1
1
珈琲に浸った原稿を見て、あちゃーとため息をこぼした。今日は入学式だった。昨日書いた小説を推敲しようと思って紙にコピーしたのに、十数枚が無駄になった。
デスクにぶちまけた珈琲をティッシュで拭いながら、後ろでチン! とトーストが焼き上がる。
トーストを皿に出してオーブンの上に置く。片付けるまではお預けだ。
どれが助かったか確認するのをやめて一思いに捨てた。焼き上がったトーストは少し焦げていた。
「あと三十分じゃん!」
スーツをハンガーから取り出して、いやトーストを食べるのが先かと思い直して、トーストを口に突っ込んだ。
「化粧、化粧いるよな……化粧」
歯磨きをする時にそのことを思い出した。春休みにさらっと触れた化粧を覚束ない手つきで終えていく。化粧と呼べるものではないんだと思う。でもそれが私の限界だった。
慌てて家から出るも、珈琲から避難した私の大好きな小説を思い出した。もしかしたら、と淡い期待でバッグに入れる。
私この本が好きでね、これなんだけど。あ、知ってるー、的な。淡い期待は、私の走る力でもあった。慣れないパンプスに足元をせかせかと動かしながら最寄駅へと向かった。
入学式は正午に終わった。三時間、私はぼっちで過ごした。その間、思うような会話は一切生まれず、案の定持ち出した小説はバックの中に入りっぱなしだったのだった。
ベンチに腰掛けた。私は大学前の「○○大学入学式」と書かれた看板の前で写真を撮るようなことはないので、手頃なベンチに腰掛けて一息ついた。構内で買ったペッドボトルのミネラルウォーターを口に含み、今日何度目かのため息をつく。
私にとって大学はなんだったのだろう、と今更ながら思った。
なんとか偏差値の高い(私的に)大学の文学部に受かったはいいものの、学生は文学をやってやろうという気概を感じない。文系だから、他に行くとこないし、そんな意識を式典中お喋りする彼ら彼女らの言葉の端端に感じた。
暖かい日差しが私を照らす。今日はいい日なのだな、と他人事のように思った。
「隣、いいですか?」
「え?」
視界の端に人が映る。太陽の光を目一杯取り込んでいた私の瞳は少しぼやけたスーツの女性を捉えた。
「あ、どうぞどうぞ」
姿勢を立て直して、首を大袈裟に振りそう言った。無意識に水を含む。まだあどけなさの残った茶髪の女の子だった。スーツに身を包んでいるせいで若干大人に見える。
「新入生、ですよね?」
「……そうです」
唐突に話しかけられ、まだやや残っていた水分を飲み込み、そのせいで数秒経ってから答えてしまった。
まるで新入生だという意識のない人間みたいじゃないか。途端に恥ずかしくなった。
「誰かを待ってるんですか?」
「え?」
「ほら、わざわざここで座るなんて何か用事でもあるんじゃないかって……」
恥ずかしさを隠すために捲し立てるように言葉を吐き尽くすと、更に気恥ずかしさが私を襲った。
「特にはないですけど、あなたは?」
皮肉を返されて、私の顔が引き攣る。「すみません」
「いえ」
なんだかあの場のノリが合わなかったんですよね、隣の女性はそう言った。
さらりと茶色の髪が、風に靡く。おとなしそうに見えるこういう子も髪を染めて遊んでるんだ、と気づくと一気に自分が惨めに思えた。
「なんか、わかります」
求めていたのはコレジャナイ感、そうそうそんな感じ。自然と話が噛み合った。
「じゃあ私そろそろ行きますね」
茶髪の美人はそう言った。
「あ、」
聞こうか聞くまいか悩んで瀬戸際で、喉から音が漏れた。
「ん?」
相手は多分、四月五日の誰だかわからない人とベンチで話した、それだけを記憶するのだろう。けれど、私はそれが勿体無いように思えた。
「学部は?」
もし違ったら。私も茶髪の可愛い女の子と話した、緊張したけど楽しかったなと記憶するから。
「──文学部です」
「ほんとですか!」
私が少し大きい声を出したので、目を丸めたがふっと頬を緩めてくれた。
「これからよろしくお願いします」
「ええ、また」
私が彼女の正体を訊き出せたのは、もっと後になってからだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます