幸せとは

和泉ほずみ/Waizumi Hozumi

幸せとは

 アンパンマンはなぜ、バイキンマンを殴ったのだろう。


 駅のホームで飲み終えたあとの空き缶を線路内にポイ捨てしたあの青年に、ぼくは己が拳を振るうだろうか。信号が赤に変わっても何食わぬ顔で横断歩道を渡り走行者にクラクションを鳴らされたあの若い女性を、ぼくはわざわざ足蹴にするために追いかけるだろうか。


 「正義」と「悪」は、仲良しだ。お互いがお互いのことをつよく求めている。ケンカするほど仲が良いという言葉は、善と悪のコミュニケーションの関係の様も的確に表現していると思う。

 アンパンマンは、バイキンマンを殴らないことには、アンパンマンとして存在できない。そうでないと、正義のヒーローという肩書きを誇示しつつその番組の主役を飾る、なんてことが叶わなくなる。

 バイキンマンだって、アンパンマンに“アンパンチ”をされることでバイキンマンを平穏に続役できる。

 正義は悪に依存しているし、対する悪だって、嬉々として正義に認識をされたがる。


 ぼくが……、


 あのとき、ポイ捨て男に正義のパンチをお見舞いしたなら、あのとき、交通ルール違反の女に超絶カッコいいキックをかましてやったなら、ぼくは晴れて正義の執行者として昇格を果たせたのかな。

 でも、それを誰が承認してくれるだろう。ぼくが正義を全うした事実を誰が詳細に知りうるだろう。それでぼくは、何か尊大なトロフィーや厳かな賞状なんてものを得られるのだろうか。



 「正義」と「悪」のフレンドシップ。なんだか「幸せ」と「不幸」の関係にも似ているような気がする。



『あなたの幸せは、誰かの不幸の上に成り立っている』



 って、誰かがよく言っているのを耳にする。ぼくはこれ、違うと思う。厳密に言うと、ちょっとだけの、違和感。

 「幸せ」が「不幸」を殴ることがある。また「不幸」が「幸せ」を蹴り飛ばすなんてことだって、やっぱり、ある。

 「幸せ」と「不幸」も大概はあいつらとおんなじで、いつも喧嘩ばかりしているんだけど、やっぱりあいつらとおんなじで、仲が良い。


 他人の不幸は蜜の味~なんて、みんなよくうたっているけれど、いくら赤の他人といえども、本当に深刻な不幸というのを冷淡に笑い飛ばせてしまう人間はなかなかいない。

 そんな本物の不幸に殴打されるのを恐れるあまり、みんな、各々がそれぞれの不幸のバリアを有している。なにかあったときに自衛できるように。「私だって辛いのよ」って言って“不幸の免罪符”をいつでも振りかざせるように。


 みんな怖いのだろう。ぼくだって怖い。


 涙が出るかというくらいに痛いと思った膝のすり傷があって、それをたまたま通りかかったやつに「そんなのたいしたことないだろ」のひと言で一蹴されてしまったら、きっとイヤな感じがする。でもふとそいつの身体に目をやったら、右腕がギプスで固定されてることに気がつく。

 彼の言葉の裏には「骨折に比べればすり傷くらい、なんだよ」というマウンティングの意図が含まれていたかもしれない。そうでなくても、そう聞こえてしまうことがどうしてもある。これがいわゆる“不幸の殴打”だ。すり傷というぼくのプチ不幸は、骨折という彼のビッグ不幸に太刀打ちできないんだ。それでぼくは記憶の中をまさぐったりなんかして、手持ちの“不幸免罪符”がなにかないだろうかと慌てはじめる。

 ……これ以上先を想像すると自己嫌悪しそうだ。あくまで例え話とはいえ、ちょっとおもしろくない。


 ぼくは、いや、ぼくらはみんな、他人の不幸せを知らないことには自らの幸福度数を相対視できないんだ。なんだか気持ちが悪い表現だけど、言ってしまえばそうなんだ。





 ぼくは今日、隣の3組の髙田のみぞおちをグーで殴った。それは2時間目と3時間目の間、20分休みに勃発した事件。それで、いま、居残りで反省文を書くのを課せられたところだ。職員室の手前に常設された机の上には、見慣れた原稿用紙が2枚。備え付けのはずの椅子は現在出張中のようで、仕方なくぼくは起立したまま机に前のめりに左手をついて、ヒマになった右手でペン回しに精を出す。カンチョー魔人の山内ならとっくに帰ったはずなので、ケツを突き出したこの体勢に不安はない。


 担任の新島先生はぼくに「なぜお友だちの嫌がることをしてしまったのか」の証明問題を命じ、この用紙最低1枚分の反省を書くことを居残り課題とした。

 ぼくを含めた2組の生徒たちは既に、今日の6時間目の「総合の時間」に「6年生になって成長したこと」の作文を書かされている。だからぼくだけ、ダブルパンチなんだ。まあ、これは単なるぼくの自業自得だけど。

 「居残りってことはVIP対応だな、お前一人だけ成長できるなんて羨ましい!」

 と、香川のヤツがいつものノリでイヤミを飛ばしてきたのでチンコに蹴りを入れてやろうとしたが、やっぱりやめた。「お友だちのチンコを蹴飛ばしてごめんなさい」だなんて反省文、誰が書いてやるもんか。



 えーっと、ところでぼく、なんで髙田のこと殴ったんだっけ?

 別にプレステのゲームじゃああるまいし、殴って怒らせたら画面の左上でピコンっつって『髙田を怒らせた!』のトロフィーを取得できたりするはずはないんだけど。


 とりあえず、テキトーに反省文を終わらせてしまって、早急に今日の19時までの塾の宿題に専念する必要がある。英単語テストだってパスしないと居残りになるんだ。一日に二回の居残り学習は健康にもよろしくない。

 たしかこういうのって、カレーの作り方なんかを書いて指定の文字数を乗り切るっていうのが悪ガキのセオリーなんだっけ。これは余談だけど、ぼくのカレー作りの腕前といったらピカイチだ。これを言ったら叱られるけど、うちの母さんの作る甘ったるいだけのカレーよりずっとコクがあってウマいって自負している。

 ……決めた。作文タイトルは「俺流カレーの作り方講座」にしよう。


 なんて、へらへらとおどけて寝ぼけたことを考えている間にも、頭のどこかでは今日のことをマジメに振り返っている。脳みそはおひとり様一点までしか備わっていないはずなのに、思考する対象としてのネタは気づかないうちに枝分かれして増えていく。それでいて絶え間なく労働していて、テストの最後の先生の「やめ!」の合図ですらコイツを止められないだろう。通信簿の備考欄にて「集中力散漫」のワードが皆勤賞を獲得しつつあるのを気に病むぼくとしてはそれが、少しばかり煩わしい。


 ぼくに唐突に殴られた髙田は、当たりどころが当たりどころだったために大仰に身悶えして、そのまましばらくうずくまってひと言も発さなかった。

 ぼくは20分休みの終了を告げるチャイムが聞こえたので、ボロ雑巾と化した彼を冷めた目で一瞥したのちに、踊り場をあとにして自分の教室に戻った。


 髙田は、ポイ捨てもしていなければ、信号無視だって犯していないはずなんだけど。

 ぼくの拳は一体、どんな正義を主張したがっていたっけ。ぼくの正義の、その大義名分というのは、あの時あの場でどう立証されたんだっけ。



 誰々の相対の不幸に頼ることなく、ぼくだけの独立した幸せを掴むことができたらいいな。大人になったらできるのかな?それとも、大人になったらますます難しくなってしまうのかも。


 ……なんて考えていた矢先、ぼく、さっそく生意気な髙田の野郎に「プチ不幸」のプレゼントをお見舞いしてしまったわけなんだな。なんだよいよいよ幸先がわるいじゃん。これじゃあ先行きが不安だよ。




 ──幸せとは……幸せとは、なんだろう。



 だれかの不幸をこわがって、しらんぷりをしているうちは見つけることの大変な真理として、幸せが定められているのだとぼくは思いました。




 俺流カレーの作り方講座の最終レッスンの項目は、比較的丁寧で読みやすい字で、こうやって締めくくっておいた。

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幸せとは 和泉ほずみ/Waizumi Hozumi @Sapelotte08

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