僕以外誰も乗っていない車両で
青水
僕以外誰も乗っていない車両で
僕がいつも乗っているA線は、あまり人気がない。よって、普段からかなり空いている。満員電車と呼ばれる状態になることはないし、座席に座れないこともめったにない。でも、車両に誰も乗ってないことはまずない。というより、お目にかかったことがない。今までに、一度も。
だから、今日、駅のホームで止まった電車に乗ったとき、僕はすごく驚いた。あれ、僕以外に誰も乗っていないじゃないか、と。
自分以外に誰も乗っていなければ、一般的に不適切と思われる行為をすることも可能だ。たとえば、大音量で歌を歌うとか、座席に寝転がるとか、地面をごろごろ転がるとか、服を脱いで全裸になるとか(それはさすがにまずい!)。
「ひっひっひ」僕は笑った。
歌ってやる、と僕は思った。大してうまくもない歌を、大音量で歌ってやるぞ。気分は大物歌手である。誰もいない電車の車両を、東京ドームか武道館と思い、何万人という大観客の前で熱唱するのだ。
僕は大きく息を吸い込んだ。そして歌いだす。歌うのは今はやっているJポップである。女性歌手の曲であるが、僕は男にしては声が高いので、原音キーで披露する。正直、あまりうまくはない。かといって、超がつくほどへたくそというわけでもない。中途半端だ。友人たちとカラオケに行って歌うと、うまいと褒められることなく、そして下手だといじられることもなく、ただ聞き流される。そんな感じだ。
曲のサビに入ると、どんどん気分が乗ってくる。歌い始めは躊躇いというか、恥ずかしさのようなものがあったが、今ではそんなものはどこかへ消えてしまった。曲をフルで歌いきる。歌い終わったとき、ほんの少し汗をかき、高揚感が体を包み込んだ。
「聞いてくれてどうもありがとう」僕は歌手気分で挨拶した。
「どういたしまして。なかなかよかったわよ」
「そうかな?」
「ええ、そうよ」
褒められるのは嬉しいな……って、え?
ちょ、ちょっと待ってくれ。僕の言葉に返答したのは、脳内で僕が作り出した観客――じゃあないぞ。女の子の落ち着いた声だった。
僕は焦り慌てて、声の主を探した。
「ここよ」
車両の隅っこで誰かが立ち上がった。
どうして、僕は彼女の存在に気づかなかったんだろう? 彼女はすらりと背が高く、モデルのような体型をした美少女だった。
「うっ……」僕は呻いた。
彼女は僕のほうへと歩き出しながら、パチパチと拍手をした。
「あなたの声、私とても好きだわ」彼女は言った。「もっとあなたの歌声を聞かせて」
「いや、あの……自分以外に人がいるとは思わなかったんです」僕は言い訳じみたことを言った。
彼女は制服を着ていた。僕と同じ高校である。なんということだ。恥ずかしい。今すぐ窓ガラスを突き破って、電車から脱出したい気分だ。
「私ね、隣の車両にいたのだけど……」彼女は指を差した。「あなたの歌声がほんの少しだけ聞こえてね、この車両に移ってきたわけ」
「なるほど」
「あら、あなた……」彼女はたった今気がついた、といった声音で言う。「同じ高校なのね」
「そうですね」
「何年生?」
「二年」
「あら、そう」彼女は言った。「同じ学年なのね」
大人びているので、三年生かと思った。同じ学年か。しかし、僕は彼女のことを知らなかった。彼女も僕のことを知らなかったようだが、それは別段不思議ではない。僕は派手な生徒ではないからね。でも、彼女は派手というか、華々しい美しさを持っている。僕が彼女のことを知らなかったのは不思議だ。それほどまでに、僕は他人に対して興味がないのだろうか?
「あなた、名前は?」
僕は名乗った。
「いい名前ね。私は――」
彼女は名乗った。
「いい名前だね」
僕も同じことを言った。でも、実際、彼女の名前は彼女のルックスにふさわしい、綺麗で美しい名前だった。
「あなたは何組?」
「一組。君は?」
「私は三組」
そう答えた後、彼女は白い手を僕に差し出してきた。
「これからよろしく」
「よろしく」
彼女と握手をしながら、これから彼女と親しくなるだろうか、と考えていた。特に親しくなるような要素はないような気がする。
「ねえ、もう一曲歌って」彼女は言った。
「え? いや、でもなあ……」
「お願い。観客は私だけなのよ。だから、いいでしょ?」
だから、いいでしょ、の意味がよくわからない。だけど、嫌だ、と拒否することができなかった。僕はミステリアスな雰囲気の彼女に魅了されつつあったのだ。
「わかったよ。何を歌えばいい?」
尋ねると、彼女は一〇年近く前のヒットソングをあげた。
「この曲、歌えるかしら?」
「うん、歌えるよ」
「そう。では、よろしく」
僕は彼女に見つめられながら歌った。座席に長い脚を組んで座った彼女は、淡く微笑んでいた。歌い終えると、彼女はもっと歌ってほしい、と頼んできた。
「曲は何でもいいわ。あなたの声をもっと聴かせて」
しかし、とある駅に到着すると、客が三人入ってきた。女子高生一人、サラリーマン一人、OL一人。なので、僕はそれ以上歌を披露することはできなかった。四人は観客としては多すぎるのだ。
僕は彼女の隣に腰を下ろした。
「連絡先、交換しましょう」
「いいよ」
そうして、僕たちは連絡先を交換して別れた。
その後、僕と彼女は二人でカラオケに行ったりすることとなる。やがて、交際するようになり、社会人になってから結婚する――。
でも、そのときは、彼女との関係が一生続くとは思ってもみなかった。電車の中で歌うことが、その後の人生に大きな影響を与えるとは夢にも思わない。
このお話の教訓は、一見大したことない出来事が、その後の人生に大きな影響を与えることがある、ということだ。
僕以外誰も乗っていない車両で 青水 @Aomizu
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