2-5「牛飼いの女」

 昼休憩の後、沢本はぼくを堤防敷の上の小道へと連れ出した。てっきり河原に戻って種まきを再開するものと思っていたのだけれど、違うらしい。


 桜並木のトンネルを、剣名川の流れに沿って南へ、南へと進んでいく。涼気を帯びた風がほっぺたに気持ちいい。初夏の昼下がりにはうってつけの散歩道だった。


「一応聞いておくんだけど」


 少し前を歩いていた沢本がぼくの隣に来て言った。


「午後も協力してくれるってことで、良いんだよね?」


 自らのポニーテールを撫でつけながらの不機嫌そうな声は、後ろめたさを隠すためのものとしか思えなかった。ぼくはだから、ここぞとばかりに言ってやった。


「確かにこういう状況でわざわざ聞いてくるのって、無性に腹が立つな」


「あ、そ」


 沢本は愛想のかけらもない声でそう呟いてから「なら、心置きなく頼らせてもらうわ」と言い足して、そっぽを向いた。


 うまいこと言い返してやったぞ。小さな満足感に浸った後で、胸の辺りにもやっとしたものが広がった。何だろう。表情が完全に見えなくなる寸前、沢本がほくそ笑んだような気がしたのだ。


「で、ぼくらはどこに向かっているんだ?」


 頼られるのは一向に構わないが、やることぐらいは知っておきたい。


「もうじきわかるわ」


 だが、沢本はまだ話すつもりがないらしい。何となく胸のもやもやが不安に変わり始めたところで、桜並木のトンネルを抜けた。旧市街地から少し離れたところにあるこの辺りは、剣名川の水を引き込んだ灌漑地域で、青々とした水田や、イチゴのビニールハウス、トウモロコシの畑などがきれいに区分けされて並んでいる。


 うーん、いかにも田舎という感じののどか~な風景だ。そんなことを思った矢先に、湿り気を帯びた強い臭いが漂ってきて、ぼくは顔を歪ませた。


「着いたわよ」


 沢本が土手のすぐ下にある巨大なプレハブ屋根の建物がある辺りを指さして言った。臭いはどうもあの建物の方から漂ってきているようだった。


「あれは一体何の建物なんだ?」


「知らないの? 藤見原市内に五件ある牧場のひとつ、秋田川あきたがわ牧場の牛舎よ」


 タイミングよく建物の中から『もおお』という鳴き声が聞こえてきた。本当に牛がいるらしい。


「ほら、降りるわよ」


「あ、ああ」


 土手の小道から坂を下って、牧場の敷地へと足を踏み入れる。牛舎には屋根を支える骨組みがあるだけで壁の類いはなく、鉄柵がむき出しになっていた。柵の中では大小百頭あまりの牛たちが、窮屈そうに肩を並べてもしゃもしゃと飼料を食べている。毛並みは黒。ところどころ白くなっているところもあるけど、多分ホルスタインじゃない。


「あれは交雑種F1と言って、ホルスタインと黒毛和牛のよ。肉牛としては霜降りが少ないからってことで黒毛より安いんだけど、わたしはかえってこっちの方が好きだわ」


 ぼくの心の内を読んだように沢本が説明する。いやしかし、先にもっと話すべきことがあるんじゃないだろうか。


「観光目的で来たわけじゃないんだよな」


「当たり前じゃない。大体これが観光牧場に見える?」


 見えない。全体的にごちゃごちゃしていて綺麗じゃないし、何より臭い。しかし、観光サイトシーイングではないとしたら、消去法により仕事ビジネスということになる。ぼくは胸のもやもやが嫌な予感に変わるのを感じて、背筋を震わせた。


「わたしが使っている肥料って、市販の肥料にここの堆肥をブレンドしたものなの。秋田川の堆肥って言ったらねえ、その筋では有名なのよ? 県外から有名な有機野菜農家が買いにくるくらいなんだから」


「つまりはタダでもらえるわけではない、と」


「そうね。でも、あたしは特別に牛舎の掃除とバーターってことになってるわ」


「ついてはぼくにも協力しろ、と」


「命令するつもりはないわよ。こちらはお願いする立場だし。でもまあ『こういう状況でわざわざ聞いてくるのって、無性に腹が立つな』とかなんとか格好の良いことを言っておきながら、今さらやっぱり帰りますなんて、あたしだったらちょっと恥ずかしくてできそうもないけど」


 ぐぬぬ、と本当に声に出してしまいそうになるのを何とか堪えて、沢本を見る。取り澄ました顔だが、目元と口元がにやけているのを隠しきれてないし、隠し通すつもりもなさそうだ。


 さっきはうまく一本取り返したつもりだったが、どうやら彼女の方が一枚上手だったらしい。


「今日履いてるスニーカー、結構お気に入りなんだけど」


 せめてもの抵抗にそう言ってやると、沢本はあっけらかんとした顔で「貸してくれるわよ、長靴」と言い放った。お前の血は何色だ。


「よう、遥!」


 と、牛舎の中から威勢の良い声が聞こえてきた。


「何だ何だ。今日はお仲間もいるみたいじゃねえか!」


 声の主は百八十センチ近い長身と、切り株のような太股を持つ、作業着姿のだった。年齢は四十前といったところか。健康的に日焼けした顔に化粧気はなく、短い髪に荒っぽくタオルを巻き付けている。


「中学時代の同級生の深山さんです。今日もよろしくお願いしますね、秋田川さん」


 沢本はぼくに対するときとはまるで違う丁寧な口調でそう言うと、ぺこりとお辞儀をした。


「いつも言ってるが、そう固くなるなって。とりあえず、お仲間もいるんなら最初は簡単な方からやってもらうかな。よし、二人ともついてきなっ」


 そう言って豪快に笑い、牛舎へととって返す秋田川さん。


「さ、あたしたちも行くわよ」


 状況に圧倒されたぼくが呆然としていると、沢本が近づいてきて、ぼくの耳元で囁いた。


「ちなみに秋田川さんには河原で栽培しているのが土喰いだということは話してないから、アンタもそのつもりでいてね」


「言ってないのかよ。って、おい待てよ!」


 既に走り始めている沢本の背中を追いかけながら、ぼくは牛舎の中の様子を窺う。多分通路のそこかしこに落ちている粘性の強そうな黒い物体はアレだよな。うーん、この。

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