働き過ぎにはご注意を

とものけい

働き過ぎにはご注意を

「人間以外への感染は初、か」


 幸太郎がリビングのテレビを点けると朝のニュースは流行中の新型ウイルスの話題で持ちきりだった。

 まだ寝ぐせのついた頭をポリポリとかく。


 テレビに映っていたのはサバンナのだだっ広い草原。そこに集まる報道カメラマンやレポーター、白衣を着た科学者や銃を持った屈強なレンジャーたちだった。


 その中心にはキリンが一頭。

 心細く前足で体を覆うかのようにして、ぷかぷかとのだった。


 『研究者によると、今回のウイルス感染が発見されたのは、キリンがもともと睡眠時間の短い草食動物であったためとされ――』


スタジオのキャスターが伝えている。


 ウイングウイルス。毎日の様にテレビの話題の中心になっているこのウイルスは最近ではそう呼ばれ始めている。

 このウイングウイルスに感染すると死に至る、なんてことは決してない。

 高熱を出すわけでも、酷い下痢を起こすわけでも、はたまた咳が止まらないなんてこともない。

 研究の結果わかったことはひとつ。

 ウイングウイルスに感染した状態で二十四時間以上睡眠をとらなければ、宙に浮く。ただそれだけだ。


 個体差はあるが、浮くのは地表から50cm~2mほど。時間にしておおよそ24時間。

 昨年の今頃、アジア諸国で発症が次々に確認された。


 当初、このウイルスはおおいに世間を騒がせた。

 しかしその症状から、次第に危険視されることはなくなり、今では最も熱心に興味を注いでいるのは科学者たちである。

 この反重力効果を解明できれば人類のテクノロジーは飛躍的に前進するとかなんとか。


 しかし、日本国内で初めての感染が確認されたときはメディアもかなりの危機感を示して取り上げたものだった。

 もしも生まれて間もない乳児に感染したら?体力のない老人に感染したら?

 そんな不安な声もあがった。

 しかし、そんなものは杞憂だった。

 乳児や老人が二十四時間以上も睡眠をとらないなんてことはまずないのだから。


 では、ウイングウイルスで一番影響を受けたのは誰か。


「ん、いててて。ちょっと寝すぎたかな」


 今、テレビの前で大きく伸びをした幸太郎の様なサラリーマンである。


 彼がシステムエンジニアとして勤める職場は、以前は日を跨ぐ長時間の残業も少なくない、所謂、ブラック企業なんて呼ばれる会社であった。

 サービス残業なんてあたりまえ、システムの納品前には会社に泊まり込んでの作業が何日も続いたものだった。


 ウイングウイルスが流行するにつれて、彼の職場のような企業では感染者が頻繁に確認され、それがそのまま「不眠不休で働かされる様な悪環境の職場なのでは?」という世間からのイメージにつながったのだ。

 ウイルスのせいで物理的に働けなくなったというよりは、労基法が守れているかの監査対象として厳しくチェックが入るようになった。

 こうして人体にも特に実害を及ぼすわけでもないウイルスは職場環境の改善というところで大きく貢献することとなったのだった。

 その不思議な現象に対して、「厚生労働省が放ったウイルスなのでは?」とか「働き過ぎの我々を見かねた神さまからの贈り物」なんて声が世間からあがった。


「せっかく半休がとれたんだし、どっかで買いものでもしてこうかな」


 例に漏れず、彼の職場もその神さまの贈り物を授かった。

 半年ほど前、社内で立て続けに感染者が確認され、聞きつけたメディアが殺到した。

 また、間髪入れずに厚労省から大掛かりな監も入った。

 幸太郎はウイルスには感染しなかったが、しばらくはそれらの対応と少なくなった人手でのプロジェクトの進行に忙殺された。

 しかし、それも一段落すると返ってきた日常はこれまでと一変したものだった。

 こうして平日の朝をゆっくり過ごすなど以前は考えられなかったものだ。


 突然、テレビでざわめき声がした。


『えっ、何ですかそれ⁉』


 スタジオのアナウンサーが慌ただしくしている。

 映像が先ほどのサバンナのキリンへと切り替わった。先ほどと違うのは、そのキリンは地面に座り込んでいるということ。


「これ、ライブの映像だったのか」


 幸太郎もテレビの映像へと目を向ける。

 呆気にとられた様子のキリンだったが、ピクリと動き出すと立ち上がり、周囲の人々の静止も振り払いそのまま駆け去ってしまった。


『今、入ってきた情報をお伝えします』


 画面に「速報」の文字が入ると、アナウンサーの声が続いた。


『現地の研究チームによると、感染が確認されていたキリンへ水分摂取のため点滴を試みたところ、注射針を刺した瞬間にパンという音がし、キリンの浮遊症状が治まったとの事です。キリンはすぐに逃走してしまったため症状の経過は不明ですが、即効性のある治療法として大きな手がかりと――』


 幸太郎はもうテレビを見ていない。

 またやってくるかもしれない忙しい毎日に備えて今日の半休は出来る限りゆっくり過ごそう、ぼんやりとそんなことを考えていた。

 テレビではコメンテーターの男性が話している。


『つまり、ウイングウイルスではなくバルーンウイルスだったわけだ』


 テレビに映るのはどこまでも広く続くサバンナの地。

 遠くに微かに捉えたキリンの姿もどんどん小さくなっていく。

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