妙な話 芥川龍之介

ノエル

良心の呵責が視せた幻影――異空間への入り口に立つ赤帽の正体

わたくし村上千枝子は、どうしたものか、幼いころから、駅が好きで、よく兄にせがんで中央停車場に連れて行ってもらったものでございました。なぜそんなところへ行きたがったのかと申しますと、駅というところは、どこかへつながる異空間への入り口のような気がしていたからでございます。

そして、その異空間につながるステンショには必ず赤帽がいます。その赤帽がわたくしは好きだったのでございます。なんと申しましょうか、そのおずおずとした佇まいと独特なへりくだりを見せる振る舞いが楽しかったのでございます。

兄は、ちっともそんなことには気づかず、わたくしが駅の雰囲気そのものを好んでいるのだとばかり思っていたようでございます。駅というところは、ご存じのように色々なものを各地から届けに参るところ。そこがわくわくして楽しいのでございます。

その意味で、赤帽は駅にとって、なくてはならない存在なのでございます。チッキで送るのも、人を見送るのも、荷物を受け取るのもすべて駅が、いや、赤帽が取り仕切っているのでございます。もちろん、それは言葉の綾で、実際には駅員さんがおり、車掌さんがおり、切符切りの駅員さんがいたり、さまざまの職種をお持ちの乗客さんたちが出入りするのは幼心にも存じておりました。

とにもかくにも、そのようなわけで、わたくしは駅、いや、赤帽が大好きだったのでございます。その姿を見れば、何かを届けてくれるのではないかしら、何かいい知らせを言付けてくれるのではないかしら、と心騒ぐのでございます。

実を申しますと、兄の親友であったあの方とは、いまの主人と一緒になる前にふとしたことから、ずっと親しくさせていただいており、兄には内緒で、逢瀬を交わした仲でもあったのでございます。もちろん、身も心もという不穏な関係ではありませんでしたが、それでも心惹かれる思いもあったことは事実でございます。


  ◇◇◇


わたくしが佐世保へ行くこととなった、一週間ほど前のこと。夫が地中海方面に派遣されて留守の間、兄のところに逗留しているわたくしにあの方から、わたくしが佐世保へ行ってしまう前にせめてもう一度だけでも会いたい、最後になるかもしれない別れの挨拶をしたいというあの方の文をもらい、心揺れながら駅へ急いだのでございます。

生憎、その約束の日は雨でございました。兄や義姉が日を変えてはどうかと言うのも聞かず、わたくしは鎌倉の友人と会う約束を果たすのだとの一点張りで家を出ました。この雨の降りしきる中、駅で待つあの方のことを思うと、切なくて、停車場へ行くまでに涙が雨に濡れるのも構わずに歩きました。

ところが、どうしたことか、泊まるのも覚悟していたわたくしの心になにか異変が起きたのでございます。見えるはずのない海が神保町を走る電車の中から見え、水平線の手前の波が動くのさえ、しっかりと見定められるのでございます。

このあとのことは、読者のみなさまもよくご存じのように、どこからか、あの赤帽が現れて、わたくしの行く手を阻むのでございます。もちろん、強制的にではありません。夫のことをわたくしに訊ねることで、わたくしを思い留まらせたのでございましょう。

わたくしは、雨の降りしきるその場から引き返し、駅から家まで濡れ鼠で帰宅したのでございます。そのおかげでわたくしは風邪をひき、高熱に浮かされました。

兄嫁などの話によりますと、わたくしは「あなた、堪忍してください」などとうわごとばかりを言っていたようです。


  ◇◇◇


いまから思えば、あの時、わたくしは、芥川龍之介の『芋粥』に出てくる狐のことを思いだしていたのでございます。その狐は、遠く離れた大名の屋敷に行き、お館様が難渋していることを伝え、その危機を救うのでございますが、それとまったく同じように、わたくしの代わりにその赤帽が夫にわたくしの実情を伝えてくれたのでございます。

そんなことが、二度目のお誘いを受けたあとにもありました。これには、さすがのわたくしも、思いはあるものの、別れの文をしたため、あの方にお出ししたのでございます。

いまにして思えば、魔がさしたと申すのでございましょうか、あの赤帽は夫の化身で、わたくしの良心の片割れでもあったのでございましょう。

おかげさまで、わたくしはその後も息災で、兄とあの方との間柄も良好で、駅が好きでよかったと、いまさらながら赤帽の存在に感謝しているのでございます。

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