あの事件の後、健は突然九州の故郷へ帰ってくると言って旅立っていった。もしかしたら、そのままこちらへ戻ってこないのではないかと思えてくるほどに彼の表情は重々しかった。


「大丈夫だ。嶽崎はちゃんと戻ってくるさ。そのときはちゃんの支えてやれ」


 そんな詩歌の不安に気付いたかのように尚隆が優しく頭を撫でながら言った。


  詩歌は振り返る。


「とはいっても、あいつにとって大切なものを失ったからな。支えは必要だろう」


「芦屋さん。あなたもだれか大切なものなくしたのですか?」


 何気なく尋ねると、尚隆はきょとんとした顔をする


「なぜ、そんなことをきく?」 


「なんとなくです。なんとなく、芦屋さんもそんなことがあったんじゃないかと思ったんです」


 そして、しばらく考え込んでいた。


「さあ、どうだろうな? 俺の記憶にはそういうことなかったが、記憶のない部分にはあるかもしれない」


「記憶のない部分?」


 詩歌は首を傾げる。


「言ってなかったか? 俺には幼い頃の記憶がない。唯一覚えていたのは、アシヤナオタカという名前だけだ」


「あっ、ごめんなさい」


「気にするな。俺もそんなに気にしているわけじゃない。……いや……」


「芦屋さん?」


「いや、気にしたほうがいいのか?」


 尚隆は神妙な面持ちでそうつぶやいた。


 その横顔は健よりもずっと不安定で彼のほうがよっぽど支えが必要なような気がしてならなかった。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る