6-2:待ち合わせ
「何も起きてはいませんわ」
「え?」
「何も起きなかったのです。それはこの講堂にいる皆さんが証人です。私と彼は世間話をしていただけ。それがすべてです。……そうでしょう、皆さん?」
講堂中の者に問いかけるように声を張る。
自分を人の上に立つ王族の一員だとイメージするのだ。コラク公国第二王女の影武者として、何度かこうして人前で喋ったことがある。そのときと同じ。
駆け寄ってきたそうなノアにも、騒がないよう牽制するような視線を向けておく。
「だ、だけど、それでいいの? あなた、彼のせいで――」
「彼には私を害そうという気はありませんでした。ですよね?」
言いがかりをつけてきた男性を見れば、こくこくと必死に頷かれた。
「余計なことを話されることを、私は望みません。ここにいる皆で、入学試練の最終日まで無事に何事もなく過ごしましょう」
一度ぐるりと周囲を見回してから、一言。
「では、私はこれで」
振り返ることなく、まっすぐ講堂を後にする。追いかけてきてごちゃごちゃいう者はいない。一応、うまくいったようだ。
一人になってようやく冷静にさっきのことを振り返られる。
風が助けてくれた……。
皆の前では平然として見せたけど、あんなことが起きたのは私にとっても初めてだ。
これまで何度か不自然に風が吹いた経験はある。精霊を疑ったことも。
だけどそれは「そよ風がちょっと吹いた」くらいで、気のせいともとれる程度だったのだ。
あんなに強い風に守られたことはない。ここがセイレン島なのも関係しているのだろうか。
後でハルかノアに聞いてみようと考えつつ、私は宿舎の自室に戻る。
時計を見れば昼食の時間がそろそろだ。でも食堂に行って、先ほどの件で話しかけられたら面倒だ。ロベルト達にプレッシャーをかける以外のことで妙な注目は浴びたくない。
そういえば、昨日ハルからの差し入れだと貰った果物と焼き菓子があった。それで昼食は済まそう。ハルに感謝だ。
と思ったけど、絡まれた理由もハル絡みだったので、やっぱり感謝は半分くらいにしておく。
彼は予想より強く、一部の研究学校生から敵意を向けられているらしい。
先ほど私に言いがかりをつけてきた男性。彼はハルに関して「皆が疑っている」と言っていた。だいぶ知られた話だと言わんばかりの口調だった。
だけど入学試練は昨日からで、入学試練生達の間にセイレン研究学校生の話が出回るには早すぎる。なのにあの語り口調は、あまりに自信がありすぎた。
彼が言った「皆」はきっと在校生達のこと。
あのとき、壁際に立っていた研究学校生の男女が、私に話しかける青年を妙に真剣な目で見ていた。二人は船の中でジェニファー・エーブルと一緒のテーブルにいた生徒だ。
おそらく彼らがけしかけたのだと思う。昨日の馬車の中の生徒のように、在校生の中では常識だという感じで吹き込んだ。
あのテーブルにいた者達は、ジェニファーとロベルトの二人にかなり肩入れしていた。それはつまり、ハル・キタシラカワを嫌っているということでもある。
私はロベルトと知り合いのくせしてハルの方と懇意にしている。しかも名誉島民生用のコートを特別に貸し出され、今年の入学試練生の間では特別な存在に映っている。
気に入らないと判断されるのには十分だ。他人をけしかけるのはやりすぎだけど。
「独断かしら、それとも……」
自然と独り言がこぼれてしまった。
二人を思った友人達の勝手な行動なのか、それとも裏でジェニファーがけしかけたのか。
ロベルトに関しては、私から受け取りたいものがあることだし、少なくとも今はまだ仕掛けてこないと思うけど……。
深く考え込みそうになったとき、不意に部屋の扉が叩かれた。続けて「タマキですわ。イリナ、いらっしゃる?」と声がする。
「どうぞ。鍵は空いているわ」
「失礼しますわ――って、何かしらこれ」
扉を開けたタマキがしゃがみ込む。
「入り口に、こんなものが落ちていましたわよ」
渡されたのは白い封筒だった。表に「イリナ・アドラー様」とだけ書かれていて、差出人の名前はない。
誰かが置いていったもののようだ。考えに耽っていて、人が来たのに気付かなかった。
タマキに椅子を薦めようとしていると、彼女は言いにくそうに口を開いた。
「先ほどの講堂の件ですけど、大丈夫でしたの?」
「何がです?」
「怪我はなかったのかということです!」
叫ぶようにタマキが問いかけてくる。
「大丈夫です。先ほどの件は『なかった』ことにしてくださるとありがたいですわ」
「あなたがそう言うのでしたら、そうしますけれど。ああ、椅子は結構です」
彼女はそわそわと落ち着かない。
「な、何もなかったのならいいのですわ。ただわたくしは、それを確認しにきただけですから!」
それだけ言って帰ってしまう。
昨日とは逆に、私のほうが彼女の言動でぽかんとしてしまった。
もしかして心配して様子を見に来てくれた? ……見た目のキツさで誤解しがちだけど、結構心配性な人なのかもしれない。
昼過ぎ、他の入学試練生達が午後の散策に繰り出し始めるタイミングと少しずらして、私も外に出た。
宿泊施設のロビーに置いてあった花瓶から花を一本抜き取る。他にも数人、同じように散策に行く入学試練生達がいた。
互いに挨拶だけ交わし、門を出ると各々ばらけていく。示し合わせたわけじゃないけど、誰も同じ方向には進もうとしない。
入学試練が終わる日までにリボンを見つければ合格。他人と一緒に行動していては発見したときに気まずい思いをするからだろう。少々ひねくれた見方をすると、自分のリボンを他人に拾われては困ると考えているのかもしれない。
建物の周囲は半分は森に囲まれており、残り半分は草原が広がっているらしい。
門を出て塀沿いに左手に進む。周囲は森だ。人の手が入っているので歩き回るのには問題ない。
途中、散策中らしき入学試練生の姿を数人見かけた。
二百人もの入学試練生がいて、午前中の出席率を考えれば、そのほとんどが散策に出ているはずだ。もっと姿を見てもよさそうなものだけど人気はあまりない。
人工物から離れたほうが精霊が多くいそうな気がするから、皆森の奥に行きがちなのかも。
そんな推測をしながら、適当な場所に持ってきた花を置いた。
手ぶらになっても進み続け、塀が曲がる箇所、東の監視塔と呼ばれる塔の辺りに差し掛かる。斜め前のほうに他の木とは雰囲気の違う古い立派な木があった。
私は迷わずそこに向かう。大きな木の幹の向こう側にいるのは――。
「ロベルト」
約束の相手だ。
「イリナ! お待ちしていました」
待ち合わせをしていたのは彼、ロベルト・ヴィークだ。
場所は彼から示されたもの。
歌劇を見た次の日に彼に出した手紙への返事に、入学試練二日目の午後にここで会いたいと書かれていた。
「ごめんなさい。遅くなってしまったかしら」
「いいえ。待つのも楽しいものです」
優しげに首を振る彼は、今この瞬間だけ切り取れば、ただの穏やかで素敵な印象の男性だ。
「午前中、講堂ではあなたを助けられなくてすみませんでした。本当はすぐに駈け寄りたかったのですが、他の者の目がある場ではどうしても……」
「わかっていますわ」
「あなたは風を操る精霊に好かれているんですね。知りませんでした。その……それは予言を与える精霊王の力なんですか?」
私は曖昧に笑って誤魔化した。
予言を与える精霊王。
個人ではなくコラク公国の王家と契約した精霊王のことは、伝承としては伝わっている。王家の血筋に特に気に入った者が現れたときだけ、気まぐれに宣託を与えると。
だけどその精霊王が第二王女ユリアを選んでいることは、ロベルトにはまだ伝えていない。そのことを彼はすっかり忘れている。
「ロベルト、約束のものは……」
「もちろん持ってきましたよ! あなたからの大切な贈り物を返してしまうのは偲びないのですが――」
彼が手にしているのは、小ぶりの綺麗な布の包みだった。
無地のうすい水色に、やはり薄い紫色の細いリボン。
なんとなく意外な趣味だと思った。彼はもっとわかりやすく煌びやかなものを好みそうな気が勝手にしていたから。
「私は王家の秘宝より、思い出の品を手元に置きたくて……」
「わかっていますよ。精霊王が託したものは、本当ならあなたのような繊細でか弱い女性には重すぎる。無理をする必要はありません。私が引き受けましょう」
「……ふふ」
ユリアのパブリックイメージは、政治に興味がなく引きこもりがちな平凡な王女。王女から彼への手紙もイメージを壊さない範囲のものにされていたはずだ。彼もそれを信じている。
だけどもし手紙を本気で読み込んでいたら、目の前の
……なんて、恨みがましい気持ちが湧きそうになる。
自分を押さえるように、胸元に手を当てる。服の下には、コラク王家の紋章が刻まれたペンダントトップがあった。
「『鳥は風を愛し、風は鳥を慈しむ』」
ロベルトは一瞬「ん?」と意味がわからない顔をする。
「ええと、もしかして詩の一節ですか? あなたは詩がお好きですものね」
「……ええ」
「そうやって好きに詩を詠むだけでいい、心安らかな日々をあなたに与えたいものです」
ロベルトは、もじもじしながら切り出した。
「それで、その。あなたは『鏡』を持っているのですよね。それがあなたの平穏を脅かしている」
「やはり『鏡』のことを知っておられるのね」
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