第2話 回想

 あれは俺が五才の時だった。幼稚園での一日を終え、俺は母が迎えに来るのを楽しみに待っていた。次々に友達の親が迎えに現れて、彼等と一緒に通りへ消えていった。当然、俺の母親ももうすぐ迎えに来る――その時俺は何の疑問も持たずにそう信じていた。水色の小型自動車が自動運転の大通りから外れて、母の余り上手いとは言えない自立運転に切り替わり、幼稚園の門の前で停車するのを、俺は今か今かと待ちわびた。だが車は来なかった。俺は段々と不安になり、日が西の地平に沈みかける頃には大声を上げて泣いていた。泣いている俺に気付いた保母さんが、俺の父親に電話をかけてくれた。母がどうして来ないのか、それは分からなかったが、代わりに父が迎えに来ると知って、俺はひとまず泣き止んだのだった。


 父親の車から降りて、マンションの部屋へ入った俺は、部屋中をくまなく探した。もしかしたら、あのカーテンの裏に母が隠れているんじゃないか? ひょっとしたら、キッチンの対面カウンターの影に潜んでいるのかも知れない。俺はきっと母が何処かに居る筈だ、との希望を捨てていなかった。だが、母の姿は何処にも無かった。一体母は何処へ消えたのか? 俺は再び涙がじんわり滲むのを隠すこともせずに、振り返って父親にこの疑問の答えを明かすよう目で訴えた。父は一枚の書き置きを手にしたまま、悲しそうな目をしてリビングに突っ立っていた。


「母さんは出ていったんだよ」

そう、一言だけ呟くように言うと、父は俺を抱き締めた。出ていった?

「……お買い物?」

俺の質問は五才の子供としては至極妥当なものだったと思う。だが父は大きく首を振ると、信じがたい言葉を告げた。

「そうじゃない。母さんは、もうこの家には戻らないんだ」

父はそう言ってため息を一つ付いた。俺には全く理解不能だった。

「どうして、どうして? 僕が悪い子だから?」

俺は父にしがみついて泣き叫んだ。

「いや、そうじゃない。これは仕方のないことなんだよ……母さんがいつか父さんと別れる事は予め決まっていたんだ」

「どういう事?」

「人間は皆、生まれたときにホロスコープを背負っているんだ。いわばお星様からのメッセージだな。人はそのメッセージに従って生きていかなきゃいけないんだ。母さんのホロスコープには、いずれ父さんと別れなきゃならないメッセージが刻まれていたんだよ……だから、誰も悪くないんだ」

俺は混乱した。お星様のメッセージだって!? そんなものの為に、母さんは出ていったのか? 俺や父さんへの愛を捨てて?

「海、お前もホロスコープを背負っている。十六才になったら、それがどんなメッセージか分かるんだ。そしてそれが分かったら、その通り生きていかなきゃならないんだよ」

「僕……僕そんなの嫌だよ!」

「どのみち、人間はお星様からは逃れられないんだよ」

俺は押し黙った。怒りとも、悲しみともつかない思いを心に抱えて。お星様だとか、ホロスコープだとか、そんな物は理解不能だった。ただ俺の心にはこの事実だけが刻み込まれた。


――母さんは僕を捨てたんだ――


 この傷は中々癒える事は無かった。小学生になって、もっと色々見える世界が広がれば広がるほど、俺の傷は深くなっていった。他の奴等は皆両親揃って幸せそうな家庭を築いているのに、何故俺だけがこんな孤独を味わわなければならないのか? 一体、この世に母親に捨てられる事ほど悲しいことがあるだろうか?


 何故だ? 何故だ? 何故だ? 疑問符ばかりが頭を飛び交い、俺の悲しみはいつしか憎しみに変わっていった。そして俺はある結論を導きだした。つまり、母は親失格のロクデナシっていう事だ。ホロスコープだか何だか知らないが、人の親ならそんな物に従うよりも、キチンと子供を育てるべきなのだ。俺は何か間違っているだろうか?


 出口の見えない痛みはその後もジワジワと俺の心を蝕んでいった。何度も父に母が居なくなった理由を訊ねたが、父は

「ホロスコープで決まっていた事」

その一点張りだった。

「じゃあ、父さんは、母さんが出て行く事を知りながら、結婚したの?」

俺は素朴な疑問をぶつけてみた。父は遠くを見るような目で、

「そうだよ。母さんと婚約した時に、母さんのホロスコープを見せてもらったんだ。母さんはこう言ったよ『この通り、私の運命は貴方と結婚して、その後時が来たら貴方と別れる事になっているみたいだわ……何故別れなきゃならないのか、その時が来るまで分からないけど、それでも構わないの?』ってね」

「父さんは何て答えたの?」

「『それでも構わない。俺は君と結婚したいんだ』って言ったさ」

俺は絶句するしか無かった。二人は納得済みなのだから良いかも知れないが、俺にとっては理不尽この上ない。どうせ生まれるなら、死ぬまで仲良く別れることの無い両親の元に生まれたかった。あの日以来、母の愛を味わえなかった俺は、いつしか強烈に女に愛されたい、と思うようになっていた。

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