第10話 過去の傷跡 その2


「適当に座ってて。麦茶入れてくるから」


 早退した二人は一旦、柚希の家に入った。


 早苗の家には学校から連絡がいっているだろう、しかし早苗をこの状態で帰す訳にはいかない。


 少しでも元気な顔に戻ってから帰ってもらいたい、そう思っての柚希の気遣いだった。


 帰り道、早苗は柚希と一言も言葉を交わさなかった。


 柚希は何度か会話を試みようとしたが、早苗の雰囲気に言葉を飲み込んでいた。


「うん、ありがと……」


 眼鏡を外した早苗が、小さな声で言った。




 柚希の部屋に入るのは二度目だった。

 何度か家に入ったことはあったが、いつも一階の居間で用事を済ませていた。

 一度目は引越しの手伝いの時。そういう意味では初めてとも言えた。


 柚希が部屋から出て行くと、早苗は鞄を置いてベッドに腰掛け、部屋を見回した。

 そう言えば私、男子の部屋に入るのは初めてなんだ……そう思うと変な緊張感を感じた。



「……」


 殺風景な部屋だった。

 男子の部屋って、みんなこんな感じなんだろうか。

 テレビでよく見る男子の部屋は、大抵趣味がそのまま形になっていたように記憶している。

 しかし柚希の部屋は、今彼女が腰掛けているベッドの他に勉強机、ステレオと本棚が一つあるだけだった。

 早苗の部屋の様にポスターが貼られていることもない。

 無機質という言葉が一番しっくり来る、そんな感じの部屋だった。


「そっか、柚希の趣味ってば写真だよね。確かそれって、隣の部屋に作った暗室でやってるんだっけ……でもそれにしても、生活臭がしない部屋だなぁ……」


 その時、机の上の小さな箱が早苗の目に入った。

 近付いてみると箱の中には、父が仲のいい友人とたまにしている、花札のようなサイズの何かがぎっしりと並べられていた。


 手前の一つを手に取ると、それは写真のフイルムのようだった。

 しかし父が撮ってきた写真のフイルムのように、何コマもつながっている物ではなく、一枚ずつ厚手の紙で四方を囲み込まれていた。

 それに写真の様に色がついている。

 窓に向けると、鮮やかな緑色をした山が見えた。

 こんなフイルムを、早苗は初めて見た。


 一枚ずつ手に取り、窓にかざしていく。

 色々な写真があった。

 土筆やタンポポのような草木、電線に止まっている雀、車のボンネットの上で寝ている猫。

 一枚一枚、どれも心温まる柚希らしい写真だった。


「お母さんが言ってたの、ちょっと分かるな……優しい柚希だから撮れる写真……って感じだな……」


 写真を見ているうちに、早苗は自分の心も温かくなっていくのを感じた。

 さっきまでの悔しくてやるせなかった気持が薄れていき、穏やかになっていく。


 自分が生まれ育った街は、こんなにも温かくて優しかったんだ……それをここに来たばかりの「よそ者」が、こんな風に表現してくれている。

 彼の目には自分の街が、こんな風に見えている。そう思うと早苗は嬉しかった。


「え……」


 早苗の手が止まった。

 早苗が手にした一枚のフイルム。

 そこには山や草木は写っていなかった。人が写っていた。


「……」


 その人物は、黒い日傘を差していた。

 こちらを見て優しそうに微笑んでいる。

 小さなフイルムでも、その人物が綺麗な顔立ちをした女性であることは分かった。


 急に早苗の胸の鼓動が早くなった。

 口の中が一気に乾いてきた。

 その写真に早苗は、自分でも驚くほどに動揺していた。


「誰、この人……柚希ってば、人を撮ったことなんてないって言ってたよね……」


「早苗ちゃんおまたせ」


「うわっ!」


 ドアを開けて入ってきた柚希の声に、早苗は大声をあげた。


「え?え?何、何?」


 早苗の反応に、柚希も驚いて麦茶をこぼしそうになった。


「あ、あははははははっ、いや、何でもないよ何でも」


 早苗は笑ってごまかしながら、その女性の写ったフイルムを、柚希に見えないように箱の中に戻した。


「早苗ちゃん、笑ってる……元気戻った?」


「え……ま、まあね。と言うか柚希遅いよ。もう喉、からっからだよ」


 そう言って柚希が差し出すコップを受け取ると、それを一気に飲み干した。


「あー生き返った」


「おかわり……いる?」


「いいよいいよ大丈夫。あははははははっ」


 再び笑ってごまかしながら、早苗はベッドに腰を下ろした。


 柚希は勉強机の椅子に腰掛け、自分も麦茶を一口飲んだ。



 早苗の頭は混乱していた。

 今、私が見た女の人は誰?

 背景からしても撮ったのは多分この街、と言うことは最近の写真。

 でも柚希の口からそんな事、一度も聞いた事はなくて……


(あ……)


 そこまで思考を巡らせて、早苗の頭に、最近の柚希の妙な行動が思い出された。


 そう言えば最近、やたらと学校にカメラを持って来てたよね……流石にテスト期間中はなかったけど、でもテストが終わるとまた持って来ていて……学校を出るのも妙に早かったし、それに最近、今まで見たこともなかったような嬉しそうな表情をよくしていたし……


「あ、これ……」


 綺麗に詰められていた筈のフイルムが、不自然にいびつになっているのが柚希の目に入った。


「早苗ちゃんこれ、ひょっとして見た?」


「え?あ、あははははははっ。ごめんね、何かなって思ってつい……ね」


「そっか。いいんだけど、ちょっと恥ずかしいかな」


「ねえ柚希、そのフイルムなんだけどさあ、それってどうして色がついてるの?」


「これはちょっと変わったフイルムでね、ポジって言うやつなんだ」


「ポジ?」


「うん。リバーサルフイルムってのが正式な言い方なんだけどね。普通のフイルムは色が反転してるんだけど、こいつは写真と同じ色がついてる優れものなんだ。

 そして、マウント仕上げって言うんだけど、こうして一枚ずつケースに入った状態にしたら、スライドで見ることも出来る。何より、普通のフイルムよりも色に深みがあるって言うか……普通のフイルムも使ってるんだけど、こっちも好きなんだ」


「二種類のフイルムを使ってるんだ。なんだかほんとにプロって感じだね」


「そんなたいした物じゃないけど……ただ好きなだけで」


「謙遜謙遜。それに柚希ってば、フイルムも自分で現像?だっけか、してるんだよね」


「こっちは無理なんだ」


「こっちって、そのスライドネガ?」


「スライドネガ、ははっ……こっちのネガを自分で現像しようと思ったら、とんでもなく高い機械がないと駄目なんだ。近所の写真屋さんに持って行くんだけど、そこも機械を置いてないから、大きい現像所に持って行って現像してるんだ」


「そっかぁ。でも面白いフイルムだよね。ねえねえ、今度柚希が気に入ってる写真をスライドで見せてよ」


「だからこれは知られたくなかったんだ……スライドなんかで見られたら、恥ずかしさ倍増なんだから」


「そんな事ないよ。柚希の写真を見てると、不思議な気持ちになれるんだから」


「不思議な気持ち?」


「お母さんの言ってたの、間違ってないと思う。一枚一枚に、柚希の温かい気持が伝わってきたもん。おかげで私も温かい気持ちになれたし、ほら、元気になって……」


 そこまで言って、はっとした早苗が言葉を止めた。


 そして照れくさそうに小さく笑った。


「ははっ……よく考えたら私、さっきまで泣いてたんだった……」


「そうだ忘れてた。大丈夫?」


「あ、ははっ……なんか、さっきの涙が嘘くさくなっちゃうね、これじゃ」


「そんなこと思わないけど……でも、どうなの早苗ちゃん」


「うん、もう大丈夫……ね、柚希の撮る写真のおかげで、私は元気になったでしょ。もっと自分の写真に自信持ちなさい」


「ど、どうも……ありがとうございます」


「でもごめんね、柚希……私、ちょっとでも柚希がクラスに馴染めるようにって思って、年のこと隠してたのに、なのに返って柚希に迷惑をかけちゃった」


「そんなことないよ。山崎くんが言った時、確かにみんな驚いた顔をしてた。でもその後、声は聞こえなかったけど『関係ない』ってみんな思ってくれてた、そんな風に僕には見えたよ」


「でも……山崎のおかげで、柚希が入院してたことだって」


「やっぱ、早苗ちゃんは知ってたんだね。父さんから聞いた?」


「うん……私はそこまで自分を追い込んだ経験がないから、その時の柚希の気持ちは分からない。苦しみも分からない。だから知らないふりしてたんだ。

 でも柚希のお父さん、私には柚希のことを全部知っていて欲しいからって言って、話してくれたんだ……これは柚希に同情してもらいたくて言うんじゃない、ありのままの柚希を知ってもらって、その上で柚希と向き合って欲しいんだ、そう言ってくれて」


「そっか……父さんらしいね」


「ねえ柚希……」


「何?」


「私、見ないようにしてた。聞かなかったことに出来ないかと思った。でも柚希のお父さんから聞かされて、そして柚希と暮らして、柚希のことを知っていって、抑えられなくなってた気持ちがあるんだ。今、そのことを伝えていい?」


 早苗が何を言おうとしてるのか、柚希には分からなかった。


 しかし早苗の瞳からは、不純な思いが見えなかった。


 柚希は静かにうなずいた。



「……手首の傷、見せてくれないかな……」



 柚希の表情が強張った。

 これまで、自分でも見ないようにしてきた傷跡だった。


 これは自分が犯した罪。


 大切な父、そして大好きだった母からもらった命を捨てようとした傷跡。

 それを早苗は見せて欲しいと言った。


 駄目だと言おうとした。しかしその言葉は口から出なかった。

 早苗を見ると、早苗の瞳が涙で濡れていたからだった。

 その涙はまぎれもなく、安っぽい同情心ではなかった。

 好奇心で見たいと言っているのではないと、柚希は感じた。


 柚希が無言で左手の袖をあげ、ゆっくりと早苗に向けた。


「……」


 早苗が手首の傷跡を見る。

 手首に涙が落ちた。

 早苗はしばらく瞬きもせず、傷跡を見ていた。

 そして柚希の手を取り、そっと抱きしめた。


「え……」


 早苗の行為に柚希は驚いた。

 そして混乱した。

 早苗の意図がつかめなかった。


「ごめんね、柚希……柚希がどれだけ辛かったのか、私には分かってあげられない……苦しかったと思う……寂しかったと思う……でも……でも私は分かってあげられないの……だから……だから……」


 そう言いながら左手を抱きしめ、早苗が泣く。


 そんな早苗を見ていて、柚希は早苗が何を言いたいのか、分かったような気がした。




 人の苦しさや辛さを「分かる」と言うのは簡単だ。

 そして人は他人にそう言ってもらえることで、自分を理解してくれる人がいると安心感を持つことが出来る。

 でも、その「分かる」と言う言葉は真実なのだろうか。


 人は感性も違えば育ってきた環境も違う。

 同じような悩みや苦しみがあっても、人によって受け止め方は違う。ダメージも違う。

 ましてや自分が経験したことのない苦しみを理解できる訳がない。

 そのことを、早苗は正直に告白しているのだ。


 自分には苦しみを分かる事が出来ない……それが悔しくて、早苗は泣いているんだ。

 分からない事を自分に詫びているんだ……そう思うと、早苗のその生真面目さ、誠実さ、優しさが心に染み込んでくるような気がした。



「ありがとう、早苗ちゃん……」


 そう言って柚希は、早苗の頭を撫でた。


 柚希の手が頭に触れた一瞬、早苗は体をピクリとさせた。


 そして柚希の手の温もりに触れ、また泣いた。

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