第三話 夏野修

 千冬が帰ったあと、一人ベッドに横なり天井を見つめていた。正確には今日あった出来事があまりに多すぎて処理がしきれずに呆然と天井を見上げていた。玄関でガチャガチャと音が鳴り、誰かが帰ってきたのがわかった。たぶん母さんだろうと思い、起き上がる。どうやって、ましてや何を聞こうか考えていたけど、答えが見つからず部屋を出た。

 母さんはキッチンで買ってきた食材の整理をしていた。流し台の上には、ジャガイモ、タマネギ、ニンジン。いつもは今日の晩御飯はカレーかな、なんて考えて終わるところだ。しかし今日は違う。晩御飯以上に考えるべきことがある。

「母さん、小学校のときの話なんだけど」

「今忙しいからあとにしてくれる」僕の質問は遮られた。

 晩御飯の準備で忙しそうな母親を見ていると、自分の聞こうとしていることが重要な問題なのか判らなくなってくる。晩御飯と、小学生のときの記憶。必要性という意味でいうと、母さんの邪魔をしないのが正解かもしれない。

 父さんが帰ってきて、背広を脱いでダイニングチェアーに掛ける。テーブルの上を見て「今日はカレーか」と嬉しそうな声を出した。父さんはカレーが大好物だった。

父さんは早々に二杯目をおかわりしにキッチンへ向かった。いつもなら父さんよりも早くおかわりをするところ、まだ一杯目の半分を食べたところで手が止まっていた。食事の最中もずっと今日のことを考えていた。千冬から言われた記憶のことだ。僕の異変に気付いて母さんが心配そうに言った。

「春人、食欲ないの?」

 それを聞いた父さんが冗談めかして続けた。

「父さんが全部食べちゃうぞ」

「さっきお菓子食べてあんまりお腹すいてないんだ」とっさに嘘をついた。

「珍しいわねぇ」母さんは言った。

「恋煩いじゃないのか?」ニヤニヤしながら父さんは言った。

 明らかに茶化そうとする父さんを無視するように、さっき見つけた写真について聞いてみることにした。

「小学生のときの写真なんだけど」そう言ったあと、手元に写真が無いことに気が付いて部屋からアルバムを取ってくる。

「この写真なんだけど」

 テーブルにアルバムを広げてみせた。父さんはいくつか写真を眺めてはページを捲っていった。柊さんとのツーショット写真以降は子供五人の写真ばかりが収められていた。僕と柊さん、他は知らない子供たちだ。

「懐かしいなあ」父さんは言った。

「父さんはこれ撮ったときのこと覚えてる?」

「どうだったかな。母さん覚えてるか?」

 父さんは思い出すことを諦めて母さんに尋ねた。さっき言った懐かしいとは何だったのか。

「写真はいつも父さんが撮ってたでしょ。お父さんが覚えてないなら私も知りませんよ」

 そう言って母さんは食べ終わった食器を持ってキッチンへ行った。素っ気ない反応を見る限り覚えてないらしい。

「だそうだ」

 まるでそれが夫婦の結論かのように父さんは言った。諦めきれずに別の質問をする。

「この一緒に写っている子たちは?」

 父さんは少し悩んで、母さんに聞こうとしてやめた。また同じ返事をされるだけだ。

「覚えてないなあ。この子たちと仲良かったのか?」

 それが知りたいんだ。その言葉を飲み込んだ。結局、アルバムの写真については何一つ分からず仕舞いだった。


 翌朝、教室へ行くと野中が口を大きく開け、一点を見つめ固まっていた。

またふざけているのかと思い、席に着く前に肩を叩く。それでも野中の顔は変わらない。野中の視線の先を見た。

 僕はたぶん野中と同じ顔をしていたと思う。

 無残に切られた髪は綺麗に整えられていて、薄っすらとメイクをした千冬がいた。   

 昨日とはまったく違う姿に僕や他の男子が驚いて眺めることしかできなかった。

 僕の視線に気づくと、あっけらかんと言った。

「ちょっと切りすぎちゃってさ。似合う?」

 短くなった髪の毛を自分ですくい上げて得意げな顔をした。

 驚きのあまり言葉が出ずに、ただ頭を上下に振るしかできなかった。

「なにそれ。こういうときは嘘でも褒め言葉を言わないとダメだよ?」

 千冬は文句を言いつつも、まんざらではない表情だ。

 星野先生が教室へ入ってきた後も、教室のざわめきは収まらなかった。

「なんだ。何かあったのか」

 教室内の異変に気付いた星野先生の問いかけに誰も反応しなかった。相変わらず抑揚のない先生の言葉に教室は静まり返った。

「それじゃあ教科書五ページを開いて」

 教室中で慌てて教科書を開く音がした。

 星野先生はいくつか化学の基礎的な話をしたあとに万有引力について説明していた。ニュートンとリンゴが出てくるあの話だ。

「この話の中で一番重要な部分がなんだか分かるか?」

 クラスメイトたちは近くの席の人と顔を見合わせるだけで発言する人はいなかった。

「橘春人」

いきなり指名されたことに驚きながらも、どうにかそれらしい回答をする。

「重力を発見したことですか?」

 星野先生は正解とも不正解とも告げずに話を続ける。

「ニュートンのリンゴの話はウケを狙った作り話だ。ただし、この話には大切な意味が含まれている。多くの人にとっては当たり前のことでも見方によっては重要な発見があるということだ」

 星野先生が言い終わった直後にチャイムが鳴った。先生は教材を持ち、すぐに教室から出て行った。


 授業が終わって休み時間に入ると千冬の席の周りは人で溢れていた。大半がクラスの女子で、話題は千冬の見た目の変化についてだった。どこで髪を切っただとか、どこの化粧品を使っているのだとかそういった話だ。挙句の果てには整形をしたのか聞いた人もいた。

 昨日の今日で整形とは馬鹿らしいとは思いながらも、顔の一部、いや何部か変わったように見えてしまうのは確かだった。昨日部屋で話した女の子はどこかに消え去ってしまっていて、別人が隣の席にいるような感覚を抱いていた。

「そういえばさ、何か思い出した?」内緒話をするように千冬は僕に耳打ちした。

 どうやら昨日のことは夢ではなかったらしい。

「特に何も思い出してないよ」

「なんだ。つまんないの」

 千冬は不貞腐れながら次の授業の準備をはじめた。


 授業が終わって帰ろうとする僕に星野先生が話しかけてきた。

「橘。確か生田小学校だったろ」

「そうですけど」

「同じクラスの夏野修。しばらく学校休むって連絡があって、プリント渡さないといけないんだ。悪いんだけど届けてくれるか?」

 僕の返事を待たずにプリントと住所の書いたメモ書きを渡された。

「何で僕が?」

「夏野も同じ小学校だっただろ? 昔からのよしみっていうことでさ、頼むよ」

 先生は勘違いしてるのだろうか。夏野と同じ小学校ではなかった。

「はーると君。何してるの?」

 千冬が肩を叩いてきた。バッグを持っているところを見ると今から帰るところのようだ。

「いや、先生が夏野に届け物をしろって」そう言って渡されたプリントを見せる。

 僕が断ろうとしているところ千冬は先生に言った。

「了解しました! 行ってまいります」ご丁寧に敬礼のポーズまでついていた。

「そうか。じゃあよろしく。ついでに様子を見てきてくれるか」

 先生の追加の注文に千冬はコクリコクリと二回頷いた。

「ほら行くよ」

 千冬はそう言って僕の腕を引っ張り下駄箱の方に歩いていこうとする。千冬の手を振り解いた。

「ちょっと待って、なんで引き受けちゃったの?」

「ちょうどいいからに決まってるでしょ」

「ちょうどいい? 何が?」

「夏野修君、昨日の写真に写っていた男の子だよ」


 昨日と同じように千冬と帰り道を歩いていた。昨日と違うところは家に帰る前に寄る場所があるということだ。僕たちは夏野の家に向かって歩いていた。

「今何考えてるか当ててみようか?」

 すぐに返事をすることができなかった。頭の中は多くの疑問で埋め尽くされていたからだ。

「夏野君のことでしょ」

 そのとおりだ。記憶に無い写真の一人がクラスメイトにいる。

「一つ言っておくね。余計悩んじゃうかもしれないけど、あの写真の中の人たちは全員同じクラスメイトだよ。夏野修なつのおさむ秋山紗江子あきやまさえこ四季大輔しきだいすけ、柊千冬、それに橘春人」

 千冬はそう言って僕を指さした。

 あの写真の子供たちが同じクラスにいる。ただでさえ解消しきれない疑問に、新たな疑問が舞い込んできた。

「なんで君はそんなことを知っているの?」

「思い出したから。私も最近まで、最近というより始業式の朝かな。ずっと忘れていたけど、なぜかふと思い出したんだよね」さも不思議そうに千冬は言った。

「何を思い出したの?」

「伝わるかはわからないんだけど、始業式の前の夜に夢をみたの。写真のみんなと一緒に公園で遊んでいたり、近くの川に行ったり。春人君の家も出てきたりしてさ。昔から小学校の頃を思い出せないことが多くて少し気になってたんだよね。パズルのピースが欠けた感じっていうのかな。けどそのパズルの完成図が分からないから、何が抜けてるかも分からない、みたいな?」

 そう言われれると、僕自身も昔同じような感覚を持っていたことを思い出した。運動会や学芸会など、大きな出来事があった事実はぼんやりと思い出せるけれど、そのときに自分が何していたかは全くといっていいほど覚えていなかった。その違和感は次第に薄れて、今では気にも留めていなかった。

「けど夢の中でみんなの名前を思い出したの。クラスは違うけど同じ学年だから名前は知ってたし。そしたらホントにみんなクラスにいてホント驚いたよ。まさか忘れていた小学校の友達全員が同じクラスになるなんて」千冬はなぜだか楽しそうだ。

「それなら昨日言えばよかったじゃないか。私以外にも忘れている友達が同じクラスにいるって」

「そんなこと言えると思う? 私一人ですら忘れてる人に」

 千冬の言う通りだ。昨日の時点でそんなことを言われたら頭はパンクしていたに違いない。ほんの少し昨日よりマシになった今日ですらこんな有様だ。

「それに、私自身もその夢が本当にあった出来事か考える必要があったし」

「考えた結果それは正しかったの?」

「正しいんだと思う。でも百パーセントじゃないから確かめたくて」

 先生から伝えられた住所には、周辺の一般的な住宅には似つかわしくないほどの大きなマンションが建っていた。

 入口からエントランスまで真っ白い石の床が敷かれていて美術品を思わせる重厚な扉は、庶民はお断りと言われているよう気さえ感じた。

「すごいキレイだね!」

 千冬は中を見回しながら驚きと興奮の入り混じった声をあげた。

 メモに書かれていた部屋番号を入力して呼び出しボタンを押す。しばらくして応答があった。

「はい」

 聞こえてきた返事は、明らかに不機嫌そうな声をしていた。

「生田高校三年一組の橘ですが、夏野修君のお宅でしょうか?」

「そうですけど?」

「担任の星野先生からプリントを届けるよう言われまして」

「なら郵便ボックスに入れておいて」

 辺りを見ると、すぐ近くに宅配用のボックスがあった。

 おそらく相手は夏野本人だろうと思った。反応から察するに会うことは難しいだろう。そう考えて返事をしようとしたとき、千冬が割って入ってきた。

「同じクラスの柊千冬です! 先生から直接渡して来いって頼まれたんで開けてもらえますか?」

 夏野からの応答が無くなり、エントランスの扉が自動で開いた。入っていいということなのだろう。千冬は何故か得意げな顔をしてきた。

 白と黒を基調とした直線的なデザインのエントランスは、入り口に負けないほどに高級そうな雰囲気を漂わせていた。

 千冬はエントランスを見て回ろうとしたけれど、それをたしなめた。僕たちは家の見学にきたわけではない。

 夏野の家のドアの前に着いてインターフォンを押す。すぐにドアが開いて夏野が顔を覗かせた。

夏野の顔を見た瞬間、昔から知っている人を見たような懐かしさを感じた。今まで顔を見たことはあったけれどこんな風に感じたのは初めてだった。

「プリントは?」夏野は気怠そうに言った。

 持っていたプリントを夏野に渡す。

「それじゃ」そう言って夏野はドアを閉じようとしたが、千冬が体を入れてドアが閉じるのを防いだ。

「夏野君だよね? 私たちのこと覚えてる?」

「橘と柊だろ」

 同じ学年でクラス数もそこまで多くないのだから名前くらいは知っていて当然だ。

「そうじゃなくて、私たち同じ小学校だったんだよ。しかも、すっごーい仲良しだったの!」

 夏野は怪訝そうな顔で僕と千冬を交互に見た。すごい仲が良かったかどうかはまだわかっていないはずだ。千冬は大げさに言って引き止めたいのだろう。

「勘違いじゃないか」そう言って扉を閉めようとする。

「じゃあさ、小学校のときの卒業アルバム見せてくれない?」

 食い下がる千冬を押しのけて夏野はドアを閉めた。

「ケチー!」

 ドアの向こうに夏野がいるにも関わらず大きな声で文句を言った。

 マンションから出るあいだも千冬は文句ばかり言っていた。なんでそんなにそっけない態度なのかとか、どうして部屋に入れてくれないだとか、そういった内容だった。普通は大して知らない人間を家に入れたりはしないし、いきなりおかしなことを言う同級生ならなおさらだった。

 マンションを出て家に帰ろうとしたときに、意外な人物と鉢合わせした。

「なんでハルちゃんがここにいるんだ?」

 野中は不思議そうに僕を見た。

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