第七章「摘芯」
7-1「塗装美術家」
「痛い痛い痛い痛い!」
「ちょっと深山! 動かないでよ! 目に指が入ったらどーすんのよ!」
「べらぼうに痛いんだよ! 何なんだよその鬼マッサージは! リトルリーグでやってた柔軟体操だってここまで辛くはなかったぞ!」
秋深まる十月の日曜日。わたしと沢本は、街の小さな化粧品店でギャーギャーと騒ぎ立てていた。
「いいからおとなしくしなさい!」
沢本は逃げ出そうとするわたしを無理矢理ドレッサーチェアに座らせると、再び十本の指を顔に押し当ててくる。
「小顔を! つくるには!」
みりり。わたしの頬に指がめり込み、その内側の神経回路に電気が走る。
「これが! 最善手なの!」
電撃は頬骨から口元に向かい、続いて首筋へと流れていく。顔から首にかけてクリームを塗りたくっているとは言え、それで軽減できるような痛みでは到底ない。と言うか、小顔って作れるものなのか?
「あたってる! 絶対骨にあたってるって!」
「あててんのよ!」
「ぐえええええ!」
断末魔の悲鳴を上げながら、わたしは沢本と化粧品店に行く約束をしてしまったことをほんの少し後悔する。まさかこんな目に遭うとは痛い痛い痛い。
「よーし、いや全然足りないけど、とりあえずよし。次に進むわよ」
わたしの顔面を蹂躙すること五分。沢本はようやくのことそう言って、わたしの顔から指を離した。
「……下準備だけでこんなに時間がかかるのか?」
クリームを落としながら息も絶え絶えに言うと、沢本は心の底から呆れたように「はぁ?」と返してくる。
「まだ化粧下地すら塗ってないじゃない。今のは下準備の下準備よ」
「下準備の下準備」
「ぶはっ」
それまでカウンターの向こうで黙ってわたしたちの様子を観察していた化粧品屋のお姉さんが、声を立てて笑い出した。
「あなたたち、本当に仲が良いわねー」
沢本とは顔なじみらしいお姉さん――名札によれば
「全っ然ですよ。こいつ、素材はこーんなに素晴らしいのに、化粧どころか日焼けのケアすらテキトーなんだから。見てるこっちがイライラしてきちゃう」
「はいはい。その話はこの間も聞いたから。約束通りそこのドレッサーにあるものは好きに使っていいから。お友達にたっぷりレクチャーしてあげて、どうぞ」
いかにも沢本慣れした塩対応だが、それが当の本人には面白くなかったらしい。
「深山、次行くわよ! あたしのマネしてこれを塗る!」
ほとんど八つ当たりみたいにそう言って、わたしに日焼け止めのチューブを押しつけてくる。
そんなこんなで――わたしは沢本に習って、化粧下地にも使えるらしい日焼け止めクリームを顔全体になじませた後、リキッドタイプのファンデーションを重ねて、仕上げに橙色のチークを頬と鼻先に乗せた。
「うん、大体良いわね。口紅はさすがに借りられないから――とりあえずあたしので我慢して」
え、いや、待てよ。と言うよりも先に、顎をクイッとやられてしまった。こうなってはまな板の鯉。わたしは覚悟を決めて唇を閉じる。ついでに両目も。
……間接キスにこだわるような年頃ではないし、こだわるような関係でもないのに、どぎまぎしてしまうのは何でだろう。というか、基本的に人間嫌いのくせして、こういうときだけ距離感バグるのはどうしてなんだよ。
「はい、もう目を開けて良いわよ」
わたしの動揺を知ってか知らずか、沢本は楽しげな声でそう言った。うーん、気恥ずかしい。気恥ずかしいがずっとこのまま目を閉じているわけにもいかない。わたしはゆっくりと目を開けて、鏡に映し出された自分を見た。
「深山樹~オレンジチークに薄桃色のルージュを沿えて~完成です!」
「人をよくわからん創作料理みたいに言うな」
でも、派手さを抑えた口紅と、日焼けした肌に合わせて用意してくれた頬紅の色合いは悪くなかった。いつもと違うけど、いつもの延長にある――何というか、しっくりくるお化粧だった。
「おー。良いじゃない。上出来上出来」
林堂さんもカウンターの向こうからやって来て、ぱちぱちと手を叩きながら褒めてくれた。
「何せ素材が素晴らしいので」
そう何度も言わないでくれ。居心地が悪いったらない。
「それと、ハルちゃんのお母さん直伝のお化粧テクニックも」
「うーん、お母さんの教えに従うなら、ファンデーションは断然パウダータイプなんですけどね」
そう言いながらも沢本はまんざらでもない顔。まったく、チョロいものである。
「確かに雪乃さんはふんわり感至上主義だったね。でも、お友達にはハルちゃんが選んだようなリキッドタイプが良いんじゃないかな。化粧持ちが良いし、コスパが良い商品が揃ってるし、道具がなくても綺麗に仕上がるから」
「あたしもそう思います。大事なのは続けることなので」
「そうそう。どんなに良いコスメグッズでも続けられないなら意味がない。ってね」
林堂さんがそう言うと、沢本はこくりとうなずき返した後で、わたしの方をちらりと見た。その目は『良い店員さんでしょ?』と言っているようだった。
結局、わたしが買ったのはセール品の化粧水と、セール品じゃないのに肌だけでなくお財布にも優しい日焼け止めクリーム、それに林堂さんが「初来店記念特価よ」と言って出してくれたファンデーションの三点だけだった。
チークと口紅は、一人でやってこんなにうまくできるだろうか、とか、家族や友人に笑われやしないだろうかなどと、ついつい余計なことを考えてしまい、腰が引けてしまったのだ。
――散々お店のドレッサーを占拠して好き放題やっていたのに申し訳ないな。
そんなことを思いつつバッグから財布を出していると、林堂さんがわたしの近くまで寄ってきて、耳元で「気にしなくて良いよ」と囁いた。
「こういうのは先行投資だと思ってるから。これをきっかけに、なりたい自分になる楽しみを覚えたら、また来てちょうだいね」
爽やかに笑ってそう言うと、わたしが買った化粧品を手早く紙袋に詰めて、手渡してくる。なるほど、沢本が常連になるのもよくわかる。
「わかりました。その時は、わたしに合う口紅を教えてください」
「もちろん」
それから少しだけ店内を見て回った後、わたしたちは青空の下に出た。
「この後はどうする?」
「うーん、昼ご飯にはまだ早いよな」
先週の中間テストで、わたしは自分自身驚くほどの好成績を収めた。結果を報告すると、沢本も驚いていたし「深山にしては頑張ったじゃないの」という言い方で喜びを露わにしていた。そんなわけで、今日一日は、勉強もサボテンの観察も忘れて遊び倒すことにしようと決めていたのだ。
「映画でも観る? 今からの時間だとシベリア超特急しかやってないみたいだけど」
「嫌だ……」
「あたしまだ観たことないんだけど、そこまで嫌がられると、逆に気になってくるじゃない」
「絶対に嫌だ……」
そんなしょうもないやり取りをしていると、ふいにわたしのスマートフォンが鳴り出した。市内局番からの電話だった。
「もしもし」
すぐに出ると、相手は市立図書館の職員を名乗った。頼んでおいた文献の複写が終わったから取りに来てほしいとのことで、わたしは「わかりました。近日中に伺います」と答えて、電話を切った。うーん、タイミングが悪い。
「誰?」
「市立図書館。頼んであった資料の用意ができたから取りに来てって」
「近いし、お昼ごはん前に行っとく?」
「良いって。急ぎじゃないし、また今度」
さりげなく視線を逸らすと、沢本が視線の先に回り込んで「その資料ってさ」と言ってきた。
「ハンマーキラー事件関係の新聞記事とかじゃないの?」
図星だったのでまた視線を逸らす。しかし、(またも)回り込まれてしまった。
「頼んだのはあたしなんだから、隠さなくたって良いじゃない」
「デリカシー無さすぎだろ、それは」
確かにハンマーキラーを探し出して欲しいと言ったのは沢本だが、あれはいじけたわたしの心を解きほぐすという意味合いが強かったと思うし、こんなにすぐに具体的な動きをはじめるというのも沢本にとっては想定外だったはずだ。
「……自覚ないかもしれないけど、深山って、心にもない嘘をつくのは得意だけど、心にもある嘘をつくのはとんでもなく下手くそなのよ。今更そんなくだらない心配をするくらいなら、全部話してくれた方がマシ」
わかった。わかりましたよ。
「じゃ、これから図書館に行くってことで良いわね?」
「オーケー」
短く答えた後で、わたしはふと思い出して「あ、でも待った」と言った。
「何よ」
早くも歩き出そうとした沢本が、首だけをこちらに向けて言った。
「先に本屋に寄っても良いか? できれば蛍雪堂以外で」
「これから図書館に行くのに、わざわざ?」
「うん。赤本を買いたいんだ」
そうして、わたしは沢本とともに駅前商店街の外れにある今にもつぶれそうな本屋に入って、蛍雪堂では先日沢本が買ったきり在庫切れが続いている県大農学部の赤本を手に取った。
「……あたしと同じ志望校なんて、二年早いっての」
「そこそこ生々しい数字を言わないで欲しいんだが」
「
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます