第3話 また明日にしよう
新入生歓迎公演『青い鳥』の全公演日程が終了した週明けの月曜日。授業の終わりを告げる鐘の音。時刻は夕刻前である。
教室の内外で大勢の生徒が交錯し、学校中が春らしい浮ついた喧騒に包まれていた。クリーム色のブラウスに深い青色の小さなリボンタイ、そしてスカート。新しい制服はとても気に入っているが、その匂いを堪能してばかりもいられない。
わたしは全ての勇気を奮い立たせ、一路、演劇部の部室を目指した。
私立喜多高校は全校生徒数が千四百人と多く、写真部、茶道部、マンガ研究会など、文化系のクラブもたくさんあるが、それらには目もくれない。いの一番に入部して、やる気をアピールする作戦だ。
学校案内のパンフレットにあった通り、演劇部の部室は旧学生棟の二階にあった。
「はあ……」
いきなり100%混じりっけなしのため息を吐いてしまった。
「ふうっ」と、やはりため息のような深呼吸を三回。
高校に進学したら演劇部に入ると決めていた。決めてはいたんだけど……。全く未知の世界に飛び込む不安。なによりも、見知らぬ集団の中に入らなければならないことが苦痛でしかない。
『か、か亀岡香月です。ちゅ、中学校では放送部でした。特にこれといった活動はしてませんでしたが……よ、よろしくお願いしまふ。あっ、します……』
ほらね。脳内シミュレーションでも噛んじゃった。しかも、図らずも放送部の
自己紹介をすることを考えただけでストレスを感じる。一発芸をしろとか言われたら、どうしよう……?
ああ、お腹が痛い。今日はやめといて、また明日にしようかな……。
『また明日にしよう』
そう、それは魔法の言葉。甘美な誘惑は、わたしの心を鷲掴み。はっきり言って『ありがとう』よりも、使用頻度は多いに違いない。座右の銘にしたいくらい。
わたしは魔法の言葉を唱えてみた。すると、どうでしょう。ストレスで重くなっていた足取りが、みるみる軽くなっていくではありませんか……!
演劇部の部室に背を向けたとき、『お姉ちゃん、お姉ちゃん』という声と共に、わたしは背後から制服を引っ張られた。
振り返ってみると、少し太めの小学校高学年くらいの男の子が、わたしに無邪気な笑顔を向けていた。彼は間違いなく、現実世界の少年。男の子は黒い犬を連れいて私服であるところを見ると、本当に近所に住んでいるのかも知れない。
子供はあんまり好きじゃない。犬も以下同文。黒い犬は歯を剥き出し、「うぅ〜」と低い唸り声を発していた。
「えっと、何かな……?」
わたしの顔は、完全に引きつっていた。その時、
「ブーッ!」
と、男の子はわたしの鼻先を人差し指で力いっぱい押した。
「キャッ!」
何が起こったのか一瞬分からなかったが、転びそうになるのを何とか耐えた。
見ると、男の子は既にはるか向こうへと逃げていて、
「ブザー! ブザー!」
と、囃し立てていた。
「くぉるあああっ!! このクソガキ!」
などと、怒鳴り散らすことができたら、どれだけ気持ちの良いことでしょう。だけど、わたしにそんな勇気があるはずもなく……。
「ブザー! ブザー!」
男の子は飽きることなく囃し立てながら、黒い犬と共に走り去って行った。
あの先輩が演じていた少年とは大違い。ただの憎たらしいクソガキ。
……鼻が痛い。わたしのだんご鼻をそんなに気に入っていただけましたか。
鼻血は出ていなかったが、もし出ていたらあまりの情けなさに泣いていただろう。どうして、わたしだけがこんな目に。不幸すぎる。
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