9-3「代役」

「もう一度わたしが体験した出来事を振り返ってみましょう。あの日、家族に黙って家を出たわたしは、暗い路地でハンマーキラーの襲撃に遭いました。そのわたしがハンマーキラーの被害者となることを免れたのは、そこに居合わせた女性がわたしを助けてくれたからでした」


 恐るべき連続殺人犯と、わたしを助けてくれた命の恩人――わたしは二人の女性の顔をかわるがわる思い浮かべながら、あの日あったであろうことについて語る。


「……長らくわたしは雪乃さんが助けてくれたものだと考えていましたが、実際はで、金槌を持って襲いかかってきたのが雪乃さんで、わたしを突き飛ばして命を救ってくれた女性は別の人間だったんです」


「だが、殺されたのは雪乃の方だ。その点についてはどう考える?」


。つまり、わたしに代わって雪乃さんと対峙することになった女性が、雪乃さんともみ合いになった末に、奪い取った金槌で逆に雪乃さんを殴り殺してしまったんです」


「返り討ちの殺人、か」


 秋田川さんがこれ以上ないくらいに苦々しい表情で言ったので、わたしは曖昧なうなずきを返した。


 雪乃さんの全身に激しい打撃痕が残っていたことを考えれば、返り討ちどころではない状況だ。おそらくわたしの命の恩人は、雪乃さんと争ううちにほとんどパニック状態になってしまったのだと思う。


「……何にしても、中途で事件現場から逃げ去ったわたしにはことの顛末がどうなったかを知る術はありませんでした。そのため、翌日のニュースでハンマーキラーの新たな犠牲者として報道された女性のことを命の恩人だと誤認してしまったんです」


「顔を見る間もなかったのか?」


「見たんですよ。一瞬でしたけど、はっきりと。


「だからこそ事実を取り違えた? どういうことだ?」


「ニュース番組で使われた雪乃さんの写真は、働いていたお店から提供されたものだったようで、事件現場で見たときとはかなり印象が違っていました。ただ、


 だから写真と実物のギャップだと思った。実際には写真の人物と命の恩人は別人だった。ただし、


「わたしを助けてくれた女性。雪乃さんに似た顔立ちをしていた女性。当時はまだ髪も黒くて、今よりもずっと雪乃さんに似ていた女性。自分の罪だけでなく、雪乃さんの罪をも隠し通すために、三年もの間ずっと凶器を隠し持っていた女性――」


 わたしは膝を落として、黒田さんの口に貼られたクラフトテープを剥がした。前にも思ったことだが、顔立ち自体は沢本妹の娘と結構似ている。それはつまり、より近い血縁関係にある雪乃さんとも似ていた可能性が高いことを示唆していた。


「あの日わたしを助けてくれたのは、あなただったんですね?」


 わたしの命の恩人であり、大切な友達の仇でもある女性は、ゆっくりと首を縦に振った。悔恨。諦め。困憊。そして、覚悟。静かな動きの中には、様々な思いが込められているようだった。


「おそらくですが、事件現場に居合わせたのも偶然でなかったのでは?」


 わたしが再び尋ねると、黒田さんはひび割れた声で「そうよ」と言った。


「あの忌まわしい出来事があった日の少し前に、妹のマンションを訪ねていったことがあるのよ。遥のためにもそろそろまともな仕事に就いたらどうかって話をするために。日中もなかなかつかまらないし、仕事が休みの日の夜を狙って行ったら、ちょうど部屋着のまま外出しようとしたところで、私が用件を言うより先にすごい剣幕で怒鳴ってきたのよ。そのときは引き下がるしかなかったけど、明らかに様子がおかしくて、それで――」


 黒田さんはけほっと軽い咳をしてから「妹を見張ることにしたのよ」と続けた。


「その結果が返り討ちの殺人か。むごい話だな」


 秋田川さんが力なく言った。その声にはもう、雪乃さんを殺した黒田さんや雪乃さんを見殺しにしたわたしへの憎しみは感じられなかった。


「わからないのは動機だ。なんで雪乃はあんな馬鹿なマネをしたんだ」


「なにがスイッチとなったのか、決定的な理由はわかりません。ただ、。ちょっと失礼します」


 わたしは階段室のところまで行って、壁にかけてあったバッグを取って来る。


「秋田川さんは、わたしたちが育てていたサボテンが元々は雪乃さんの育てていたものだということを知っていましたか」


「あいつの研究テーマは土喰いの無害化だったんだ。遥が言わずともすぐにわかったさ」


「では、雪乃さんが亡くなる少し前まで、土喰いのさらなる有害化に取り組んでいたことについてはどうですか?」


「……あれは遥のオリジナルじゃなかったのか?」


「元々は雪乃さんの研究――いいえ、復讐計画だったんですよ。雪乃さんが亡くなった後に、実の娘である沢本が引き継いだんです」


 沢本の復讐計画の狙いはそもそもの計画とは少し違うものだったが、今ここでそのことについて語る必要はないだろう。あれはこの胸にしまっておくべき話だ。


 わたしはバッグの中から雪乃さんの動機に迫る証拠品――『Opuntia Mars 亜種の生育と交配についての備忘録』の最後のページを開いてみせる。


 ――あと二、三年品種改悪を続ければ土喰いは強い耐水性を得るだろう。しかし、このタイミングで私はこの復讐計画を凍結することに決めた。こんなことをしても意味はない、もっと他にやるべきことがあったということに今さらながら気がついたからだ。いや、そうではない。ずっと前から気づいてはいたのだ。品種改悪がうまくいく見通しが立ったことで、ようやく自分自身と向き合える覚悟ができたのだろう。

 とは言え、この意味なき品種改悪、この無駄としか言いようのない回り道に、少しも心が躍らなかったと言えば嘘になる。学生時代に寝食を忘れて研究に没頭していた時期と同じか、あるいはそれ以上の高揚があったことは否定できないだろう。

 私はこの復讐計画を卒業するけれど、私の高揚の記録としてこの備忘録を残しておくことにする。さようなら、また会う日まで。


 20XX年6月某日 沢本雪乃――


「わたしははじめこの文章を、復讐計画との決別だととらえました。しかし、よく読めば全く別の解釈もできるということに気づきます」


 ――こんな田舎だからさ。あたしだって、お母さんの仕事のことであれこれ言われるのはしょっちゅうだったけど、本人はもっと辛かったと思うんだよね。


 ――旦那が死んだ後で復学しなかったのも、やりたくもない夜の仕事で生計を立てることになったのも、全て遥が産まれてきたせいだ。遥がいなければ、雪乃の人生はもっと輝かしいものだったはずだ。


 わたしは想像する。失われた未来と果たすべき役割との間で引き裂かれ続けた故人の苦悩を。そして語る。故人が苦悩に果てに至った結論を。


「すなわち――有害なサボテンを市内にばらまくという当初の計画を捨て、であると」


 ずさりと何かが落ちる音がした。秋田川さんが地面に膝をついたのだ。


「雪乃……お前はどうして……そんな……」


 わたしは雪乃さんの親友の前を通り過ぎて、黒田さんに声を掛ける。


「あなたも知っての通り、今話したようなことをわたしよりも早く辿り着いた人物がいます。沢本です」


 沢本が死ぬ前の日、別れ際に妙な顔をした理由も今はわかる。あのとき沢本は涙で崩れた自分の化粧を見て、後のわたしと同じ違和感を抱いたのだ。そして、一人で違和感の正体に気づき、一人で真実に辿り着き、結果、黒田さんに殺されてしまった。


 そのことについて考えるとき、わたしはどうしても沢本に対して憤りに似た感情を抱いてしまう。何故そのときに話してくれなかったのか。わたしにこれから先、何年、何十年掛かっても良いからハンマーキラーを探し出して欲しいと言ったのは嘘だったのか、と。


「沢本はあなたにどんな話をしたんですか?」


「過ぎたことについては誰にも何も言うつもりはない。だからもう、自分に干渉しないでくれ、と」


 黒田さんが目を伏せて言った答えは、わたしがきっとそうなのだろうと思っていたことだった。


「たったそれだけ? 自首を求めるわけでもなく? なのに殺したのか?」


 秋田川さんが唖然として言うと、黒田さんは耐え難い痛みに苛まれる病人のように顔を歪めた。


「信じられるわけがなかった。私はあの子の母親を殺したんですもの。今はこんなことを言っていても、いつか必ず私を糾弾しようとする。私がこれまで積み上げてきたものは結局全て無駄になる。だから私は遥の提案に応じるふりをして――」


 わたしには沢本の要求が本心から出たものだということも、決して心変わりしないであろうこともわかる。しかし、黒田さんは沢本を信じることができなかった。何より沢本が本質的には人を信じやすい性格だったことが最悪の事態に繋がってしまったのだろう。


「ちなみに殺害現場はここではありませんね?」


 しばらくしてわたしが尋ねると、黒田さんが答えるよりも先に秋田川さんが「は? そうなのか?」と声を上げた。


「ええ。。後ろから持ち上げて、有無を言わさず柵の外に放り投げました。その後でここにあの子の靴を置いて、自殺に見せかけたんです」


 警察はまんまと黒田さんの事後工作に引っかかったというわけだ。もっともその工作は、沢本が自殺するはずがないという前提に立つなら全くの逆効果だった。


 沢本が屋上から突き落とされたとするなら、靴が残っているはずがないのだ。直前に脱がしたというのは無理があるし、突き落とした後で靴を持ってきたとするなら、沢本は裸足で屋上に来たのかという話になる。


 事件現場は屋上ではなく四階の沢本の部屋だ。その結論に至れば、容疑者はかなり絞り込まれる。いくら沢本でも、よく知らない人物と交渉するのに自分の部屋を選ぶことはないだろう。その人物の罪を交渉材料にするならなおさらだ。


「わたしから説明できることは以上です。秋田川さん、そろそろ」


 少し強めに言うと、秋田川さんはすっと立ち上がって「ああ。わかってる」と応じた。半ば投げやり、半ば吹っ切れたような態度だった。


 秋田川さんが警察に連絡する間、わたしは顔を伏せたままの黒田さんの頭部を静かに見下ろしていた。


 強いストレスを受け続けると、髪が真っ白になってしまうことがあるという。おそらく黒田さんは自分がしでかしたことに対する罪の意識にずっと苦しんでいたのだと思う。


 ――逃げなさい!


 わたしは運命の夜に、黒田さんがあげた声を思い出す。元々正義感の強い人だったのだろう。だからこそ、雪乃さんを殺害した後も、沢本に対して独善的な干渉を繰り返したのだ。正しくあるために、自分が正しい側にいることを確かめるために――。


「すぐ来るってさ」


「ありがとうございます」


 わたしは囁くように言って、夜空に浮かぶ半分だけの月を見上げた。

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