3-3「昔語り」

 三十分ほどキャッチボールを続けると、順平はすっかり満足したようで、「用事があるのに付き合ってもらってありがとな。おかげですっきりした」と言い残して去って行った。


 ぼくはハンドタオルで顔や首元を拭いながらこれからのことを考える。


 体中が汗ばんでいるが、シャツまでビショビショというわけではなさそうだ。酸っぱい臭いもしてないし(多分)、本屋に行くだけなら着替えなくても良さそうだ。


「人に会うわけでもないしな」


 ぼくはそう呟くと、自転車のスタンドを蹴りつけ、サドルに跨がった。


 ペダルを強く踏み込むと、すぐに気持ちの良い風が吹き付けてくる。


 ――なんで野球部に入らなかったんだ?


 道すがら脳裏に浮かんだのは、高校に入学したばかりの頃の一幕だった。


「言ったろ。中学で卒業したって」


「バカ言うな。お前から野球取ったら何が残るんだよ」


「人間性?」


 リトルリーグでぼくとバッテリーを組んだ相棒は、しかし、ぼくの冗談にくすりとも笑わなかった。


「俺は諦めないからな」


 順平はそれだけ言って、放課後の教室を出て行った。東高野球部のユニフォームは当時の順平には少し大きかったようで、袖が九分袖くらいになっていたのをよく覚えている。一人になってから、なんとなくジャストサイズの制服の裾をしげしげと見つめてしまったことも。


「樹、やっぱ野球やろうぜ」「やらない」


 知ってはいたことだが、順平は有言実行の男だった。


「樹、とりあえず体験入部だけでもしてみないか?」「みない」


 順平は毎日のようにぼくのところにやってきて、野球部に入るよう誘ってきた。


「樹、おお振りの新刊と入部届け持ってきたぞ」「おお振りだけ置いといて」


 よくまぁ続くものだなと内心呆れてもいたけれど、かつての相棒に期待を寄せられて悪い気はしなかった。


「一応言っておくけど、ほだされて気が変わるなんてことは絶対にないからな。もう決めたことなんだ」


 だから――ぼくはきっぱりと言い切った。


 順平の思いは本物だ。であればその熱情に応えられないことをなるべくでも早く告げるのがぼくの責務だと思ったのだ。


「わかった」


 順平はぼくの目をじっと見つめて、悟ったように笑うと、しばらく考えてから言った。


「なら、キャッチボールはどうだ?」


「は?」


「野球はダメなんだろ。だったら、俺と個人的にキャッチボールをやろうぜ。な? な? それくらいならセーフにならないか?」


 そう言えば、試合が終わった後でみんなで連れ立って駄菓子屋に行くときに一番はしゃいでいたのはこいつだったな。そんなことを思い出してくすりと笑ってしまう辺り、ぼくも甘い。結局、部活がない休みの日にキャッチボールをやるということで話をまとめられてしまった。


 高校に入って初めての四月が終わり、開けて五月。ゴールデンウイークの最終日に、ぼくらは剣名川のほとりにある小さな公園で落ち合った。


「樹ー、キャッチボールしようぜ!」


「人を海洋生物系多世帯家族の長男みたいに扱わないでくれ」


 言いながら普通のグローブを受け取る。プロテクターどころかキャッチャーミットすら持ってこない辺り、順平も誠実な男である。


「やるか」


「来いよ」


 その日のキャッチボールは順平のふんわり柔らかなスローイングで始まった。


 ワンバンしたボールを右手でそのまま掴む。久しぶりの縫い目の感触。指先の血管が広がるのを感じる。ああ、やっぱり良いな。そう思ったのを忘れてはいない。


 それからぼくらは黙々とボールを投げ合った。はじめはゆっくりと。時々は山なりの球を。時々は無理めの球を。だけど受け止める。しかと投げ返す。そうして百球ほど投げ合ったところで、インターバルを取ることにした。


「そういや樹が野球やめた理由、ちゃんと聞いたことなかったな」


 ベンチに腰掛けてスポドリを飲む合間に、順平はそんなことを尋ねてきた。


 ぼくが無言で睨むと、順平は「勧誘する気はねえよ」と言った。


「ただ、友人として知っておきたいってだけだ」


「なら良いけど」


 ぼくはペットボトルの蓋を閉め直すと、雲一つない青空を見つめて続けた。


「勝てないからだよ」


 順平が目を剥いた。


「お前、いくら何でも傷つくぞ」


「違う違う。東高野球部の戦績じゃなくて。あくまでぼく個人の話をしている」


 確かに言い方が悪かったな。心の中で反省しつつ、ぼくはもう少し丁寧に説明し直すことにする。


「……中二の頃から小手先の技術で何とか勝ちを拾ってきたって自覚はあったんだ」


「そうなのか?」


 順平が心底意外そうに聞き返してくる。


「うん。言うほど勝ってもいないけど」


「言うほど負けてもいねえだろ。お前、そんなに自己評価低かったのかよ」


「自分でもコントロールは良い方だって思っていたよ。順平のリードで打者の裏をかけば結構三振も取れてたし。でも、それだけだ。パワーもない。スピードもない。中学までは何とか通用したかも知れないけど、その先は無理だ。勝てやしない。だからやめた。綺麗さっぱり、やめることにした」


 そう結論するまではとても長い時間を要したし、そう結論してからも身悶えするほどの後悔に襲われて深夜に目を覚ましたことは一度や二度ではなかった。眠れない夜に家を飛び出して、行く当てもなく夜の街を彷徨ったこともあった。


 順平はリトルリーグ卒団後のぼくの逡巡を知れない。ぼくがリトルリーグ卒団後の順平の逡巡を知れないように。


「そうか。樹の考えが少しはわかった気がする」


 それでも順平は言う。ぼくの投げたボールを受け止めるのが自分の役割なのだと主張するように。


「なぁ樹」


 左手にペットボトル、右手にボールを握り込んだまま、順平は首を傾げてぼくを見た。


「ん?」


「楽しむための野球じゃダメなのか?」


 ぼくは答えない。順平は言葉を重ねる。


「うちの野球部はさ、弱いんだよ。すげー弱い。でもさ、全員野球が好きで、楽しくて練習やってるってことだけは断言できる」


 ぼくは答えない。心の中でだけ『だろうな』と呟く。一度だけ、遠くから野球部の練習を覗いたことがあった。いかにも弱小チームらしい活動風景だったが、一生懸命さは伝わってきた。罰走はもちろん無意味なメニューを課すこともなかったし、一人一人が練習の目的を理解して取り組んでいる風でもあった。


「そりゃあ俺らだって高校球児だ。甲子園の土を踏みたいって思いがゼロってわけじゃないけどな。でも、どうあがいたって甲子園の土を踏めないやつらにも、野球を楽しむことはできるだろ?」


 とうとう順平が問いかけてきた。答えなければならないときだった。


「……順平はそれで良いと思う。でもぼくは勝たなければダメなんだ。勝てなければ続けられない。勝たなければ続ける意味がない。ぼくにとって野球はそういうものだった」


 ぼくはようやくそれだけ言って、口を噤んだ。


「そうか」


 順平はベンチの上にボールを置いて、俯いた。


「悪かったな。勧誘はしない約束だったのに、結局はたがえちまった」


「気にしなくて良いさ。ぼくと順平の仲だろ」


 それきり順平は放課後の教室でぼくを野球部に勧誘することをやめた。


 ただ、休みの日にキャッチボールをする習慣だけは残った。


 試験前のちょっとした気晴らしに、野球部の大会明けに、進級して同クラになった記念に、何でもない日曜日に、ぼくらはボールを投げ合う。順平から誘われることもあれば、ぼくが誘うこともある。そんな風にして、リトルリーグ時代の相棒との関係は今なお途切れずに続いている。


 ――そう言えば、今日は珍しく相談らしい相談もなく終わったな。


 順平は、キャッチボールの合間の雑談として、野球部で生じた様々な課題について意見を求めてくることが多い。主将として部員を引っ張っていく立場だけに思い悩むところもあるのだろう。最近はキャッチボールをぼくに相談する口実に使ってる節もあるくらいだ。


「そういう日だってあるよな」


 ぼくは声に出してそう呟いてから、自転車のスピードを落とす。行く手に見える大きな三角屋根は馴染みの本屋のそれだった。

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