうしていつも紅音さんの側にいたいんですから」
「でも……駄目です、柚希さん……私……今の姿を柚希さんに見られたくない……こんな醜くて罪深い姿……」
「紅音さんがどんな姿でも、僕にとって紅音さんは大切な友達なんです。紅音さん、こっちを……向いてくれませんか」
「……駄目です、それだけは駄目なんです……私の顔を見てしまったら、柚希さんもお父様の様に……」
そう言って紅音がうずくまり、肩を震わせた。
その言葉に柚希は、既に明雄がこの世のものではなくなってしまったことを理解した。
紅音の髪が揺れていた。
それはあの、メデューサの能力が完全に覚醒していることを意味している。
その様子は、最早手の施しようのない状態であり、手遅れなんだと柚希に告げていた。
「じゃあ、これならどうです?」
「あ……」
柚希は紅音の背に、自分の背中をもたれかけて座った。
「少し……話しませんか……」
柚希がそう言った。
背中を通して柚希の体温が伝わってくる。
それはいつも、紅音が求めていた温もりだった。
「……この場所で初めて会ったんですよね、紅音さんと」
「はい……私がコウとお散歩をしていたら、コウが柚希さんに近づいていって」
「あの時……初めて紅音さんを見た時、お人形の様に綺麗な人だなって思って」
「はい……柚希さん、それを口に出されてました……」
「そうでした、はははっ」
「ふふっ……」
「でも本当です。あんまり綺麗な人だったんで、異世界にでも迷い込んでしまったんじゃないかって」
「……私もあの時、柚希さんのことを素敵な人だなって思ったんですよ」
「え?それは初耳ですけど」
「はい……秘密にしてました……」
「そっか、あはははっ」
「ふふふっ……」
二人の穏やかな笑い声が辺りを包み込む。
それはいつも、この場所で積み重ねてきた日々と同じであった。
「あれから本当に色んなことがありました……」
「はい……家にも来てくれました……私のことを友達だって、そう言ってくれました……」
「紅音さんのピアノ、綺麗な音色でした……」
「柚希さんの写真、とっても温かくて涙が出ました……」
「早苗ちゃんも参加してくれて……」
「はい。女の子の友達が、初めて出来ました……とっても嬉しかったです……」
「晴美さんには、よくからかわれましたよね」
「晴美さん、二人きりの時も、いつも柚希さんのことで私をからかってたんですよ」
「あははっ、晴美さんらしいな」
「柚希さん、私……柚希さんに言わなければいけないことがあるんです……これを言っておかないと、きっと私は後悔してしまいます……」
「……」
柚希が紅音の手を握った。
紅音は驚いたが、やがて小さく微笑むと、その手を強く握り返した。
「私……柚希さんのことが好きです……」
「紅音さん……」
「ずっと……ずっと、この言葉を柚希さんに伝えたかった……でも私は体も弱くて、柚希さんの為に何も出来ないから、言ってしまったらきっと柚希さんが困ってしまう……そう思って、今まで言えませんでした……
でも私……せめてこの気持ちを伝えるだけでもいい、許してもらいたい、そう思って……」
「紅音さん……」
柚希が振り返った。
紅音の髪はまだ、一本一本が生きているようにうごめいていた。
しかし柚希は構わず、その髪に顔を埋めて紅音を抱きしめた。
「あ……」
しばらくすると、髪の動きが静かに止まった。
紅音の甘い香りを、紅音の体温を、紅音の柔らかさを柚希が全身で感じる。
紅音も柚希に身をゆだねた。
二人の鼓動が一つになる。
それは穏やかで心地よく、二人は言い様のない一体感を感じた。
「ありがとう、紅音さん……そんな風に想ってもらえて……嬉しいです……」
「柚希さん……」
「正直に言いますが、実は僕も、紅音さんに告白しようって、ずっと思ってました」
「え……」
「でも中々勇気がでなくて……だから僕も今、紅音さんに告白します……僕は紅音さんのことが好き……です……」
「柚希さん……」
「駄目ですね、女の子にこんな恥ずかしいことを言わせるなんて。僕がしっかりと、先に告白するべきでした」
「ふふっ、確かにそうかも……私はともかく、早苗さんにはそうしてあげるべきだったかも知れませんね」
「え?紅音さん、知ってたんですか」
「はい、早苗さんはお友達ですから」
「参ったな……これじゃあ僕って、本当に空気の読めない
「はい、晴美さんも、そうおっしゃってました」
「あははっ、面目ない……」
「ふふふっ……でもこれで、気持ちがすっきりしました」
「……」
「……この想いだけは、どうしても伝えたかったですから……でも出来れば、可能性が少しでも残っている内に、伝えたかったです……」
「紅音さん……」
「早苗さんにはもう、返事されたんですか?」
「あ、いや……それはまだ……」
「駄目ですよ。想いを告げられた殿方としての責務、ちゃんと果たさないと」
「でも……」
「でも、じゃないですよ、柚希さん。早苗さんは本当に素敵な方です。私がもし男だったら、間違いなく好きになってました。それに早苗さんは、ずっと柚希さんのことを想っていたのですから」
「……」
「私はお二人の間に割り込んだ、ただのお邪魔虫さんです。私は気持ちを伝えられただけで満足してます」
「紅音さん……僕は紅音さんのことも、早苗ちゃんと同じぐらい」
「私は私の意思で、柚希さんにこの想いを伝えました。でも、柚希さんごめんなさい。私は柚希さんの想いを、受け入れることは出来ません」
「……」
「私は……全て思い出しました。お母様のこと、自分に宿っている力のこと……全部です」
「紅音さん……」
「そして今日、私はたくさんの未来を奪って……」
「紅音さん……でもそれは、紅音さんのせいじゃない。紅音さんの中に宿っている、別の何かがそうさせているだけで」
「理由はどうあれ、私の起こした行動が、多くの方々に取り返しのつかない不幸を与えてしまいました、私は、その報いを受けなければいけないのです……」
「なら……なら僕も報いを受けます。僕、さっき山崎くんが目の前で石になるのを見てました。でもあの時、僕の中には彼に対して……何の感情も沸きあがって来なかったんです。哀れみも同情も、何も……
僕にとって、他人はその程度なんだ、そう思いました。彼に対する怒りすらなかった。目の前で消えようとしているクラスメイトを見ながら、僕は紅音さん、あなたを探すことしか頭になかった」
紅音は黙って柚希の言葉に耳を傾けていた。
そして思った。
そう、私と柚希さんは同じ、共にいびつな心を持ち、その心に振り回され、苦しみ、戦いながら生きてきた。
この世界の異端者として生まれてきた存在……だからこそ、私たちは惹かれあったんだ。似たもの同士なんだ……
「だから紅音さん、もう一度、僕と一緒に頑張りませんか。晴美さんだって、早苗ちゃんだってきっと力になってくれます」
「……ありがとうございます、柚希さん……でも私は、例え私の意思でなかったとしても、大勢の方の未来を奪ってしまいました、この呪われた力で……そしていつか、また必ずこんな日が訪れます……私はこれ以上、柚希さんや大切な人たちを苦しめたくないんです……」
「……」
紅音を抱きしめる腕が震えていた。
柚希は声を殺して泣いていた。
「柚希さん、最後に柚希さんと会えてよかったです……本当は柚希さんが来る前に終わらせるつもりでした……でも、やっぱり心のどこかで私は、柚希さん、あなたに会いたかったんだと思います……」
紅音の声が涙声に変わっていた。
涙が頬を伝い、柚希の手を濡らした。
「紅音さん……」
「どうして……どうしてこんなことになってしまったんでしょう……私はただ、穏やかに暮らしたかっただけなんです……そこにお父様がいて、晴美さんがいて……隣に柚希さんと早苗さんがいてくれて……みんなが穏やかに笑っている、それだけでよかったんです……なのに、なのにどうしてこんなことに……」
「……」
「……人を不幸にしてしまう力なんて、欲しくなかった……私なんて、私なんてこの世に生まれてこなければよかった……」
涙は止め処なく流れ、紅音が嗚咽しながら言葉を吐き出していった。
「紅音さん」
紅音を抱く腕を解き、柚希が紅音の耳をつまんだ。
「また言いましたよ。『私なんて』って」
「あ……ふふっ、そうですね、また言っちゃいましたね」
「はい、言っちゃいました……」
「ふふふっ……」
「あははっ……」
二人がそう言って、涙を流しながら小さく笑った。
「今まで……本当にありがとうございました……」
そう言うと紅音は立ち上がり、川に近付き、静かに腰を下ろした。
「柚希さん……もし、生まれ変わりが本当にあるのなら……私はまた、柚希さんとお会いしたいです……そしてその時はまた……お友達になって……もらえますか……」
「紅音さん……!」
柚希は駆け寄り、再び後ろから紅音を抱きしめた。
「僕も……お願いします。またどこかで会えたら、その時は僕と、友達になってください」
「……」
その言葉に紅音が涙した。
口元に満足そうな笑みを浮かべ、そして小さくうなずいた。
「柚希さん……大好きです。この世界で私の一番大切な宝物……柚希さん、大好きです……」
そして紅音は、静かに目を開けた。
その視界には、川面に映る自分の顔があった。
「あ……私……こんなに幸せそうに……笑って……」
紅音が嬉しそうに、にっこりと笑った。
「柚希さん……どうか幸せに……」
紅音の体が、ゆっくりと冷たく、そして硬くなっていく。
「大好きです……柚希……さん……」
やがて紅音の全身が、完全に石と化した。
「……」
柚希は動くことが出来なかった。
冷たくなった紅音の骸を抱きしめながら泣いた。
「紅音……さん……」
そしてその時が来た。
抱きしめていた紅音の体が、一気に砂になって崩れ落ちた。
柚希は、それを食い止めようと、必死に体を抱きしめようとした。
「あ……ああ、ああっ……」
繋ぎとめようとする手が、無常にも空を切る。
「紅音さん……紅音さん……」
静かな夜の川辺に、柚希の紅音を呼ぶ声が虚しく響いた。
「……」
柚希が両手で砂をすくい、口元へと近付ける。
「紅音さん……」
そしてその上に唇を重ねると、そのまま身を震わせた。
紅音はもういない。
二度と紅音の声を聞くことはない。
紅音の笑顔を見ることもない。
その残酷な現実を思い、柚希は泣いた。
何度も何度も、紅音の名を口にしながら、柚希は泣いた。
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