4-6「マンション」
沢本のマンションは剣名川の南に広がる田園地帯のど真ん中に孤城のように屹立していた。代々の梨農家が廃業を機に建てたものだというが、四方を水田に囲まれているので場違い感がすごい。蛙の鳴き声もすごい。
「こっちよ」
沢本に引っ張られるまま、軽のワゴン車だらけの駐車場を通り抜けて、玄関に潜り込むと、ぼくは思わずふうと息を吐き出した。
「結構良いところだな」
「そう? エントランスにオートロックはついてないし、警備員さんが常駐してるわけでもないし、たったの五階建てだし、ベランダの手すり壁が低くて柵もついてないから洗濯物を干すたびに冷や冷やするし、これでマンションと名乗るのはおこがましいんじゃない? って住んでる者としては思うけど」
言われてみれば入り口のところに『マンション・清流』とプレートされていたな。剣名川のことを言っているなら、今日はもうだいぶ濁流だったけどな。でもまぁ玄関まわりは結構小綺麗な印象だ。余計なものを置いていないし、掲示板の張り紙も日付が新しいものばかりだ。きっと、きれい好きな大家さんなのだろう。
「とりあえず絞るか。このまま上に行くのはさすがに申し訳ない」
「今さら何をやってもって気はするけど」
そう言いつつも、沢本はぼくに合わせて一旦外に出ると、玄関先でスカートの裾に白い指を絡ませた。
「……見ないでよ」
「見えてないし。ってか、中にスパッツ履いてんだろ」
「見てるんじゃない」
ぼくはら互いに背中を向けて、やれるだけ着衣を絞り込んだ。ついでに髪も。沢本の言うとおり今さら何をやってもな状況ではあったが、それでも結構な量の水が指を伝って足下に落ちていった。
「これ以上は無理ね。深山は?」
「沢本が良いならこっちはいつでも」
ぼくが答えると沢本は「四階よ」とだけ言って再びマンション内に足を踏み入れる。
歩く度にぽたぽたと水滴が落ちてきて、さっきの行いの無意味さを痛感させられる。沢本も同じことを思っただろうが、何も言わなかった。
「ここよ」
四階の一番奥の部屋の前でそう言うと、沢本は鍵を開けた。
「待ってて」
言うなり靴を脱ぎ捨てて、廊下の奥へと走り去って行く。
ほどなくしてブシャアアアとすごい勢いでシャワーの水音が聞こえてきたかと思うと、沢本が戻ってきて、ぼくの顔にバスタオルを投げかけてくる。
「とりあえずそれで体を拭いて。うちのシャワー、温かくなるまでちょっと時間かかるから」
いや、ぼくは後で……と、言おうとするよりも早く、沢本が「シャー!」と怒った猫のような声を上げた。
「また不毛なやり取りを繰り返すつもり? こっちとしてはアンタがシャワーを浴びてる内に部屋を片付けておきたいって思惑もあるんですけど?」
「……わかったよ。そういうことなら」
「タオルは中に置いといたから。ソープ類も好きに使って」
「助かる」
「それと、ジャージはとりあえず洗濯機の中に突っ込んでおいて」
仏頂面して本当に色々気の回るやつである。だからぼくはついつい余計な一言を付け加えてしまう。
「沢本って本当、仁義の貸し借りにうるさいよな」
「シャー!!」
再びのネコ科動物のような威嚇音でサニタリーへと追い立てられる。
毎朝掃除してるのだろう。床には髪の毛一本落ちてない。狭い中に籠置きラックや樹脂製の収納を無駄なく配置するあたりはいかにも沢本らしい。洗面の歯ブラシ台にささった一本きりの歯ブラシがどこか寂しげで――いけない、ついつい室内を観察してしまった。いい加減、服を脱いでお風呂場に行こう。
折れ戸の向こうでは、猛烈な勢いで噴き出すシャワーがぼくを待っていた。ちょっと、いや、かなり熱い。まぁしかし長らく雨に打たれて冷え切った体には、これくらいが良いのかも知れない。いやでも、やっぱ熱すぎるな。
肌がひりひりするのを我慢しながら体を流し、顔を洗ってさっぱりしたところで一旦シャワーを止めて、シャンプーラックに入っているボトルに目を向ける。やれボタニカルだとかやれ輝くゆるふわスタイルだとか、「でもお高いんでしょう?」と言い返したくなってしまうような惹句が踊っている。リンスインシャンプーで時短上等な身にはもったいない品だが、使わなければ怒られる。ぼたぼたボタニカル。ぼくは手のひらにシャンプーを広げて、そっと鼻先に近づけてみる。ぎゅっと濃縮したような、さわやかなシトラスの香りが広がった。
「深山」
ふいに沢本の声が聞こえて、ぼくはバスチェアから滑り落ちそうになった。
「な、何?!」
当の沢本はぼくの
「着替えはどうする?」
「問題ない。バッグの中に制服が入ってるんだ。ビニール袋に入れといたから、多分それほど濡れてないと思うし、そいつを着て帰ることにするよ」
パンツだけはどうにもならないけど、そればっかりは仕方がない。
「開けて良いんなら、袋から出してサニタリーに置いておくけど?」
「お願いします」
「わかりました。それじゃ、ごゆっくり」
後が使えてるのにのんびりしてるわけにもいかない。ぼくはさっさと髪を洗って、風呂を出た。
「沢本、交代しよう」
まだ沢本家の間取りがよくわからないので、とりあえず廊下で大声を出すと、奥の部屋のドアがすっと開いて、沢本が姿を見せた。バスタオルを体に巻きつけただけで他には何もつけていない姿だった。
「うわあ! おい、沢本!」
動揺して思わず後ずさってしまう。ポニーテールをほどいていた髪が肩にかかっているものの、ほっそりとした肩甲骨のラインの鮮やかさは隠せない。バスタオルの中の胸は控えめだが、むしろそのせいで着てない感が強調されて、より扇情的になっている気がする。
「そんなにびっくりしないでよ。家の中でいつまでもびしょ濡れの服を着ているわけにもいかないし、かと言って、他の服に着替えてもどうせすぐにシャワーを浴びるんだから、どう考えてもこれが最適解じゃない」
こっちは心臓がバクバクしてるってのに、当の本人は平気な顔でそう言った。
「……随分刺激的な最適解だな」
「何を恥ずかしがってるのよ。乳首が見えてるわけでもなし」
「
スパッツを見られて恥ずかしがってた女子の言うことか、それが。
「はいはい。ともかくそこを通して。さっさとシャワーを浴びてくるから」
「お、おう」
スタスタとぼくの前を通り過ぎ、サニタリーに入ってから、沢本は顔だけをにゅっとこちらに突き出して「アンタがシャワー浴びてる間にコーヒー淹れといたから。あっちの部屋で飲んで待ってて」と言った。
髪がふわりと垂れ下がり――ひととき、首から肩にかけての素肌があらわになる。ぼくが想像していたよりもなお白い、絹のような肌が、ぼくの網膜を
よろよろと這うように沢本家の居間へと向かい、沢本が淹れてくれたコーヒーを飲む。一口、二口。大人の味が好みなのだろうか。結構濃ゆい。
――この苦みで網膜に焼き付いた映像記憶を消してしまえれば良いのだけど。
受け皿にコーヒーフレッシュが置いてあることに気づいたのは、コーヒーカップの中身を半分以上飲み干した後のことだった。
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