第二話 記憶にない写真
僕はからかわれているのだろうか。多少うろ覚えではあるものの小学校の同級生の顔は覚えている。けれどその中に千冬はいない。
「もし仮にチフユ、の話が本当だとして証拠はあるの?」
「そう! だからそのために、ここに来ました!」
千冬はマジシャンが種明かしをするかのように、大仰に手を広げた。
千冬の後ろには見慣れた家があった。見飽きたと言った方が正しい。僕の家だ。会話に夢中になっていて自分の家の前まで来ていたことに気が付かなかった。
「証拠が見たいでしょ? あるじゃない。うってつけのが」肘で僕の脇腹を小突く。
「もったいぶらないで教えてくれない?」
「アルバム。小学校の卒業アルバムを見たらハッキリするでしょ?」
「卒業アルバムに千冬が載ってるってこと?」
「――たぶん」
「自分のアルバムで確認したんじゃないの?」
「――してない。失くしちゃって」
失くした、と言ったとき千冬は一瞬寂しそうな顔をした。急にしおらしい反応をされたので、失くした理由を問いただす気にはなれなかった。
玄関の鍵を開けて、玄関に入り靴を脱ぐ。千冬も靴を脱ごうとしていた。
「それじゃあ探してくるからちょっと待ってて」
「入っちゃ駄目?」
千冬はわざとらしく甘えたような声を出した。
「駄目じゃないけど――」
僕の返事に、待ってましたと言わんばかりに勢いよく上がり込むと、トントンと階段を昇って行った。
「先部屋に行ってるね。紅茶でいいよー」上る途中に振り向いて飲み物の注文までしていった。
千冬と離れて一人になったことは僕にとっても都合が良かった。少し頭の中を整理したいと思っていたところだ。千冬が隣にいたらそれは叶わない。
リビングのソファーに鞄を投げ置き、キッチンへと入る。
千冬の言っていたことが全て正しかったとして、どうして僕だけ記憶を無くしているのだろうか。どうして今まで言ってこなかったのか。それ以外にも聞きたいことは山ほどある。そもそも、彼女の話が正しいと仮定すること自体がおかしな話だ。
気がつくと目の前のお盆にはマグカップに入った紅茶が乗せられていた。別のことを考えながらも、注文はこなしていたらしい。自分の変な真面目さに苦笑しながら二階へと向かった。
自分の部屋に入ると、ガラスのローテーブルに向かうように千冬は座っていた。
紅茶をテーブルの上に置くと「ティーカップじゃないんだ」と千冬は不満そうな顔をした。
「僕が部屋で飲むときはいつもそうだけど」
「私もそうだけど、お客さんが来たときにはちゃんとするよ?」
いつから客人になったのか。いきなり上がり込んだ人間とは思えないほどの図々しさだ。
「ティーカップで飲まないと、どんなにいい紅茶でも味気なく感じちゃうんだよね。紅茶のようなもの、みたいな」
「そんなに文句があるなら飲まなくていいよ」
千冬からのカップを奪うフリをして、彼女がそれを避けるフリをする。
「いえいえ。せっかくなのでいただきますよ」大事そうにカップを抱え、フーフーと息を吹きかけ冷ましながら一口飲む
「あ、美味しい」
千冬は座りながら部屋中を眺めていた。初めて来た場所を嗅ぎ回る猫のようだった。
「何か珍しい物でもあった?」
「春人君って星が好きなんだね」
窓側には望遠鏡が置かれ、本棚には天体、星座など星に関する本が並んでいる。
「ちょっとこれ覗いてみていい?」
千冬は望遠鏡を指差す。不適な笑みを浮かべ、僕はいいよと返事をする。
千冬は望遠鏡の前にある椅子に座り、中を覗き込む。しばらく座る位置や望遠鏡の角度を変えながら調整していた。
「春人君、これボヤッとしてて見えないんだけど」
「この部屋からはどうやっても見えないよ」
千冬は覗き込むのをやめて視線を窓の外へと移した。
窓の外の風景は巨大なマンションによって覆われていた。淡いブルーの壁面は、見ようによっては空の色と間違えなくもない。
「その望遠鏡は中学一年生のときにクリスマスプレゼントでもらったんだ。もらってすぐにマンションが建ってから、結局見れたのは少しだけだったけど」
「あっちの窓に移せばよかったじゃない」黙っていた僕を責めているような口調だった。
「移動するのが面倒になっちゃって。それって結構重たいしさ」
とっさに嘘をついた。移動するのが面倒、というところではなく、それよりももっと根本のところだ。クリスマスに望遠鏡をもらったとき、両親がなぜプレゼントに望遠鏡を選んだのか不思議でしょうがなかった。そのとき天体に興味がなかったからだ。それでもそのプレゼントをもらったときに文句を言うことはなかった。子供の好きなものを勘違いしていたことを知って喜ぶ親はいないだろうと思ったからだ。その出来事があってからも家族の中では天体が好きということになっていた。あいにくというか、おあつらえむきというか、僕の部屋には天体関係の本がたくさんあったので、その嘘がバレることはなかった。ただ一つ問題があるとすれば、僕自身がその本を買ってもらった記憶がないということだ。
「ふーん」そう言って千冬は、また何も見えることのない望遠鏡の中を覗き込んでいた。「それで、何か思い出した?」望遠鏡を覗いたまま千冬は僕に質問をする。
「何かって?」
素早く僕の方に顔を向け、はぁ、と溜め息をついた。呆れた目でこちらを見る。
「私たちのこと」
「いや、全く」
「少しも?」
「少しも」
淡々と答えてはいるけれど嘘ではない。まったく記憶にないのだ。
千冬はさっきより大きな溜め息をついた。そして少しの沈黙があった。
「もし仮にさ、私たちは昔友達だったとするじゃない?」
「仮の話なの?」
「仮じゃあないけど仮の話。そして、その記憶を春人君は失っています。だとしたら思い出したい?」
千冬の声がどこか震えていたように感じた。
「そりゃあね。記憶は無いよりはあったほうがいいでしょ」
即答した僕の答えがあまりに短絡的すぎたのか、千冬はブッと吹き出した。
「よしっ、じゃあアルバムを見てみよう」何かに区切りをつけるように千冬は自分の膝をポンと叩いた。
僕は今になってアルバムを確認することに少し恐ろしさを感じた。もし僕の小学生の卒業アルバムに千冬が載っていたとすると、なぜ千冬の記憶を失ったのかという疑問が残る。逆に千冬が載っていなかった場合、千冬が妄想しているという新たな問題が生まれる。どちらかというと後者の問題のほうが危険だった。妄想している狂人と部屋で二人きりのほうが、自分が記憶をなくしているより遥かに恐ろしい。
どちらにしても問題は解決しない。今のままではラチが空かないのはわかっていた。気後れしていたけれど、ここは千冬の提案にのることにした。
いざアルバムを確認しようにも、どこにしまったのか場所を忘れてしまっていた。
「ちょっと探すから待ってて」
手始めに本棚のあたりを調べ始めた。日ごろ目につく場所だから無いことはわかってはいたけど念のためだ。
後ろの方でガサガサと音がした。音の主は千冬だった。千冬は勝手にクローゼットを漁っていた。
慌てて千冬とクローゼットの間に体を入れて止めに入る。
「ちょっと、何してるの」
「アルバムを探してるんでしょ」
僕越しにクローゼットを覗き見ようとする千冬をバスケットのデイフェンスのように体で防いだ。
「僕がやるから座ってて」
千冬は不貞腐れたように元いた場所に座り直した。
なんとなく部屋の中を探してみたけれどアルバム見つからなかった。そもそも僕の部屋にあるのかどうかも怪しかった。少なくとも自分の部屋にしまった記憶はない。家族の写真と一緒に保管しているかもしれない。そう思って部屋を出ようとした。念のために釘を刺す。
「勝手に探さないでね」
「わかってまーす」千冬は笑って手をヒラヒラとさせた。
二階の自分の部屋から階段を下りて和室に行った。家族の写真はほとんどがこの部屋の押し入れにしまわれていた。埃の被った古いアルバムを取り出し、いくつかページを捲る。父親と母親の若いときの写真だった。旅行のときの写真だろうか、色々な背景の両親のツーショット写真が収められていた。別のアルバムは両親の結婚式の写真と、生まれてから三才くらいまでの僕の写真だった。初めて見る写真で、つい見入ってしまう。
ふと当初の目的を思い出し、小学校の卒業アルバムを探したけれど見つからなかった。卒業アルバム探しは諦めて、まだ確認していない家族のアルバムを開く。小学生くらいの男の子が二人写っている写真があった。僕の家をバックに二人の少年が笑顔でピースをしていた。一人は自分だとわかった。もう一人の男の子は誰だろう。
更にページをめくると、新たに男の子一人と女の子二人が加わり、写真の子供は五人になっていた。それも一枚だけではない。それから数ページは、撮っている場所は違うけれど、その五人の写真ばかりだった。
僕の背中に冷たい汗が伝った。五人の中の一人は自分で間違いない。昔の僕が、僕の全く知らない子供たちと、仲良さげに笑顔で写真に写っているのだ。写真の中の自分が、まるで自分ではない別の何かに見えてきた。
千冬の話はあながち間違いではないのかもしれない。気味の悪さを感じながら自分の部屋へと戻った。
部屋の扉を開けると、千冬が必死に机の引き出しを開けようとしていた。勝手に部屋の中を探していたのがバレて、気まずそうな顔をする。僕が何から話そうか悩んでいると、注意されないことを不思議に思ったのか「どうしたの?」と聞いてきた。
アルバムを見せて、一緒に写っている子供たちのことを全く覚えていないと伝える。
「春人君、本当に覚えてないの? 私たちよく遊んでたでしょ?」
「この子たちのこと知ってるの?」
「そっかー。本当に覚えてないんだ」千冬はそう言ってアルバムのページを捲る。
「あ! これ」
千冬の指の先には一枚の写真があった。その写真には小学生の僕と一人の女の子が写っていた。さっき見た知らない女の子の内の一人だ。最初に見たときは気が動転して気が付かなかったけれど、よく見るとその女の子は幼い千冬のようだった。
「ほらね! 言ったとおりでしょ?」
どうだ、と言わんばかりの得意げな顔をしている。
これで一つの問題は解消された。千冬の言っていることは正しかった。
そして新たな問題が生まれた。そしてその問題は今までの四倍、いやそれ以上に膨れ上がった。僕が忘れているのは千冬だけではなく、千冬を含めた四人との記憶だったからだ。
「だから言ったじゃない」
千冬は本当に楽しそうだった。僕の反応を見てもあっけらかんとしている。
千冬はおもむろにバックを抱え立ち上がった。自分の記憶が正しかったことが証明されて用事が無くなったのか「それじゃあ、私帰るね」そう言って部屋を出ようとした。
ふとアルバムを見ると、二人の写真がなくなっていた。
「写真は?」とっさに聞いた。
「記念にもらっておくね」そう言って見せびらかすように、手に持った写真をヒラヒラとさせた。
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