銀の少女
栗須帳(くりす・とばり)
第1話 邂逅 その1
優しい日差しが映り込み、川面が輝いていた。
昭和58年5月。
奈良県北部に位置するこの街に越して来て一ヶ月。
この小川にまで足を運んだのは初めてだった。
腰を下ろし木にもたれかかると、
まだ痛む。頬の殴られた跡が、そして蹴られた脇腹も、時間と共にずきずきと痛んできていた。
頭もまだ朦朧としている。制服の詰襟を外し、ベルトを緩めると呼吸が少し楽になった。
両手の親指と人差し指を使ってフレームを作り、小川や土手を眺める。
今度の休み、ここに写真を撮りにこよう……今しがた起こり、そしてまた、明日もあさっても続くであろう現実から目を背けるように、柚希は木にもたれたままフレーム越しに辺りを見渡した。
その時、柚希が近くに気配を感じた。
今日はこれで許してくれないのか……あとどれぐらい殴られたらいいんだ……勢いよく彼の元に近付いてくる足音に、柚希は目をつむり、諦めきった表情を浮かべた。
その時だった。まだ少し血がにじんでいる彼の頬を、何者かが舐めてきた。
「うわっ!」
予想外のことに柚希が驚いて声を上げた。
振り向くと目の前に、太い眉を持った犬の顔があった。
「え……犬……?」
息を荒げて柚希を見つめるその犬に緊張感が解け、顔が一瞬ほころんだ。
そして次の瞬間、その犬に舐められた頬の傷に痛みが走り、顔をしかめた。
しかし犬はおかまいなく、木の下でうずくまっている柚希の上に乗りかかり、再び顔を舐めだした。
「え?え?ちょ……ちょっとお前、やめろ……やめろってお前……ははっ、あははははははっ」
尻尾を振りながら顔を舐めてくるその犬に、いつしか柚希は声をあげて笑っていた。
散々殴られた後なので、犬を払いのける気力も残っていない。
地面に寝転がり仰向けになった柚希の顔を、犬は容赦なく舐めてきた。
柚希は笑いながら、しばらく犬にされるがままになった。
しかし不思議と、さっきまでの重い気持ちが軽くなっていくような気がした。
「コウ?どこに行ったの」
土手の向こうから女の声がした。
気をつけて聞いていないと、風の音にかき消されてしまいそうな、か細い声だった。
「コウ!何をしてるの、早く離れて!すいません、大丈夫ですか」
コウと呼ばれるその犬を見つけた声の主が、慌てた口調でそう言った。
その言葉にコウは反応し、柚希から離れると声の主の所に走って行った。
「ごめんなさい、大丈夫ですか……」
「あ……はい、大丈夫です」
そう言って起き上がろうとする柚希の目に、黒い日傘をさした女の姿が映った。
太陽を背にしているのでよく顔が見えない。
女が、手袋をした小さな手を差し出してきた。
柚希がその手を握ると、手袋越しではあるが、やわらかい感触と共に温かい体温が伝わってきた。
柚希は赤面しながらその手に引き寄せられ、ゆっくりと起き上がった。
女は日傘をたたみ、肩から提げた小さなポーチからハンカチを取り出した。
「ごめんなさい、あのその……大丈夫でしたか」
ハンカチを柚希の顔に近づけながら、その女は申し訳なさそうにそう言った。
そして次の瞬間、柚希の顔のあざを見て、
「え……え……もしかしてこの傷……ご、ごめんなさいごめんなさい、大丈夫ですか」
動揺を隠し切れない様子で、柚希に向かって頭を下げた。
「あ、いえ……大丈夫です、これはこの子につけられた傷じゃないですから。そうだよね、コウ」
柚希がそう言うと、コウが一声鳴いた。
その柚希の言葉に安心したのか、女は小さく息を吐き、柚希の傍らに座った。
「でもその、あの……やっぱりごめんなさい。いつもはちゃんとつないで散歩してるんですけど、今日はあんまり天気がよくて……コウも少し走りたいようでしたし、周りに人もいなさそうだったんで、つい……」
「いいですよ本当に。そんなに謝らないでください。それより僕もちょっと……落ち込んでたから……コウのおかげで元気でましたから」
柚希の笑顔に、その女もつられて小さく笑った。
「でも……どうされたんですか、この傷……痛いですよね、きっと……」
女がそう言いながら、ハンカチを柚希の頬にそっと当てた。
慎重に慎重にハンカチを押し当てると、白いハンカチに血がついた。
彼女のその仕草に柚希は、再び赤面してうつむいた。
「ごめんなさい、痛かったですか」
「い、いえ……」
柚希が、恐る恐るその女に視線を移す。
腰の辺りまである長い髪が風になびく。
その髪の色に柚希は驚き、息を呑んだ。
銀色の美しい髪。
これまで漫画やアニメでは見たことがあったが、現実に見たのは初めてだった。
憂いを帯びた大きな瞳は、透明感のある美しいグレー。
薄く小さな唇は桜の花びらのような淡いピンクだった。
肌は透き通るように白い。
こんな片田舎の街に不似合いな、真紅のワンピース。
そして黒いブーツに黒い日傘を持ったその姿に柚希は、まるでお人形さんみたいな人だな、そう思った。
高貴な雰囲気が漂う容姿に、柚希の視線は釘付けになった。
「あ……あの、その……」
柚希の視線にとまどうように、女は視線を落とした。
女の言葉に我に帰った柚希は、慌てて視線を外した。
「あ、す、すいません……その、あの……あんまり綺麗なのでつい……」
柚希が、思ったことを無意識の内に口にしていた。
そして言ってしまった後で後悔と羞恥の念に襲われ、顔が真っ赤になった。
「え?え?」
次に女の顔が赤くなった。
両手を口に当て、今の言葉にどう反応したらいいのか分からない様子で、声にならない声を漏らす。
「あ、いやその……す、すいません」
「わ、わたっ、私……」
「いえ違うんです、あ、いや違わない、綺麗というのは本当です、じゃなしに僕が違うって言ってるのはそうじゃなくて」
「え?え?」
言葉にすればするほど彼女の顔は赤くなっていく。
弁明しようとすればするほど、また新たに墓穴を掘っていく。
静かな小川のほとりで、二人はそんなやりとりを続けた。
しばらくして、言葉が続かなくなった柚希がうなだれるようにその場で手をついた。
女はそんな柚希を怪訝そうに見つめながら、そっと柚希の頭に手を置いた。
「大丈夫……ですか?」
「いえ、その……すいません」
「謝らないでください、その……」
女は柚希に何か言おうとしたが、思いとどまるように口を閉じた。
「あの……何か僕に聞きたいこと……でしょうか」
その助け舟に少し安堵の表情を浮かべた女が、意を決して言った。
「すいません、もしよろしければその……お名前を……うかがっても……」
「あ……はい。僕は柚希、
「柚希さん……綺麗なお名前ですね。耳に響く音がとっても心地いいです。あの、よければ……柚希さんってお呼びしてもいいですか」
「は、はい。柚希でお願いします」
赤面して勢いよく頭を下げた柚希に、女はまた小さく笑った。
「柚希さん、私は紅音……
「いえそんな、こちらこそ……その……桐島さん」
「あの……柚希さんさえよろしければ、どうか私のことも紅音とお呼びいただけませんでしょうか。私もお名前でお呼びさせてもらってますし、その方が私も……少し嬉しいです」
頬を染めてそう言った紅音の言葉に、柚希は胸の鼓動を抑えられなくなっていた。
これまで同世代の女子と、ほとんど会話もしたことはなかった。
この街に越して来て、隣の家に住む同級生の
早苗は活発な子で、柚希の父からよろしくと頼まれたことに責任を感じ、色々と柚希に世話を焼いていた。
家族ぐるみの付き合いをしていく中で、早苗は自分を『小倉さん』ではなく『早苗』と呼ぶよう柚希に言った。
でないと私を呼んでるのか、お父さんを呼んでるのかお母さんを呼んでるのか分からない、そう言う理由だった。
早苗の勢いに押された格好で、彼女を『早苗ちゃん』と呼ぶことになんとか慣れてきた柚希だったが、今出会ったばかりの女性を名前で呼ぶのは、柚希にとってかなりハードルの高いことだった。
「あの……駄目……でしょうか……」
紅音が今にも泣き出しそうな声でそう言った。
その言葉に柚希は慌てた。
「いえ、駄目ではないです、あ……紅音……さん」
柚希の言葉に紅音の表情が明るくなった。胸の辺りで手を合わせ、
「嬉しい……ありがとうございます、柚希さん」
そう言って、満面の笑みを柚希に向けた。
(笑顔……可愛いな……)
紅音は、名前で呼んでもらったことが余程嬉しかったのか、柚希の傍らに座り込むと、柚希の顔をそのグレーの瞳でみつめながら、嬉しそうに言葉を続けた。
「柚希さん……は、この辺りの方ではないですよね」
「え?分かりますか」
「はい。私もここの人たちのこと、そんなに詳しくはないんですけど、でも……なんとなく、柚希さんはここの人たちとは少し違う……雰囲気を持ってますから」
「僕、一ヶ月ぐらい前に大阪から越してきたばかりなんです」
「そうだったんですか。じゃあまだこの辺りのこと、よくご存知ないですよね」
「はい。でもいい所ですよね、ここは。前に住んでた所は緑も少なくて、人ばっかり多かったから、ここの静けさ、優しい雰囲気はかなり気に入ってます」
「ありがとうございます、そんな風に褒めてもらうと、やっぱり嬉しいです」
「おかげで趣味の時間が増えてしまって」
「趣味……ですか」
「はい。僕、写真を撮るのが好きなんです。今日初めてここに来たんですけど、カメラを持ってきたらよかったなって」
「柚希さんの撮る写真……一度見てみたいです。きっと優しい写真なんでしょうね」
「あ……いえその……下手、ですよ……」
柚希が照れくさそうに頭をかいた。
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