9-2:逃亡劇の顛末

 次の日、日の出前のほんのりと明るくなった頃に目が覚めた。

 男達の声は聞こえない。

 喉の渇きを覚えた私は、すぐに小川に向かった。そしてそのまま助けを呼びに戻ろうとして思いとどまる。

 彼も喉が渇いて辛いかもしれない。水を届けないと。

 危険だとかそういう考えがなかったのは、おそらく疲れきって思考が回っていなかったからだと思う。昨日と同じように水筒に水を汲み、あの部屋に戻った。


 物置部屋は昨日と同じように、ちゃんと鍵がかかったままだった。

 中に入れば、やはり同じく彼が横になっている。近づくと彼は肘をつきながら、なんとか少しだけ体を起こした。


「来てくれた……」

「違うの、ごめんなさい。まだ助けを呼べてない。男達がいて、館から離れられなかったのよ」


 言いながら水筒の水を飲ませる。


「でも今はいないみたい。寝ちゃったのかも。だから今の内に呼んでくるわ。もう少しだけ待っていてくれる?」

「うん……」


 心細そうな彼は、私の袖をぎゅっと引いた。


「ねえ。君の名前は……? 僕はハルっていうんだ。ハル・キタシラカワ……」

「私は……イリナ。イリナ・アドラーよ」


 トワ・グレイ公爵令嬢の名前を出さなかったのは、公爵家の娘が関わったことが知られたときのリスクを考えたからだったかもしれないし、他の理由もあったかもしれない。

 ともかく私はそう名乗った。


「よかったら、これ。もし食べられそうなら食べて」


 リュックから長期保存のきく甘い焼き菓子を取り出す。昨日から彼は何も食べていないはずだ。


「無理はしないでね。ここに置いておくから」

「イリナはいらないの?」

「そんなにお腹空いてないから。他に欲しいものはある? 助けを呼んだとき、一緒に持っていくようお願いしてみる!」


 彼を励ます意味も込めて訊いたのだが、返ってきたのは意外な言葉だった。


「欲しいもの……願いごとのこと? それなら攫ってほしい。君に」


 よほど心細かったのだと思う。当然だ。攫われて毒を盛られ、視界も効かない状態で縋れる相手が私だけなのだから。


「こんな場所、いたくない……こんな苦しいだけの体、いらない……」

「そ、そんなこと言わないで! 必ず助かるわ!」

「君は温かい……イリナ……一緒にいて」


 私は彼の手をぎゅっと握った。

 攫えるなら攫ってあげたい、と思った。

 これが三流じゃなくて一流の逃亡劇で、私に彼を救える力があれば、一緒に連れて逃げてあげたのに。


 彼が頼っているのは、ただ目の前にいる何者でもない「イリナ」だ。彼は私を王女の影武者として心強いと褒めてくる大人でも、王女の友人に選ばれた令嬢だからと媚びや怯えを見せてくる他の貴族の子女達でもない。

 私の後ろに王女の姿を見ていない。

 彼はきっと、私をただ今ここにいる「イリナ」としてだけ頼ってくれるし、感謝してくれるだろう。


 どうせ誰かのために苦労するなら、この子のためでもいいじゃない。


「大丈夫、ここに怖いものはいないから」


 励まして立ち上がる。


「すぐに戻ってくるからね」

「君ともっと話がしたい……イリナ」


 彼は起こしていた体をまた床に横たえ、天井に顔を向けたまま私に話しかけた。


「いいわ。うん、約束。元気になったあなたと、たくさんお喋りするんだから!」


 そう言って私は物置部屋を後にした。もちろん扉には鍵をかけて。




 結局、あのあと私は彼の元には戻れなかった。

 当然と言えば当然だ。

 攫われた子供がいると大人達に報告し、助けを呼ぶまでは予定通りだった。でも賊のたむろする場所に一緒に乗り込むには私は幼過ぎる。

 哀れな子供を見つけたことは褒められたけど、無茶したことは怒られた。


 その後の顛末は後になって知った。当時の私は、子供だからと関わらせてもらえなかったのだ。


 男達は秘密裏に捕縛された。ハルはキタシラカワ家の領地に運ばれて、そこで見つかった形になるよう偽装されたらしい。


 当時、コラクで見つかったとなると、ややこしい問題に発展する恐れがあったからだ。

 彼がティシュア帝国の伯爵家の子息であったこと、攫ったのがよりによってコラク公国のごろつきだったこと、見つかった場所がコラク王家の直轄地だったこと、当時のティシュアとの関係が少し微妙なものだったことなど、様々な要因が重なっていた。


 保護された直後のハルと大人達のやりとりで、彼が攫われてからのことを夢か何かのように曖昧にしか把握していない様子だったのも、理由の一つ。彼がこの調子なら誤魔化せると踏んだという。


 彼ともう一度話す約束は、果たされないままだった。

 でも助かった彼が事件当時のことを忘れているのなら、果たされなくてよかったことなのだ。私はちょっと寂しかったけど。


 私が自力であのときの顛末を調べ、さらには現在のハルの近況を秘密裏に探れるくらい力をつけるのには、四年かかった。それは同時に、ただの子供から王女の側仕え兼影武者として、グレイ公爵夫妻にも王家にも信用された大人になるまでの期間でもある。


 ただの子供でなくなるまでの四年間も、その後の五年間も、あの廃墟で私をイリナと呼んで頼ってくれたハルとのことは、どこか特別な出来事としていつも私の心の隅にあった。

 でも今さら別に、現在のハルと会って何かしたいなんてことはない。ただ遠くからその身の安全が確認できていればいい。


 ――それがまさか九年経ってから再会して、こんなにも距離を深めてしまうなんて思ってなかった。


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