愛するポチに人権を!―肉体派悪役令嬢は柔よく剛を制し、想いをブチ貫きます―
綾坂キョウ
第一話 ピンチは突然に
1-1 イケメンを引っぱたいたら前世の記憶が戻った件
パンッ! と乾いた音が、あたりに響いた。右手のひらが痛い。目の前には、左の頬をもっと痛そうに赤くして、笑いながらこちらを見ている男がいた。銀髪に白い肌――かなりのイケメンだ。
(この人……誰だっけ)
ふと、そう思ったのは、頭の中に一気に情報が流れ込んできて、ショートしかけていたからだ。
お母さんが作ってくれる朝ごはんのトーストの味に、「いってきます」と玄関を出ていくお父さんの声、「寝坊したっ」て言いながらドタドタ階段を降りてくるお兄ちゃんの足音と、あたしがうっかりこぼしたパンくずを狙って、足元にやってくる黒いモフッとした毛皮。
――ポチってほんと、いっつもミナミの足元にいるのよね、と。そう笑う、お母さんの声。
「ジェン?」
頬を腫らしたイケメンが、ぎょっとしたように訊ねてくる。「え?」と訊き返す前に、頬を伝っていく大粒の涙に気がついた。
「……あたし……」
泣いている。そう気がつくと、涙はもっと勢いよく流れ続けた。
「ほら、これでも使え」
ばつが悪そうな顔をして、イケメンがハンカチを差し出してくる――けれど。あたしはそれを無視して、自分の右腕でぐいっと顔を拭った。上品とはかけ離れたふるまいに、イケメンがぎょっとした顔をする。
「ジェン――ジェンツィアナ?」
「……なんでもありません、皇子」
突き放すように、あたしはイケメンにそう告げた。イケメンこと、この国の皇子であるオルテンシァは不満そうに鼻をひくつかせると、小さく「悪かったな」と呟く。
「悪魔と悪名高いおまえが、あんな言葉ごときで傷つくとは思わなかった」
「……いいえ、感謝しますオルテンシァ皇子。おかげで、大切なことを思い出しました」
そうだ。とても大切なことを、今まで忘れていた。
このグリシーニャ国の左大臣であるカルドゥナ・プリマヴェニスの娘。それが、今のあたし。
――日本の埼玉県で、のほほんと令和の時代を生きていた佐良ミナミは、もうどこにもいない。
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