小説と絵について

 漫画が描きたかったができなかったので、小説を書いたとか、絵が描きたかったができなかったから小説を書いたとか、……ができなかったから小説へという話をよく聞いた。

 これは、新たなる道を見出したということで、良いことだと思われる。

 が、気になるのはこの逆のパターンを聞いたことがない。小説を書くことができなかったから漫画を描いた。または、イラストを描くことにした。とかだ。(もしかしたらあるのかもしれないが、まるで聞かない)絵やら漫画を描くのは重労働であり、大変であるというのは否定する気はないが、どうしてなのだろう?

 小説での絵の描写は、いわば作者と読者の共同作業にあたり、文で描かれている時点では、完成されているものではないような気がする。違いとすればその辺だろうか?

 髪の長い女の子が……と書いても、人によっては想像する絵が異なる。という感じだろう。


 そこで、絵よりも小説が秀でていると思しきことを考えてみた。


 1.絵が完成されていないところで、読者が絵を想像する権利を得ること。

 描写より絵を想像するのは、作業でなくその実、権利と考えており、イラストの少ない小説が好ましいと考えている。(イラストありでも面白ければいい。その場合は後で自分が想像した絵と、イラストがどう異なるかを後で答え合わせする。まるでちがっていたりするが)


 2.五感に訴える効果を持つこと。

 これは絵はほぼ視覚にしか訴えないが、文は五感を疑似的に刺激する。例えばトイレや下水道の中の絵でも悪臭を疑似体験できるかもしれないが、文章ならさらにそれが顕著に想像できると思う。


 3.感情に訴える効果があること。

 もちろん、絵も感情に訴えることができる。しかし、文の方が感情が直接脳に流し込まれる感じがある。

 


 2の五感に通じる話だが、ホラー系では、特に五感、特に痛覚に訴える描写がよくある。

 針を一本ずつ飲ますとか、針を爪の間にゆっくり差し込むとか。

 このあたりは、絵よりも小説の方が直接伝わる気がする。


 ちょっと書いてみた。うまく書けたかはわからないが。

 ゆっくりと人差し指の爪と柔肉の間に、細い針の先端が潜り込んでいく。僅かな圧力を指先に感じた。針が爪の隙間にもぐりこむ。尖った先が五ミリほどもぐりこんだ。じわりとした波打つような熱さの後で、うずきが突き抜けるように手に駆けあがってくる。

 針はさらに潜り込もうと少しづつ圧力を指先に伝えてきた。

 涙がにじむ。逃れようにも、拘束された体は動かすことができない。


 特に痛覚とかは、絵よりも小説が伝えるのに秀でているのではと思ったりするが、どうだろう?

 

 

 

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