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「文学部のガイダンスってここであってますか?」
おずおずと言い出した私に扉の前で立っていた男の人はやや機嫌が悪そうに「あってますよ」と答えた。その傍で文学部ガイダンスはこちら、と張り紙がされていた。
会場は大教室だった。中は自由席なので、と言われて座る場所はないかあたりを見回す。
特に誰かが大きな声で喋るわけでもなく、時間が過ぎて始まるのをみんな待っていた。
距離を測るようにまばらに空くスペースが点在している。通路側から失礼します、と言って中央に座るのは嫌だった。それなら端に座って、詰めてもらえますかと言った方がマシだ。もう諦めて、一番前の明らかに人が避けている列に座ろうか、そう考えた瞬間、例の茶髪の女の子が映った。
と同時に目が合う。にこ、と微笑んだ。覚えてくれてたんだ、と安堵するとともに私は彼女が列の真ん中にいることに気づいた。彼女の座っている列はもう埋まっているし、隣に座るためには席を譲ってもらうしかなかった。そこで私は諦め、適当な席に座った。
私は両隣を男に挟まれ、息苦しい思いをしてガイダンスを終えた。
次は学科ごとの説明になります。教壇にいる教授がそう言ってこの場はお開きになった。
私は退場の流れの中、彼女に目をつけていた。茶髪の女性なんてここには何人もいるし、すぐに見失いそうになる。
三々五々それぞれがバラけ、私は後ろから彼女を追った。私の気配に気づいたのか、声をかける前に振り返ってくれた。
「あっ」
「あっ」
「ふふ」
私と目が会う瞬間、私の顔で何か思ったのか彼女は声を漏らした。しかし私はそれに応える言葉を考えていなかった。そして彼女に笑われる。
「二日ぶりですね」
「そうですね、入学式ぶり……」
「友達、出来ましたか」
「いや、出来ないですよ」
自虐を含めて、私はそう言った。
「頑張ってください」
周りと同じように階段を降りる。そこで彼女との会話は途切れる。彼女が口にしたのはそういうものだった。いや、その、とどもる。
「学科同じですか? 日本文学科?」
集団の流れは分流のように枝分かれし、それぞれがそれぞれの目的地へと向かっていた。あれ私が行く場所はどこだ? と今更気づいた。
「いや、あってます。日本文学科」
「そう」
渡されたガイダンス資料の行き先案内を見てそう答える。英米文学科は階段を上り、哲学科は更に階段を下る。
「私は秋風木葉。なんでも好きに呼んで」
それは唐突だった。許された、と思った。今まで避けてきた話題が、しかも相手の方から振ってくれた。
「このは、ちゃん……?」
「ん」
彼女は了承したとばかりにそう答えた。2A教室。案内に書かれていたのはその教室だった。
「着いたね」
「あ、私、青井雛」
「よろしく、青井さん」
青井さん、その響きはいつもと違ったのはなんでだろう。
「うん。よろしく」
さっきと違って騒々しい教室に入ると、いくつかのグループができていた。それはこの教室に来てから知り合った、という感じではない、旧知の仲を思わせる何かがあった。でも、高校から一緒だったわけではないと気付かせる隔たりが彼らにはまだあった。
暫くして小教室に先生が入ってくる。ガヤガヤと方々で展開されていた会話がぴた、ぴた、と終わりを告げていく。
えー、准教授の〇〇です、女の先生はそう言った。男子は静かにその興奮を波打たせる。三十に見えるその先生の何に若さを見出しているんだろう。もしかしたら、私もそうなるのかな。十年二十年経てばそうなるか。と一人で納得する。
「今から履修登録とそのほかについての説明を始めます。時間が余ったら自己紹介をしますかね」
ぞわぞわと体に鳥肌がたった。自己紹介、苦手だ。うん、嫌いだ。横目で木葉ちゃんを見る。眉一つ動かさずに黒板の方を見ていた。
ぴ、と目が合う。私は慌てて目を逸らす。ふ、と彼女の唇が動いた。
聞いてもいまいちピンとこない説明が続く。授業? 履修登録期間? ゼミ? 聞いたことはある単語なのに、何故か頭に入ってこない。
「よくわからないね」
そう彼女が呟いた。まだ説明は続いている。
「本当、全然だよ」
私は同調した。軽く見えたかもしれない。彼女も同じことを思ってたんだ。嬉しさと安堵が込み上がる。
「では、予定通り時間が余ったので自己紹介をします」
前の席から順に、と先生が指示する。後方に位置する私たちは、最後の最後まで自己紹介という責苦を味わらされる。
「自己紹介苦手?」
彼女が私の緊張に気づいてか、そう訊いた。
「うん、そうなの」
大学生にもなって、小学生にも出来ることが苦手なのか、と笑われてもそれでいい。こんなことを思いつつも、木葉ちゃんは笑うような人ではないことを私はわかっていた。
淡々と自己紹介を済ましていく学友たちを眺めながら、私はいつも失敗していることを思い出していた。
自分を抽出して言葉にするのが嫌いだった。私はそういう人間だったんだ、と知った時今までの行動が全て惨めに思えてしまう。
教壇で垂れ流されている名前に耳を傾けられる頃には、私の番はあと数人といったところに迫っていた。
「いいんじゃないの、苦手でも」
その言葉がさっきの私の返答だと気づいた時には、彼女は席を立っていた。
「秋風木葉です。好きな本は、まだ見つけられてません」
彼女の自己紹介はそれだけだった。それだけが自分の全てなのだと言っているように思えた。彼女の人柄を推測する隙は、その中にない。彼女の確信に満ちた、しかし諦めと寂しさの混じった不安定な声音は私の耳朶に纏わりつく。
教壇に立つ彼女と目が合う。次は君の番だよ、と言われた。
慣れないヒールに意識を取られながら、段になっている教室の脇を通った。自己紹介を終えた彼女とすれ違う。
鞄から出して手に取った最愛の小説を手に持って、やっぱり私は私なんだなと思った。
いつも動機は他人由来だった。誰かに憧れて、誰かに依存して。自分の行動の指針にしている。緊張を解してもらうのも、誰かの暖かさに触れたからだった。
教壇に立つと二割ましで背が高くなった気がする。
「青井雛って言います──」
好きな本は、秋風諷真の「処女のまま死ぬなんて」。なぜ秋風作品の三作目が好きなのかっていうと、私が小説を書く理由になったからです。えと、処女作も好きなんですけどね。
私は思うように言葉が紡げなかった。なのに、溢れる彼の作品愛が意図せずに口を衝いて出る。
木葉ちゃんを一瞬視界に入れた。彼女は目を丸くしていたが、止まりどころのない私が焦る様を見て微笑んだ。
「……以上です」
やってしまった。それはもう、自分がやばいやつだと自己顕示したみたいで、教壇から降りる時、若干引いている学生が私のことをジロジロと見てきたほどに。こういう失敗の仕方をするとは思ってなかった。いつも、うまく言葉にできなくて、しどろもどろになって終わるのが山なのに、今回はなんで。しかも、せっかく出来た友達の前で。
私は頬を真っ赤に染めて、言い訳をするように木葉ちゃんに言った。
「やっちゃったよ」
「やっちゃったね」
「もう少しで結婚したいとかいいそうになったよ」
「あはは。馬鹿みたい」
「ほんと……ん?」
私の言い訳に慰めてくれていた彼女なのに、随分言葉が強いことを言う。私はなんだかそれが引っかかった。秋風木葉という人間のイメージがまだ掴めてないからかもしれないが、彼女は時々鋭い言葉を使う。馬鹿、と私を形容したのもそうだ。馬鹿なことをした自覚はあるけれど、馬鹿と言う必要はないんじゃないかなぁ。
正直、こういうタイプの人と友達付き合いするのは私にとって初めてだった。見た目からして陽キャだし。だから今違和感を覚えているのかもしれない。
「ほんと、馬鹿だよね私」
「でも、よくやったと思うよ」
もしかしたら彼女なりの励まし方なのかもしれないな、そう思った時にはすでに自己紹介の時間は終わっていた。
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