10-4:ハル・キタシラカワ
執務室でハルが暴走しかけたのを止めた後、結局ノアがなんとか医者を呼んできてくれた。
校長は完全に怯えてしまい話にならなかった。医者によると典型的な精霊の力にあてられた状態だそうで、しばらく静養が必要とのことだ。
彼の不調の原因は当然だけど隠される。セイレンに待機していた副校長が急遽呼び寄せられ、残りの期間、代理として入学試練を監督することになった。
セイレン神殿に戻ったら、私達三人は関係者への詳しい報告をすることになるだろう。ハルが簡単に事情を説明したところ、ここにいる者の手には負えないと保留にされてしまったのだ。
これも当然か。精霊が人間として学生をやっていて、その精霊と校長が揉めたなんて話、いきなり言われてすぐ解決する事態じゃない。
午後の残りを私はベッドで過ごした。体調を崩したというより疲れのためだ。
執務室が夜の闇に包まれ、雪山のような寒さに襲われたとき、それでも一応私とノアは無事なように力を調整されていたらしい。それでも、心身にかなりの負担を受けた。ノアも同じ状態らしく、強制的に休まされたようだ。
ようやく私はベッドから抜け出せたのは、本当の夜になってからだった。
身支度を整えて机に向かっていると、扉をノックする音が聞こえる。
「どうぞ。開いているわ」
入ってきたのは、ハルだった。
「どうしたの、こんな時間に。もうすぐ消灯時間でしょ」
「こっそり忍びこんできた。午後はずっと部屋で休んでいたようだから、お腹が空いたんじゃないかと思って」
そう言うハルは、クッキーやらパンやらが入ったバスケットと、コーヒーポッドとカップの乗ったトレイを手にしている。
ノアはおらず、彼一人のようだ。
「ありがとう。食堂で何かもらえないか、ダメ元で聞きに行こうとしていたところだったの」
食べ物と飲み物を机の上に広げると、彼は当然のようにもう一つある椅子に座った。
「もう中に入れてもらえないかもって思った」
「どうしてよ」
「僕のせいで君は命を狙われたから……」
しょんぼりと肩を落とす彼に、私はちょうど書き終わったばかりのカードを渡す。
彼は受け取りながらも怪訝そうに訊ねてくる。
「これがどういう意味かはわかっているんだよね?」
「今日で六日目。明日渡せば七日目ね」
彼からの七日間の贈り物は済んでいる。途中から私から彼への贈り物が意図せず開始されていて、もうすぐ規定の日数を満たす。
つまり「七日間の契約」が成立するのだ。
明日、私がカードを渡すか渡さないかで決まる。
「最初、騙して契約を結ぼうとしていたわね」
「精霊に人間の理屈は通じない。気に入ったと思った対象がいると、衝動を抑えられない」
「とか言う割に、最後まで隠し通す気もなかったじゃない。私にくれていたヒントは、そういう意味でしょう?」
「勝手なことをしたら、君は怒って二度と振り向いてくれなくなるタイプに見えたから。最初はそれでも繋がりさえできればいいと考えたけど、だんだんそれは嫌だと思えてきたんだ……」
私が西の監視塔から突き落とされた夜も、カードを貰わなくていいから隣の部屋に移りたいなんて言っていた。
「いくつか聞いてもいいかしら」
「どうぞ」
「あなたは精霊王と呼ばれる存在なの?」
昼間に校長が口走っていたけど、はっきりと確認はしていない。
「人にそう言われる存在だね。でも、僕は生まれたばかりだから力は大してないよ。存在してからの年数は、ハル・キタシラカワの年齢とほとんど同じ」
「精霊にも生まれたてとかあるんだ」
「もちろんあるよ。死ぬこともある」
「ああ、そうね。それは知ってる」
なら生まれたてもありえるか。
「僕は、人間だったハル・キタシラカワと立場を交代する少し前からしか存在していない。意識を持ってすぐにあの少年に会い、君に会った。若すぎるのか、あまり大きな力はまだ使えない」
大きな力はまだ使えない?
昼間のことを思うと、もう十分すぎるくらい力はあると思う。彼の基準はわからない。
「人の立場を貰うとき、元の人間の体も半分使わせてもらう。その肝心の体が毒に侵されていて、あのときは本当に死にそうな思いをした」
「苦しそうなのは演技じゃなかったのね」
「人よりは死ににくい体ではあるけど、苦しさは変わらないよ」
あのとき部屋でぐったりしていた彼の姿も、彼の辛いという言葉も嘘じゃなかった。
なら、私が彼を励まし助けようとしたことも、意味のないことではなかった。
「初めに興味を惹かれたのは死にそうな子供だったんだ。そうしたら君が来て助けようとしてくれた。様子を見ていたら、君は部屋に鍵をかけて出て行った。死にかけの子供は本当に苦しそうで……だから聞いたんだ。精霊になりたいかってね」
「彼と話せたのね」
「うん。彼の立場をくれたら代わりに精霊にしてやると言って、彼は頷いた」
「あの子、明るいところに連れてってって私に言ってたわ」
「彼は自由を得て明るい場所へ行けたよ。喜んでた」
それを聞いてほっとする。
精霊が取り換え子を持ちかけるのは死ぬ間際の子供だ。私が一度目に部屋を出て、戻ってくるまでにハルとのやりとりがあったなら、私がどんなに急いで助けを呼びに行っても間に合わなかった。
私は人間のハルは助けられなかった。
でも彼は最後に、明るいところに自力で行けるようになっていたのだ。目の前にいる精霊のほうのハルのおかげで。
「君と僕とで彼を助けたんだ」
まるで私の思考を呼んだかのように、ハルが告げる。
「そう、かしら」
「そうだよ。君が彼に優しくしたから、彼は僕の申し出に耳を傾けたんだろう。あの魂は、きっと風のように自由になった」
「風……」
繰り返す私に、ハルは何も言わずに微笑むだけだ。もしかしてという私の想像に気付いているだろうけど、否定しない。
そうだったのか。
彼のために私も少しは何かできていたのなら、よかった。長年胸のなかにあったつかえが、少し取れた気がする。
「ただ逆に、僕はとても窮屈で自由のない体になってしまった。人間であることが、こんなにやりづらいものとは予想外だったよ。生まれたてなせいか、人間社会のこともよくわかっていなかったし」
「人になってみたかったとかではないの?」
「ただ苦しそうな子供と心配する君が気になって、それで……こうなっていた」
「後悔は……」
「してない。君に会えたから」
まったく何の迷いもなく否定されてしまった。
「最初の出会いでは毒のせいで体は弱ってたし、僕の力も足りないせいで君のことを見失ってしまった。だけどこうして再会できたし、君との時間は楽しい。人として生き続けてよかったな」
「……校長と仮の契約をしたのはいつから?」
「二年前だ。入学試練を受けたときに彼が僕の正体に勘づいたんだ。力の強い精霊が人と混じって存在するには、誰かとの契約がいる。そうしないと周囲の人間に悪い影響を与えてしまう」
精霊の力の影響は、これ以上なく実感している。
セイレンの街に戻った入学試練生の数は、百名近くになったと聞いた。合わない体質だと、精霊の意思に関係なくあてられてしまう。
「生まれたてだったおかげか、最初は大丈夫だったんだよ。でも、そろそろ厳しくなっていたところで彼に契約を持ちかけられた。僕にもちょうどよかったんだ。だから、本命の相手を見つけるまでという約束で仮契約を結んだ」
「でも彼は、その仮契約をずっと続けたかったのね」
「このセイレンで、あんな風に僕の存在を、僕の承諾なしに利用されるとは思わなかったな。完全に読み違いだ。ロベルト達といい……どこにいても油断できない人間はいるんだね。セイレンという場を少々信じすぎてたようだ」
たしかに、セイレンは精霊への敬意を大切にしていて当然の場所だ。少なくとも他の場所よりその意識は高いと思う。
自分を裏切ったときの怖さをわかっているハルだからこそ、余計に読み違ってしまったのだろう。
だけど、どこにだって欲にとりつかれる人はいる。
私だって、自分の欲のためにここに来た人間だ。
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