第15話 穏やかな日々 その4


 庭に出ると、そこには紅音が世話をしている花壇が広がっていた。


 色鮮やかな花が咲き誇っている。

 手入れの行き届いた花壇を見て、柚希は自分も家で菜園をしていることを話し、またお互いに話の共通点が出来たと笑った。


 近い内に柚希さんの菜園を見せてください、そう言って笑う紅音の顔を見て、柚希も照れくさそうにうなずいた。



 庭でボールを投げると、コウが嬉しそうに走っていく。

 その光景を見ながら紅音は、思い立ったように窓の近くに絵画用のイーゼルを持ってきた。


「それって、油絵とかを描く時に使うやつですよね」


「ええ。それであの……柚希さん、よければコウと遊んでる柚希さんをその……描かせてもらってもいいでしょうか」


「あ……は、はい。よろしくお願いします」


「ふふっ、柚希さん、返事が変です」


「あ、あはははっ」


 柚希が照れくさそうに笑いながらボールを投げる。

 ボールをくわえてコウが戻ってくると、コウの頭を撫でて優しく笑った。

 そんな柚希を見つめながら、紅音はキャンバスに鉛筆を走らせた。




「ふうっ……」


 こんなに運動したのは久しぶりだ、そう思いながら一息ついた柚希に、紅音がタオルを差し出した。


「ありがとうごさいます、柚希さん。コウも遊んでもらって、とっても嬉しそうです」


 紅音がそう言うとコウも一声鳴いた。


「あははっ……でもやっぱり犬って、元気ですね」


「柚希さんは大丈夫ですか?胸、苦しくありませんか」


「これぐらいなら大丈夫です。今日先生にも、軽い運動なら大丈夫って言ってもらったから、僕も嬉しくてつい……」


「よかった」


 紅音が嬉しそうに微笑んで、柚希にレモネードを手渡した。


「おいしい……ひんやりとしてて、それに甘い……」


「晴美さんのお手製なんです。お砂糖もたっぷり入ってますから、運動の後にぴったりなんです」


「ほんとだ。何だか晴美さんに今日の僕たちの行動、全部見透かされてるみたいですね」


「不思議な人なんです。晴美さんって、昔から私の望んでることを全部先回りして感じてくれるんです」


「そうなんだ……本当に紅音さんたちのこと、よく見てるんですね」


「ええ。ですから私も安心して生活できるんです」


「それで……」


 レモネードを飲み干した柚希が、靴を脱いで部屋に入ってきた。


「絵はどんな感じで?」


 そう言って柚希がキャンバスを覗き込もうとした。


 紅音は反射的にキャンバスを体で覆い隠した。


「だ、駄目です……まだ途中だし、それに、下手……ですから……」


「でも僕、見たいな。紅音さんの描いた絵」


「柚希さんの言い方、なんだかちょっとずるいです……」


 そう言って紅音がゆっくりとキャンバスから体を離した。


「……」


 そこには前足を柚希に預けてるコウと、そのコウを抱きしめている柚希の姿があった。


 鉛筆だけのデッサンだが、不思議と温かさを感じることの出来る絵だった。


「僕が撮った写真を見た時の紅音さんの気持ち、ちょっと分かった気がします……ね」


 柚希が照れくさそうに頭をかいた。


「かなり恥ずかしいな……それに僕、随分と美化されてません?」


「そ、そんなことないです……ごめんなさい、うまく柚希さんを表現できなくて……」


「いえ、そう言う意味じゃなくて……あははっ……でも僕、デッサンを直接見るのって、考えてみたら初めてなんだけど、鉛筆だけでこんなに温かい表現が出来るんですね」


「恥ずかしいです……」


 紅音が真っ赤になった顔を両手で隠す。


 その仕草に柚希は笑みを浮かべ、紅音の傍らに腰を下ろした。


「あ……」


 紅音が声を漏らした。


 これまでいつも、紅音の方から柚希に近付いていた。

 川辺で座る時も、抱擁する時もそうだった。

 だから特別意識したことがなかった。

 しかしこうして柚希の方から近付いて来られると、急に柚希を意識する自分に紅音は気付いた。


 すぐ側に柚希がいる。

 手を伸ばすと触れることも出来る。

 息を感じる。

 匂いを感じる。

 そう思うと、緊張で息が止まりそうになった。


 庭の花壇を眺めながら、柚希が紅音に話しかける。

 その横顔をみつめる紅音は、柚希の優しい笑顔に吸い込まれそうになった。


(柚希さん……)


 静かで優しい時間だった。

 時折吹く風が、二人の髪を揺らす。

 紅音は、この静かで温かい時間が長く続いて欲しい、そう心から願った。


 その時だった。


「え……」


 紅音の目に、柚希のシャツの襟元から見え隠れする紫色のあざが映った。


「柚希さん、このあざ……」


 柚希が、慌てて襟でそのあざを隠した。


「あははっ……いやこれは、大丈夫、なんでもないんです……」


 その不自然な仕草は、紅音の不安を大きくするには十分だった。


「柚希さん……初めて柚希さんにお会いしたあの日、柚希さんは頬を怪我されてました……あの時その傷のことをお聞きしようとして、でも初めてお会いした方にそんなこと、失礼だと思って……」


 おそるおそる、言葉を選びながら紅音は続けた。


「でも……柚希さんは私のことを友達だと言ってくれて……私、すごく嬉しかったんです。生まれて初めて、私にお友達が出来ました……柚希さんのおかげで、同じことを繰り返すだけだった私の日常が楽しくなって……

 柚希さんはたくさんの幸せを私に与えてくれました。私の住む世界はこんなにも温かいんだ、優しいんだ、幸せなんだ……でも、私は柚希さんの為に何もすることが出来なくて……」


「紅音さん、そんなこと」


「私……私も柚希さんのお役に立ちたいんです……柚希さん、柚希さんに一体何が起こってるのですか?私に……私に柚希さんの中にある辛いこと、教えてはもらえませんか」


 言葉を振り絞るようにそう言って、紅音は柚希に視線を向けた。


 そして、驚いた。


 柚希は笑っていた。いつもの様に優しく、穏やかな笑顔だった。



「ごめんね、紅音さん……僕が変にはぐらかしていたから、紅音さんを随分と悩ませていたみたいで……紅音さんに余計な心配をかけたくなかったから……違う、これはちょっと格好よすぎるかな……本当はやっぱり、恥ずかしいから言いたくなかったんだと思います。


 ……僕は、子供の頃からいじめられる人種だったと思います。保育園でも小学校でも、中学でも高校に行っても……どれだけ環境が変わっても、いつも同じ結果がついてまわってました。

 勿論、同じ人にいじめられていた訳ではないです。その場所場所で、色んな人たちから色々とされてきました。そのことが不思議でした。なぜ僕は、どこに行ってもいじめられるんだろうって」


「……」


「僕は、以前通っていた高校でもいじめを受けてました。いくら環境を変えても同じ結果が僕に降りかかってくる、その事に絶望して僕は……この世界から逃げようとしました……」


「え……」


「でもそのことは紅音さん、もう過去のことなんです。自分の中でも色々と葛藤がありましたが、何とか乗り越えることも出来ました。だから心配しないで欲しいです」


 そう言って柚希が紅音の頭を撫でる。


 そのぬくもりはまるで、柚希の言った言葉が嘘ではないと、紅音に諭しているようでもあった。


「そして僕は、もう一度人生をやり直したい、出来れば今までのような受身の生き方ではなく、自分から幸せをつかみに行く生き方をしたい、そう思ってこの街に来る事を決心したんです。

 新しい街、新しい学校で僕は生まれ変わるんだ、そう思ってました……でも、やっぱりこんなに遠い場所に引越ししても、僕をいじめる人たちからは逃げられないようでした。この傷は昨日、屋上に呼び出されて……」


「柚希さん……そんな大きな苦しみを、いつも一人で抱え込んでいたんですか……でも、学校でのいじめでしたら、先生に」


「先生には言ってません」


「どうして……」


「これまで何度となく、僕も先生たちに解決して欲しいと訴えました。勿論先生が介入する事で、表面的には落ち着いたように見えます。でもそれはあくまでも表面だけです。大人が介入することで、彼らのいじめは以前よりも陰湿に、そして激しくなるんです。それに……結局は僕の問題ですから。自分で何とかしないと」


「でも、自分の力でと言っても……悪いのはその人たちじゃないですか。柚希さんは何も悪くありません。なのにどうして、柚希さんが努力しなくてはいけないのですか」


「僕のせいでもあるから……かな」


「え……」


「どこに逃げても、僕を敵視する人が必ずいる。それがどうしてなのか、父に言われたことがあります。

 僕は彼らにとって『嫌な匂い』を出しているんだって。だからどこに行っても、その場所にいる彼らの的にされてしまう。それは恐らく、これからもずっと続くと言われました。たとえば声の調子、動作、雰囲気、諸々が彼らにとって我慢ならない。

 ならどうしたらいいのか?答えは簡単で、一番難しい事。『自分が変わること』だって」


「そんな……」


「勿論、急に変われるものじゃないです。でも、生きていく為には挑戦しなければいけないことだと思う、そう言ってくれました。

 原因を他者に向けて自分を慰めるのではなく、もう一歩踏み込んで、彼らが気にならない様な人間になっていく努力をしていくべきだと。

 勿論いじめや暴力はよくない行為だし、その一点で彼らに弁解の余地はない。でも自分自身を見つめなおして、よりよい暮らしをしていく為の知恵を身に付けることも大切だって」


「……」


「その話を聞いて僕自身、目が覚めるような思いだったんです。受身の生き方ではなく、自分から行動を起こしていく生き方に憧れました……まあ、急には変えられないので、今の学校に転校してもやっぱり、こうしていじめられてるんですけど、ははっ」


「……柚希さんと初めてお会いした時、この怪我はそうなんじゃないかって思ってました。学校でいつも理不尽な暴力を受けて、痛い思い、辛い思いをしてきたんだと思います。でも柚希さんは私の前で、いつも優しく笑ってくれます。その優しさの意味が今、分かったような気がします……


 柚希さんは強い心を持っています。だからそんなに優しいんです。柚希さんは今の状況と戦っていて、そして、柚希さんをいじめる人たちのことすら考えているように思えます……私、そんな柚希さんと出会えて、そして友達になってもらえて……本当によかったって思います……」


 紅音はゆっくりと立ち上がり、そして柚希に手を差し出した。


 柚希がその手を握って立ち上がると、紅音は柚希を庭の木の下へと導いた。


「私には柚希さんの痛みを理解することが出来ません。苦しみを取り除くことも出来ません。だからせめて……友達として、柚希さんの傷を少しでも癒すお手伝いを、させてもらえないでしょうか……」


 紅音が左手を幹にやり、そして右手で柚希の首筋にそっと触れた。


 温かい感触が柚希を包み込む。


 懐かしくて心地よいぬくもりが、柚希の中にある痛みを優しく癒していく。




 しばらくして目を開けると、息がかかる程間近に紅音の顔があった。


 紅音の瞳は潤んでいて、柚希の瞳をみつめている。


 柚希もその瞳をみつめる。


 やがて紅音は、ゆっくりと瞳を閉じた。


 頬はほんのりと上気して赤く染まっている。




 柚希は静かに、紅音の肩に手をやった。

 紅音は一瞬体をピクリとさせたが、両手を柚希の胸に重ね、柚希に身をゆだねた。


 紅音の唇に、温かい感触が伝わってきた。


 初めて感じる柚希の唇。


 その優しさ、温かさに紅音の頭の中は真っ白になった。

 何も考えることが出来ない。

 生まれて初めて他人と唇を重ねている、そしてその相手が、今自分にとって一番大切な人、柚希さんなんだ、その思いが彼女を支配した。


 やがてそっと、柚希の唇が離された。


 ゆっくりと目を開けると、目の前に柚希の笑顔があった。


 その笑顔に紅音は、これまで感じたことのない安心感と共に、柚希を愛おしく思う気持が溢れてきた。


 柚希が紅音をそっと抱きしめる。

 二人の胸が重なり合い、高鳴る鼓動を共有した。

 柚希は紅音の頭を撫でながら唇で頬に触れる。

 紅音は柚希の抱擁に身を任せながら、柚希の思いを感じ、ぬくもりを感じた。




「今日は色々と……ありがとうございました」


 門扉で柚希が晴美にそう言い、頭を下げた。


「いえいえ、大したおもてなしもできず、こちらこそ失礼致しました、むふふっ」


「え?え?晴美さん、今の笑いは何ですか?」


 紅音が晴美の意味深な笑いに反応した。


「いえいえ、特に意味なんてございませんが……お嬢様こそ、何をそんなに慌ててらっしゃるんで?」


「わ、私は別に……」


 紅音がそう言って、顔を真っ赤にしてうつむいた。


「あらあら、そのご様子だとほんと、むふふっ……今日はこのぐらいにさせていただきますね。柚希さん、また是非いらっしゃってください」


「はい、ありがとうございました。食事もレモネードも、すっごくおいしかったです。じゃ、紅音さん、また明日……おやすみなさい」


「おやすみなさい、柚希さん」


 紅音は柚希に近付くと、いつもの様に彼を抱擁し、頬にキスをした。


 晴美は初めて二人のその光景を目にしたが、紅音と言う人間を理解しているからか、特に驚いた様子もなく笑顔で二人を見守っていた。




 夜道を歩きながら柚希は、何度も何度も自分の唇に手をやった。


 僕、紅音さんとキス、したんだ……あの時の感触を思い返し、紅音を愛おしく思った。




 新しく処方された薬を飲み終えた紅音も、ベットの中で柚希と交わしたキスを思い出していた。


 あの時の情景を思い出すと胸が高鳴り、つぶれそうになった。


 しかし今夜はいつもより睡魔が強く襲ってきている。

 きっと柚希の事を知り、本当の意味での友達になれたとの思いが安心感になっているんだ、だから心地よい睡魔が来てるんだ、そう思った。



「おやすみなさい、柚希さん……」

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