6-7「解体ハンマー」
――勝てないからだよ。
かつて旧友に野球をやめた理由を問われたとき、わたしは答えた。
――中学までは何とか通用したかも知れないけど、その先は無理だ。勝てやしない。だからやめた。綺麗さっぱり、やめることにした。
何が綺麗さっぱりだ。わたしは自分が言ったことを思い出して、顔を顰める。
――そうか。樹の考えが少しはわかった気がする。
旧友は、わたしが野球をやめると決めるまでの葛藤を知らない。
――樹もこれでもう少しは女らしくなるのかしらねぇ。
母は、わたしが野球をやめると決めるまでの煩悶を知らない。
――樹が決めたことなら、父さんはそれで良いと思うぞ。
父は、わたしが野球をやめると決めるまでの懊悩を知らない。
――やめる/やめない/やめる/やめない/やめる/やめない/やめたくない。
わたしだけが、スコアブックの隅に書き連ねた未練を知っている。
――うぉぼぼおおおええああああ!
わたしだけが、グローブを処分した日の夜に吐き戻したパイナップル入りの酢豚の臭いを知っている。
――こんな思いをするくらいなら、最初からやらなければよかったんだ。
わたしだけが、行き場のない感情に突き動かされて密かに家を抜け出した夜にあった出来事を知っている。
そう。あれは忘れもしない三年前の十一月。甲子園の始球式で旧友のミットめがけて思い切り投げ込むという悪夢で目覚めたわたしは、汗で冷え切ったパジャマからトレーニングウェアに着替えると、勝手口を開けて、逃げるように外に出た。
市内で女性ばかりを狙った殺人事件が続いていたことや、両親や教師から絶対に一人で夜歩きしないよう言い含められていたことは、頭からすっかり抜け落ちていた。
――誰にも会いたくない。
午前一時。ひっそりと静まりかえった街を、わたしは彷徨い続けた。
――野球を続けるという選択肢だってあったんだろう?
男子に混じってやるのが無理だとしても、マネージャーは性に合わないとしても、女子高校野球の世界に飛び込むという択は残っていたはずだ。県内にも女子野球部がある高校はあったし、何なら自分で女子野球部を作ることだってできたのだ。
でも、中学三年生当時のわたしは、今までとは別の形で野球を続ける気にはならなかった。今までと同じに勝ち続ける自信がなかったからだ。
未来の可能性は無限で、無限の可能性を摘み取ったのは、他ならぬわたしだった。
だからわたしは、誰のせいにもできない悔恨を胸に、転がるように歩き続けた。
いつの間にかわたしは暗い路地に立っていた。集団墓地と廃材置き場の間を抜ける、車が一台何とか通れるくらいの細い道で、辺りに人の気配は感じられなかった。
街灯は50メートル間隔で、しかもところどころ消えかかっている。霊的なものは信じない
ザシュ、と靴がアスファルトをこする音がした。
振り返ると、電信柱の影に人が立っていた。闇に溶け込むような黒い服を纏い、頭にはつば広のハンチング帽のようなものを被っている。
――あんなところで何をしてるんだろう?
わたしがそう思うより先に、ハンチング帽の人物はこちらへと向かって距離を詰めてきた。
「え、え?」
ようやく頭の中で危険信号が灯る。遅れて、ハンチング帽の人物が、右手に棒のようなものを持っているということに気づく。それが布を巻きつけた金槌だと理解したときにはもう、わたしの死はすぐ目の前に立っていた。
(ハンマーキラー……!)
連続殺人犯が少しの躊躇もなく金槌を振り上げる。なのにわたしは抵抗どころか声すら出すことができずに、目を閉ざしてしまう。
ドンという激しい衝撃を受けて、わたしは倒れこんだ。激しい? そうではない。金槌で殴られたのであれば、こんなものでは済まないはずだ。
目を開けると、怪人とわたしの間に、別の誰かが立っていた。
「逃げなさい!」
わたしを突き飛ばして助けてくれた誰かが、怪人と向かい合ったままの体勢で叫んだ。女性の声だった。
「でも――」
「良いから早く!!」
女性は尚もまごまごしているわたしに向かって、一層鋭く叫んだ。
刹那、ジジッという音とともに、近くの街灯が一際強い光を放ち、彼女の顔を照らした。
「は、はい!」
女性の有無を言わさぬ語気と鬼気迫るような表情に気圧されたわたしは、渾身の力を振り絞って立ち上がり、その場から走り去った。そうしてそのまま一度も後ろを振り返ることなく家まで逃げ帰ると、明け方になるまで布団のなかでガタガタと身を震わせていたのだった。
『……藤見原連続殺人事件の続報です。昨夜遅く、藤見原市黒須の路地で、接待付飲食店勤務の沢本雪乃さん(38)が頭から血を流して倒れているのが見つかり、搬送先の病院で死亡が確認されました。藤見原市警によると、沢本さんの頭部には金槌のようなもので何度も殴られたような傷跡があり、市内で続発している連続殺人事件の新たな被害者である公算が高いとのことです』
翌日のニュース番組で映し出された雪乃さんの写真は、働いていたお店から提供されたものらしく、街灯の光の下で見たときとは印象が違って見えたけれど、顔の輪郭や鼻の形などには面影が感じられ、間違いなくあのときわたしをかばってくれた女性なのだと確信できた。
そう。雪乃さんはわたしのせいでハンマーキラーに殺されたのだ。
このことをわたしは誰にも話していない。
話しても信じてもらえないと思ったから――違う。何故そんな夜に出歩いていたのかととがめられるから――近い。あの夜の出来事が恐ろしすぎて誰かに話す気になれなかったから――そうじゃない。
わたしは命の恩人を見捨てて逃げ出し、助けを呼ぶことさえしなかった。わたしが何より怖れたのはその事実を人に責められることだった。
あれから三年。ハンマーキラーの犯行と思われる事件は、雪乃さんが非業の死を遂げた後、ただの一度も発生していない。藤見原市警に設置された捜査本部は、事件未解決のまま縮小の一途を辿り、今となってはすっかり形骸化していると、どこぞの猟奇犯罪マニアのWeb記事に書いてあった。おそらく、事実だろう。
だから、だから――行き場のない感情に突き動かされて密かに家を抜け出した夜にあった出来事を、そこで犯した取り返しの付かない罪を、わたしだけが知っている。
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